宗像信生氏〔ガン研究所〕弔辞   田香先生、突然の訃報に接し、先生の作曲された「土佐古謡による哀歌」の痛惜 のリフレイン、「おうて別れのなけりゃよい」が胸を駆け巡り、止める術もありま せん。息子の通う高田中学校のPTA 会報に、シンガーソングライターとしてご活躍 の山下達郎さんが、在学時の思い出を書かれた中に、「私達のロックバンドに理解 を示して音楽室を開放してくださった田香先生、いまどうしていらっしゃるでしょ う。」という一文があり、これと昨年ハンガリーで聞いた音楽の事などを書いた 手紙を投函しようとしていた矢先の事でした。  先生は土佐のご出身で、平井康三郎に師事し東京芸術大学で作曲を学ばれ、1953 年から中学校の教壇に立たれました。  40年余り前の春、先生は幼く生意気な中学一年生の前に姿を現わし、ひたむき に美しいものを求め、伝えんとする溢れんばかりの熱情で魅了されました。権威、 権勢には一瞥だにされず、みづからの耳と目に依って最高の美を究めんとする厳し さは、伝統芸能とくに義太夫音楽への傾倒によって、さらに磨きがかかりました。 私も、できぬものとは知りながら太桿を手にし、たどたどしく先生の義太夫にお供 させていただいたこと、また先生のご努力により実現した団司、小住の東京での 最後の舞台など、忘れ得ぬ記憶を残させていただきました。  先生は一貫して、日本音楽の旋法理論とそれに基づく和声法の構築に傾中されま したが、1991年の秋頃、その理論の実践として、朔太郎の詩による「広瀬川」の 楽譜を送ってこられました。一見して演奏不可能でしばらく放置しておりましたが 、「どのように響くか知りたいのに演奏する人がいない」とこぼされましたので、 当時始めていましたパソコン、シンセサイザーによる演奏を試み、これに声を重ね て録音してお送りしました。初めは、納得いかぬ口ぶりでしたが、しばらくして、 何とかなるかもという幻想を抱かれたようで、その後、2年あまりの間、堰を切っ たように次々と、おもに朔太郎の詩による新作と、書き留めておられた歌曲の改作 、数十曲を送ってこられました。次から次へと新たな楽想を得られ、なにかに憑か れたように沸き上がる創造力に唖然とし、驚愕しながら、お手伝させていただいた 事を幸せに思います。最後まで OK が出なかったのは、宮沢賢治の詩「みさかえは あれ、かがやきの、雨としめりの黒土に。」による「祈りの歌」で、これには「ま だまだだねェ。」を繰り返されました。  先生は、賢明なる令夫人に支えられ、音楽の道に進んだご子息を育て、すべてに おいて、生きることと音楽することを一致させた羨ましい生涯を送られました。 最後に、音楽は永遠に完結することのない祈りの歌であるという境地に到達された のではないか、と私には思えます。  ここに、残されたもののつたない祈りの歌を捧げ、此岸でのお別れのことばとさ せていただきます。  1997年2月1日  宗像信生