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風景桂林独好!



1996/04/25
朝7時、桂林に到着・さっそくおなじみ陽朔へ向かう。駅前からミニバスで一時間ほど。ここは93年に我々が出会った地なのであった。定宿に入る。バス・シャワー共同のツインが30元。向かいは青々とした山。まちなかの四海飯店で、相棒がどうしたわけだかステーキなぞを食す。10元。そぞろ歩きを楽しむ。いい季節だ。


1996/04/26
朝食に骨頭粥を食べる。牛の背骨の塊を入れて炊いた粥。すばらしいスープの味がする。あさつきと白胡椒でいただく。

ミニバスで郊外の農村、普益鎮へ行く。何も特別なことはなく、散歩を楽しんでかえってきた。市場で鯉を一匹購入。宿の一階の飯屋で紅焼にしてもらう。酸筍ときくらげと豚肉炒めもの、白菜の炒め煮とあわせて、豪勢な昼食。夕方になっても空腹感がおとずれず、夕食抜き。


1996/04/27
朝食を、陽朔に腐るほどある洋食屋でとる。食後、鉄製の網を一枚購入、鶏一匹、牛肉いくらか、小ぶりの鯉を2匹、胡椒と唐辛子と塩を少しずつ、木炭をバケツいっぱい買いこんで、河原へBBQに行く。

木炭を着火するのに難儀する。釣竿を持って河原にきた小学生にお願いしたら、あっさりつけてくれた。何事にもやり方というのはあるもんである。子ども4人にBBQを勧めると、明らかに食べたそうなのに、恥ずかしがってなかなか食べに来ない。押し付けるようにして渡すと。やっと受け取り。ぱくぱく食べはじめた。実にかわいらしい。

鶏美味し。鯉はBBQにはちと大きすぎ。

食後の後片付け。鉄網を捨てられるようなところが近所に無いかコドモに聞くと。仲間内で相談して、食べ物のお礼に持っていってやると言うのだった。なんていい子たちだろう。素っ裸で泳ぎ、とても恥ずかしそうに笑いさんざめきながら河原へあがってくるのだった。

相棒が、自分も子どものころははだしで学校へ行くのがかっこよかったと言い、ちょっとびっくりする。


1996/04/28
9時起床。貸しちゃりをチャーターした小船に乗せて、福利鎮へ行った。船のチャーター代は40元。本日は福利に定期市が立つ日。なかなかの賑わいである。1時半に福利を出て、ちゃりで帰ってきた。帰り道は山有り谷ありトンネルあり、へっとへと。よく考えると朝食も昼食もまだ食べてない。

鯉を22元で買って、また紅焼にしてもらう。酸筍ときくらげと豚肉炒めものも。酸筍は、竹の多いこの地方の名産で、特別おいしい。


1996/04/29
昨日夕方5時ごろ、ちょっと横になるつもりで気づいたら今朝8時。昨日のサイクリングがよほどこたえたらしい。気づいたら香港出発以来、ベルトの穴三つ分やせている。病気をしたせいもあるだろう。

本日はガイド(近所の農民)をやとって農村サイクリング・

田んぼのあぜ道を抜け、駱駝山のわきを通って大溶樹(バンヤンツリー)のたもとへ2時間半。マウンテンバイクは、思うに手足が長くて胴の短い人種用だ。私が乗ると前傾姿勢が苦しくてたまらん。ずっと乗ってると、手のひらにタコができそうだ。

大溶樹公園、入場料が12元に値上がりしててびっくり。ただの樹のくせにー!誰がこの金をフトコロにいれているのであろう。結局入場せず。

月亮山へ行く。登る。天気に恵まれず、あまり見通しがよくない、降りる。へとへとである。

放し飼いの鶏を「土鶏」あるいは「農家鶏」という。ブロイラーは「飼料鶏」。ガイドさんの家で土鶏を料理してもらう。自転車にのり、山に登って下りてきた、ぐうぐうのお腹でがつがつ食べた。土鶏の皮や肉はブロイラーに比べてたいそう黄色く、強い歯ごたえがある。味も濃い。ぐふぐふぐふ。

白米が輝くように白く、また美味かった。尋ねると、自分ちの田の新米だからうまいのだ、との誇らしげなお答えであった。この季節になんで新米やねんと思ったが、このへんは二期作で、4月と9月に収穫があるのだそうだ。

