この度,機会があり米国カリフォルニア州ロサンゼル市のNobueさんとそのご親戚の方々を訪問することができました.以下はその報告記です.
NobueさんはSakae E.氏の8人のご子息の長女です.Sakae氏は福島県安達郡で農業を営んでいた筆者の祖父の弟にあたる方です.Sakae氏は大正時代にご両親,ご兄弟とハワイに移民されました.この時,筆者の祖父は,長男として家を守るべく日本に残り,自分の祖父母に育てられました.
Sakae氏は米国市民となるべく,地元の学校に通学し英語を学び,白人の元で勤労にいそしみ,やがて現地で大きな成功を収めます.日本食のレストランを経営したのです。結婚し8人の子供に恵まれ,8人の子供はそれぞれが現地で新たな人生をスタートさせます.ある者はハワイに残り,ある者は米国本土へと移住しました.Nobueさんもハワイからロサンゼルスに移住した一人です.
Sakae氏は祖国への強いあこがれを決して忘れることはありませんでした.何回か家族とともに来日し,中でも長女のNobueさんには,「日本で生活させたい」という強い希望から,本人は数ヶ月の滞在で米国に帰国したものの,福島県に残し,福島県の学校(高等科)に通学させました.Nobue氏は祖父の子息(その中には筆者の母も含まれる)と同世代のいとこどうしとして,兄弟のように生活しました.
第二次世界大戦開戦の噂が流れ,Nobue氏,Tokiko氏は日本を離れ,米国に帰国します.大戦中,一切の連絡が途絶えました.アメリカ市民となったものの,真珠湾攻撃により,ハワイに移民した日本人の多くが不当な差別を受けたことは周知の事実です.Sakae氏とその一族はどのようにしてこの苦難を乗り越えてきたのでしょうか.
やがて戦争が終結し,1年程経過したある日,ハワイから小包が祖父の元に届きます.その中にはカラフルなセーター,ワンピース,シャツとった古着とともに,コーヒー,チョコレートといった食品,柔らかい肌触りの生地等が梱包されていました.戦後の物不足の時代にあってこの贈り物は,祖父の家族の人々に大きな希望を与えました.
中でも,肌触りのよい生地については,和裁を得意とする祖父の次女がさまざまな服に仕立て上げました.その生地は実はおむつを作るためのものであったことが判明したのは,それから数年後のことでした.
その後,幾度かNobue氏,Tokiko氏らの来日があり,これに応え福島在住の筆者の叔父を中心として日本からのハワイ来訪も行われました.
米国市民となったNobue氏,Tokiko氏ら,日本語と英語の2ヶ国語を話し,日本に長期滞在した移民第1世代とその直接の子息,および,日本国内においてはこの世代と直接に交流を持った叔父の兄弟を中心とする世代を交流の第1世代とするならば,日本に長期滞在した体験を持たず,英語のみを話す米国の世代,および米国の第1世代と直接の交流を持たない筆者らの日本の世代は,交流の第2世代と呼ぶことができるでしょう.第1世代の交流のみならず, 第2世代の交流も進んでいます.ハワイ在住Kurokawa氏のご令息が語学講師として来日し筆者宅を訪問し,福島在住の筆者のいとこがふるさと創生基金の援助を得て,Nobue氏を来訪しました.筆者もハワイ在住Tokiko氏を来訪し,Nobue氏の長男Kazuto氏らとともに,盛大な歓迎を受けました.
筆者は1999年9月,勤務する学校の海外外研修に引率し,その際,Nobue氏と連絡を取り,Nobue氏の妹Yoko氏宅を訪問し,Nobue氏のご子息らとともに会食のもてなしを受けました.
待ち合わせ場所の大学病院前に,Nobue氏,Nobue氏の妹Yoko氏とMichiko氏,Yoko氏のご主人Shiro氏が迎えに来てくださいました.過去に直接お会いしたのはNobue氏のみでしたが,その他の方々とも親戚のように親しくさせていただきました.現在のNobue氏はハワイ在住のTokiko氏と非常によく似た顔立ちをされていました.
高速道路を走り約50分,Torranceという町のYoko氏宅に到着しました.さっそく,簡単な昼食です.海苔巻きといなり寿司でした.海苔巻きはアボガドを具にしたカリフォルニア巻きです.昼食をいただきながら,Shiro氏がSakae氏を中心に,家族関係を樹形図に書き表して行きます.1枚からはじまった図はやがて4枚,5枚と壮大な人間模様を描き出します.世代関係も明らかになっていきました.海苔巻きとともに,きゅうりのたまり漬け,缶詰の奈良漬けも頂戴しました.カリフォルニアには日本食を多く扱うマーケットもあります.
昼食が終わったところで,おみやげの交換が始まりました.日本からは手作りの梅干し,壁掛け,梅酒等が贈られました.Nobue氏からは,各種ナッツ類,ビーフジャーキー,チョコレート等が贈られました.互いの消息の確認から,教育や社会問題まで,Yoko氏宅でさまざまな話に花が咲きました.
「パソコン」とは何か?
「パーソナルコンピューター」のことです.
私はいまだに「アイロン」のことを「ひのし(火伸し)」と呼んでいる.
「アイロン」はiron (アィアン)から来たことばです.
日本の小中学校にはドラッグはないのか.
シンナー遊びをする中学生がいます.
(「シンナー遊び」はsniffing glueというそうです)
日本では学校が美しく清掃され,教師を生徒が尊敬している.
校内暴力が吹き荒れた時期もありました.
日本の味噌はみな赤味噌なのか.
赤味噌も白味噌も使います.あわせて使うこともあります.
カリフォルニアにはスペイン語を話す住民が増えている.小学校では英語とス
ペイン語の2ヶ国語教育を行っているが,きちんと英語を学習しないと,生活し
ていけない
日本でも外国人労働者,移民が増え,対応が遅れている.
日本では少なくなったとはいえ,いまだに40人のクラス規模です.
カリフォルニアでは20人以下にしようとしている.
日本の若者は内気で地域に溶け込もうとしない.たばこをKentではなく
「けぇんとぉ」といって買いにくる.
教科書から学んだ英語の弊害です.
外国人英語教師の日本での待遇は良いのか?
あまり良いとは言えません.1, 2年の契約で,簡単に解雇されます.
その他,お孫さん,曾孫さんたちのビデオを見たり,アルバムを拝見させていただいたりしました.アルバムにはハワイから米国本土に移住したNobue氏の歴史が刻まれていました.今でも数年に一度ハワイに親戚が集まり,大宴会を行うそうです.
夕方6時半過ぎ,中華料理店に移動しました.そこにはNobue氏のご子息の家族を中心に10名以上の方々が筆者を出迎えてくれました.ハンバーグとピザが主だった食事だったので,久々の東洋的な味に感激しました.家族全員に丁寧な紹介をしていただいた後,楽しい会食が始まりました.このレストランのオーナーは日本人で,メニューも日本語が印刷されていました.店内には大きな生け簀があり,注文したエビや魚を調理前に見せに来ます.中には,魚は一切食べない方や肉を一切食べない方もいらっしゃいました.Nobue氏ご長女のGima氏とNobue氏のご長男がいろいろと食事について筆者にアドバイスしてくれました.
学生の安全確認のため,9時には帰宅する必要があり,無理を言ってその場を中座させていただきました.帰りもShiro氏の運転で宿舎まで送っていただきました.
短い時間でしたが,Sakae氏から始まる歴史と,そこに登場する人々に綿々と受け継がれてきた心の温かさが実感できたひとときでした.
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