デカルト忌


                      written by 岩屋山椒魚

   cogito ergo sum Descartes ( 1596 - 1650 )  人生は不可解である。どうでもいいことの答えはすぐ見つかるが、肝心なこ とはさっぱりわからない。  人間は何のために生まれ、何のために死んで行くのか。母親の穴の間から出 てきて、墓場の穴の中に入るまでどう生きればいいのか。その一生にどのよう な意味があるのか。万物の根源は何か。神は存在するのか。神が存在するとす れば人間の魂の復活もありうるのか。神が存在しないとすれば、人間は何をし ても許されるのか。  わからない。  そもそも、わからないと思う私とは何者であろうか。われ思う故にわれある とデカルトは言った。しかし、そんな風に思うだけで、私が本当に存在してい る証拠になるだろうか。もしかすると、私は誰かにマインドコントロ−ルされ ているのかもしれないし、誰かが書いた脚本通りに行動させられている大根役 者かもしれないのだ。いったい。私は何者だろう。主体なのか、客体なのか。 存在しているのか、存在していないのか。  わからない。  わからなければ、Let it be. Que sera sera. とわりきって生きればいいさ と浅薄な奴等は言う。しかし、私はそんな奴等は敬遠することにしている。賢 しらげにわりきったようなことを言う奴等よりも哲学的煩悶を抱いて悶々と眠 られぬ夜を過ごす者の方がまだ信用できる。  むかし、華厳の滝に身を投げて自殺した青年がいた。私もかってはそのよう な哲学青年の一人だった。人生が不可解であることを苦に病んだあげく、自殺 しようと思いつめ、こんな詩をつくった。   あなたは今すぐ死ぬべきだ   みじめにしみったれているだけの   愚かしく、うさんくさい存在は   さっさとこの世から消えた方がいい   うらめしそうなその眼   この世にまだ未練があるというのか   これ以上生きながらえても   レエゾンデ−トルのない山椒魚のくせに   もう一刻も躊躇は許されない   死ねるうちに死なないと   やがて死ねなくなる時がやってくる   その時になって悔いても遅いのだ   さあ愚図愚図せずに海へ行こう   白い波濤に身を投げるのだ   荒れ狂う波間で溺れ死に   水脹れのマグロになるがいい  詩を書きおえた私は、錦が浦へ向かった。むかしから自殺の名所として名高 いところである。いよいよ覚悟をきめて、崖の上から身を投げようとした時、 私はダイビングの姿勢のままで、一呼吸おき、二呼吸おき、そして三呼吸おい てしまった。その時の私の心理を察するに、どうやら誰かが背中からひきとめ て、「お若いの、お待ちなせぇ。死んで花見が咲くものか」と声をかけてくれ るのを待っていたらしいのである。  しかし、いつまで待っても、誰も声をかけてくれる人は現れなかった。仕方 がないので、私は自主的に投身自殺をあきらめ、生と死への絶望をいちだんと 深めながら、錦が浦の白い波濤から遠ざかった。  それから数十年の歳月がながれたが、私はまだおめおめと生きながらえてい る。「やがて死ねなくなる時がやってくる」とはよく言ったもので、諸般の事 情から本当に死ねなくなったのである。しかも、最近は、健康のためと称して ストレッチ体操などをはじめ、万歩計をぶらさげて散歩をするようになった。 そして、春になれば花見に行き、いっぱしの俳人ぶって、俳句などをひねった りする。今年の春は、   存在は花と知るべしデカルト忌 Au Descartes L'etre, c'est le nom de la fleur. という句を詠んだ。これをもって精神の成熟の証拠とみなすのはもしかすると 精神の堕落ではなかろうか。  デカルトが死んだのは、1650年2月11日。立春は過ぎていたが、春は まだ名のみで、花の季節とはいえなかった。草葉の蔭でデカルトが何と思って いるかはわからない。人生はまさに不可解というべきである。

© 1996 岩屋山椒魚

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