2年前と同じく、ガイドさんのノートに感想を記入して、陽朔へ帰った。


そしてこれが本日会心の一枚。




























一日チャリにのると。尻が痛くてたまらん。日本のママちゃりのようにふわふわしたサドルではないためだ。私はまだマシだが、骨の上に皮一枚張ってみましたという相棒の尻では、ほんとに辛そうだ。私もそうそう他人の尻を比べたわけではないが、相棒の尻は私が知る限りで一番肉のない尻である。うちの父よりまだないなあ。


1996/04/30
本日は休息日。誰が何と言おうと一日ぼけぼけすべしと決めて、朝から晩までCafeをはしご。陽朔にはこの手の外人向け飯屋が掃いて捨てるほどある。手紙をかいたり、ぼーっとしたり、ビールを飲んだりする。

なにしろ陽朔に着いてから、第1日;普益へ行く、第二日;河原でBBQ、第三日;船で福利へゆき、ちゃりで帰ってくる、第四日;サイクリングと月亮山登山、と、これでは私本来の旅ではありえない、もりだくさんすぎじゃい。それに私は本来アウトドアな方じゃないのだ。

朝ベルトをしめると、出発以来から穴4つ分痩せていた。このままではまた病気で倒れる。絶対に。

朝食のこと。

中国人は注文したものは「みんなで」食べるという常識がある。しかし私は日本人なのでそうではない。というか、中華を食べるときにはもちろ中国人ルールに従うが、洋食とか日本食の時には、好きなものを自分で注文して、自分で食べる。しかし、相棒はそうではない。

例えばこうである。

本日朝食時、私はヨーグルトとフレンチトーストを注文した。相棒はヨーグルトと(なんと)カレーライスである。朝から。

そしてこの時、相棒の考えでは、自分はカレーライス半分とフレンチトースト半分を食べるというのが常識なのだ。ところが私は、フレンチトーストを注文したのは私なのだし、これは私が食べるものと、つい思っちゃう。だから、「私の」フレンチトーストをばくばく食べる。すると相棒は、私を利己的な奴だとなじるのであった。

そんな事言われたって、私はフレンチトーストを食べたくて頼んだんだし、朝からカレーなんか食べたくない。できれば見たくもない。(向かいで食うな)しかし相棒はうれしくなさそうだ。

どうすればいいいのかなあ?

カレーといえば、昔、香港ジャスコの中の日本風ファミレスで私がカレー、相棒がうな重を食べたとき、やはり「注文したものはみなで食べる」思想の相棒が、100%親切で私のカレー(のカレールウ)の上に、うなぎを一切れ乗せてくれたことがあった。つい、酢を飲んだような顔をしちゃったよ、私は。

これからもきっとあるだろう。深く考えんとこう。


1996/05/01
興坪鎮へ行く。今回は福利鎮を経由してミニバスでの日帰り旅行。バスで一時間ぐらいか。2年以上前に来た とき、興坪の河べりに建築中のホテルがあり、景色を見るには抜群のロケーションであったため、ちょっと ぐらい高くても泊まってみようと考えたのであった。

しかし、台湾人オーナーの資金繰りが悪いらしく、工事はほとんど進んでいなかった。がっかり。

徒歩で田螺岩へ向かう。たにしそっくりのかたちの岩山の横に、観音を祭った祠がある。太陽かんかん 照りの川原を3キロぐらい、しかも往復したのでもうへとへと。上海で買ったUV乳液を塗りもって歩いた ので、サイアクの日焼けは免れる。よく効くぞ、40元。

バスで陽朔へ帰ると、今夜は帰らないつもりでチェックアウトして出てきてしまった定宿がいっぱいになっており、しかたなく別の宿を探す。西朗山飯店。ツイン、シャワートイレ付きで40元。たいそう古い建物で、床が板張り、ベッドもギシギシの骨董品。めったに客が来ないらしく、カビ臭い部屋であった。


1996/05/02
陽朔を離れ、興安という街に行ってみることにした。

興安は秦始皇帝がベトナムを攻めるときに作った運河、「霊渠」が現存する街である。これによって湖 南省を流れる長江支流のひとつ相江と、広西省を流れる珠江の支流離江が連結され、ふたつの流域 がつながったことになる。

これら二つの流域では水位がちがうので、興安に大小天平と呼ばれる堰を設けて調節してあるのだ が、その技術と計算が、現在の土木技術の水準を以ってしても驚嘆に値する正確さなのだという・・・。だからこんにちでも現役で使われているわけだ。

さてさて、出発。ところが桂林行きのミニバスがない。一台もない。なんでや?

バス停などで事情をききまくると、なんとストライキ実行中なのだと。桂林駅前で客引き(というか客の 争奪戦)をしていたミニバスを、警察が交通整理にあたったところ、そのやり方に不満をもったバスの運 転手たちが、スト実行に及んだんだそうだ。

社会主義国でもストってあるのか。労働者が主役の国なんで、職務に不満を持つことなどありえず、よってストライキは存在しないはずじゃなかったのかなあ。という建前はさておき、実際にストが許されるような国だとは思ってなかったんで、なんか貴重なもん見たという気がする。 陽朔を通過して桂林へゆくバスを拾い、乗せてもらう。なんとびっくり、ストは陽朔だけではなく、桂林か らいくつかの街へ向かうバス路線も含まれていた。運の悪いことに、興安行きのバスもスト中なのであ った。

仕方なく、列車で行くことにする。63キロを1時間45分かけて走る列車のキップは3元。早く乗って席を 確保したかったら、「茶座票」というチケットを買って、ちがう入り口から他人より早くプラットフォームに 出してもらうことが出来る。(なんじゃそりゃ・・・)

興安到着。霊渠公園の中にある興安霊渠飯店に投宿。見どころ大小天平まで歩いて10分ぐらい。運 河に定量の水を流す(あるいは運河から逃がす)ための堰である大小天平は斜めに築かれていて、は め込まれた石が魚のうろこのように見える。始皇帝の時代から、2度の修復を経て現役なのだ。感動だ 。

しかしこの頭痛は何事じゃい。そしてねばっこい緑色の鼻水よ。かんでもかんでもわいてくるぞ。熱もあ るようだ。薬は桂林に預けてきた荷物の中だ。こんな時になあ。休むことしか出来ない。



1996/05/03
起床、もう一度大小天平へ行くも、頭痛のためあまり楽しめない。体を引きずるようにして近所の四賢 祠へ行くと、清代の石碑を幹に呑み込んでさらに成長しつづける古木があった。樹齢千年に近いそうだ 。相棒が、幹に両手と額をを付けて瞑想してみろ、と言う。確かに頭痛がマシになったような気がする。 行きよりは少し速い列車で桂林へ戻る。バスはまだストライキ中である。1時間ぐらい。しかし席無し。 頭痛がぶりかえす。体もだるくなり、車両連結部でへたりこむ。




やっとこさ桂林到着、すぐに医者へ行く。たいしたことないが上呼吸器感染を起こしているとやらの診断 で、たいしたことないと言うわりには6種類もの謎のクスリを処方される。80元。しかも病院の薬局では なにやらこちらの風体を見た上で、「処方箋の薬代単価が間違っているので、あと40元追加しないとこ れだけの薬は出せない」と、なにげにぬかしよった。

「じゃあ、さっきの医者に確認してくるから」と処方箋をひったくると、なにやらごちゃごちゃ言ってけっき ょく薬を出した。もう中国で医者へ来るのはよそう。薬剤師がはっきり説明できた薬のうち、薬の箱などか ら正体が明らかな2種類のみを服用することにする。イブプロフェンとサルファ系の抗生物質であ った。

桂林にて一泊。


1996/05/04
体OK。

11時20分のバスで融水苗族自治県へ向かう。バスは11時50分に出発し、12時10分に桂林郊外の 草原の上で故障。運転手はタイヤをはずしたあと、草原にどっかりと座りこんだ。どないなるねん。

対向車にバス停への伝言を頼んで待つこと1時間、トラクターみたいな車がタイヤを運んできた。1時15 分に再出発。しかしその後、3回のエンストを経て、融水到着は夕方6時。ちなみに桂林-融水間は130 キロである。

チケット発券にコンピューターを導入するぐらいなら、バスをなんとかしてくれい。

融水県人民政府招待所に投宿。風呂付き60元。しかし、日没後に蚊が湧く湧く。恐るべき量が湧いて 出た。カーテンがごま塩模様なのでよく見たら蚊だった。目が認識したとたん、全身にトリハダがざざざと立った。

部屋を歩くと、歩いた所から煙のように蚊が立つ。蚊帳が各ベッドについてなかったらどうしようかという ところだ。1階なので空気か湿っており、ベッドがかび臭くて困った。二人で宿替えの相談をしながら寝 る。


1996/05/05
外人が泊まれるもうひとつの宿に行くと、部屋はこましなのだが 外人料金が倍で、腹立たしいので泊まってやらない。招待所の3人部屋30元シャワーなしに泊まること にする。風呂には入れないが、涼しいので気にならない。

融江支流の貝江沿いにある苗族村を訪問するツアーに参加。バスで行き、船で帰ってくる。ごはん付 きで一人70元なりなり。自力で村まで行く方法を聞きまくったが、車をチャーターするしか方法がない模様であった。

さて、バスで苗族村対岸に到着、船着場には民族衣装の子供たちが観光客を迎えにきていた。エライ 服を着せられて、エライ化粧をされている。しかし、コドモ自身は楽しそうだ。








苗族の楽器はなかなか印象的だった。笙のような竹製の楽器だが、大きさはさまざま。アルペンホル ンのように低音のものもあった。いっせいに和音を奏でると非常に好聴である。ターバンを巻いたじいさ まがバンマス(笑)らしく、じいさまの竹フルートに合わせて皆音を出している。じいさまが体を振り振り 笛を吹いている所は絵になった。民話のようでもあった。

笛を吹きながら踊る男性の中に一人、異様に踊りのうまい人がおり、ひときわ精彩を放っていた。どう 踊ろうが、しょせん観光客相手の見世物のはずなのだが、そんな感じではなく、足をぴっと出してはか ろやかに飛び回り、笛をふきならすのであった。実はそれまで「白老アイヌ村 アイヌ民俗ショー」とかを 思い出してなんだかわびしい気分になっていたのだが、そんなネガティブな感情を拭い去ってくれる熱 演であった。

さて、苗族の習慣。女性から男性への愛の告白は「足を踏む」という行為によって表現されるのだそう だ。かーわいいー!好きな女の子に足を踏まれた男の子はどんなにうれしいだろう。また、愛情表現 のひとつに「耳をひっぱる」というのもあるんだって。これもかわいいなあ。

歓迎の演奏&ダンスのあと食事、苗族の料理は正直言って中華とあんまりかわらなかった。食後 は酒盛り。女性たちが客の男性に米酒(薄いドブロク。甘くておいしい)をむりやりに勧め出した。まっか っかのウィンドブレーカーを着用に及んでいた相棒は真っ先に目をつけられ、湯のみいっぱいのドブロク を押しつけられている。必死で断っているのだが、周りは盛り上がるし、「苗族の酒は飲めないって言う の!」などと煽られるし、こういうときは世界共通で断れないものなのだ。

しきたり通り3杯も勧められ、また相棒もがんばって飲み干して拍手喝采を浴びてるんだもん、 びっくりだ。しかし、ヨソの女の人に耳を引っ張られながら酒を飲まされている我が夫を見るのは、なん だか妙な気分だのう。妙な気分になる自分をかわいいとも思うが。

あとで相棒に言われたが、こういうときに助けたかったら、「我幇Ni」(手伝ってあげるわ)といって相棒のかわりに飲むふりをすればいいそうなのだ。例えば妻ならそのことによって、この人は私の夫なの、だから他の人は手を出しちゃだめ、と明示でき、酒の無理強いも止められるんだってさ。中国流、奥が深い。私は横でゲラゲラ笑っているだけでした。


1996/05/06
朝7時のバスで桂林へ向かう。行きの小さいバスは馬力が無くて、坂道でしばしば牛のように遅くなっ ていたので、帰りは大きなバスをリクエストしたら、この時間しかなかったのだ。朝から雨。山道は非常 に滑りやすそうで、また霧も深い。で、バスは必然的に安全運転と言うわけで、桂林到着は1時であ る。ほぼ6時間。も一度書くが、桂林-融水間は130 キロである。

桂林駅で貴州省行きのキップを購入。我々の前にスウェーデン人の二人連れがいて、「キップを買うの がなんてむづかしい国なんだろう」とこぼす。もっともな愚痴である。キップが本物かどうか見てくれとい うので、私だってニセモノかどうかなんかわからないが、少なくとも行き先の都市名の漢字ぐらいは読 めるので、気はココロ、力強く「OK!」と言ってあげる。

さてわれわれの硬臥票は二人合わせてなんと244元という安さ。お金の節約のため、軟臥はやめよう ねという申し合わせを事前に交わしていたふたりであったが、こんなに安いのなら軟臥でもよかったか と早速日和りかける。いやいや、ゼイタクは禁物だ。その他駅施設使用費やら空調費やらでプラス24 元。

桂林から陽朔行きのバスをさがすも、いつもは駅前にいっぱいいるはずのミニバスが一台もない。まだ スト中なのか? 銀行で両替のついでにきくと、11路のバスで終点の平山まで行き、そこから歩いて 10分ぐらいの空き地にバスがいるとのこと。めんどくさーい。駅前での客引きを禁じられた挙句、この処 置が不満でバスはストを行っていたのだそうだ。客引きが悪質なので、ミニバスが桂林城内に入るの に規制をしたのだろうな。

しかし、不便なのはわれわれ利用者なのであった。特に今回はフル荷物なので、ローカルバスに乗る のがちとツライ。スリの心配もあるし。

バスを乗り換えて、陽朔へついたのが夕方4時。良く考えると朝からなにも食べていない。消化を考え て、スパゲティ(に似たもの)を食べると、疲れがどっと出て、風呂にも入らず、歯も磨かず、ツェツェバエ に刺されたように眠りこけてしまった。


1996/05/07
起床、8時。大雨である。川辺のこましなレストランでごはん、甲天下餐庁という店である。オーナーは 台湾人。あまりはやってません。朝ご飯セットが50元、ぶっかけごはんが15元、我々はもちろん後者を とったが、それでも高いなあ。

帰って12時半、また寝てしまった。頭痛がするので上呼吸器感染とやら再発か?と、残っていた薬を 飲んだら(文明人のすることではない)、何かに引き込まれるように眠りに落ちたのであった。起きたら3 時。

相棒が1斤7両の鯉を17元で買ってきた。下の飯屋で紅焼を頼むも、出てきてみたら清蒸になっててび っくり。どういうこっちゃい。清蒸でもそれほど臭みがないところが離江鯉魚のスゴイところだが、海っぱ た育ちの相棒は、それでも海魚しか清蒸にはできんという。私もそう思う。鯉の清蒸は失敗であった。 一食損した気分で一休み。いつのまにか雨は上がっている。

午後をうだうだと過ごす。荷物を整理し、本を読み、日記をつけた。

夜8時ごろ、軽く何か食べようと言う話になり、William's cafeとやらに入る。店は白木づくり、おおかた 常連になった外人の指導であろう、なかなか趣味の良いつくりである。注文したオレンジジュースは高 いほうのオレンジを使ってあるおいしいやつだった。相棒のジャスミンティーは素焼きの急須、小花模 様の部分にだけうわぐすりをかけてある凝ったもので、風情があった。

奥から、中国人男性にもかかわらず、珍しく24金以外のアクセサリー(木のチョーカーと象の骨のブレスレット) をつけた男が現われ、何者じゃいと思っていると、店のオーナーであった。

店にはなにやら不思議なプリミティブ水墨画がたくさんかけてある。全部同一作者だ。よく見ると5歳半 とか6歳とか、署名の横に書いてあるのであった。読めた。オーナーの息子なのだ。にゃるほどう。これが売りなのだな。この店は正式名をWilliam's "Art" Cafeといい、中文名は「芸友酒店」。奥は画廊になっていて、近隣の水墨画家の絵を展示販売しているそうな。

座っていると、することが無くなったらしいウェイトレスが琴を弾き出した。けっして上手くはないのだが、 いい風情である。他の店では外人向けに大ボリュームでうるさい音楽をかけまくっているので、ことの ほかこの静けさがヨロシイ。店の感じといい、東門のむげんどうを思い出すなあ。

ところで店には我々のほかにアジア人と白人の男性二人連れがおり、このふたりがまた西原理恵氏 ならホモセンサーのメーターが振りきれてしまうぐらい雰囲気丸だしなのであった。それだけなら別にどうでもいいことだが、アジア人のほうが中学時代の恩師M先生に見れば見るほどそっくりで、しかしM先 生といえば大学時代にはボクシング部に所属、対近大戦の秘密兵器と言われたほどのハードパンチャーなの で、その落差がおかしくてどうしても笑ってしまう。

彼らはうっふんいちゃいちゃという感じで茶を飲んでいる。我々としてもなんだか気まずい。

私は店から、オーナーの息子の個展のリーフレットを持って帰ってきたが、相棒は「捨ててしまえ」とむ べもない。聞くと、オーナーがさっきの外人カップルに子供の絵を600元で売ろうとして失敗したのを見 てなかったのか、だと。ふんがあ、そんなことがあったのかい。




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