大学受験を目指してたあの頃、僕はごく普通の高校生だった。
キツイ勉強もなんとかこなして、それなりに友達作って遊んで、部活は何もしてなかったけど、つまんない生活じゃなかった。
どこで軌道が狂ってしまったのだろう。
ひとりの教師にターゲットにされた、その時からすべてが狂いだしたのだ。
一年のクラスには二十三人の男子生徒と、二十人の女子生徒がいた。
半分以上、彼らの顔なんて忘れてしまってる。
記憶にあるのは、仲のよかった数人の男子生徒。
そしてその頃ひそかに想いを寄せていたひとりの女子生徒。
今ではもう、彼女に対する気持ちがどんなものだったのかも思い出せない。
生活指導の教師に犯されてから、僕のクラスメートたちに対する見方は変化していたように思う。
僕のかかえてる真実を誰も知らぬまま、普通に過ぎていくすべての現実が、なんだか嘘臭く感じられた。
クラスの中で僕は何事もなかったみたいに普通にしようと努力していた。誰にも知られちゃいけなかった。たとえ僕が被害者であっても。
だから誰も本当のことなんて知らないままだった。
少しずつ、僕と彼らとの心の距離ができていった。それは僕が結局、誰も僕のことなんかわかってはくれないのだと、そんな風に思ったからだった。
毎日が苦痛の日々になった。それでも表面上はみんなと仲良くするフリをして、時折呼び出される教師の言うことを聞いていた。
そんな我慢の積み重ねが、とつぜん僕を壊したのだ。
嵐のように騒ぐ、周囲の大人たち。理由もなく教師に暴力を働いた悪い生徒として僕は扱われ、親にまで責められ、高校は退学になり、とうとう完全にひとりになった。
ひとりならひとりでも、どうにか生きて行ける。そう思って僕は修復できない家族関係を捨てて家を飛び出した。すべてにおいて、すさんでて投げやりだったから、いいかげんでボロ布のような生活を送った。その時はそれでよかった。
いま、思い起こすと、
そんな僕を見ている人間がいたなんて、まったく気づかなかった。
僕を知っている、誰か。
僕の知らない、誰か。
その人物がいったいどこの誰なのか、見当なんてつかない。
けれどその人物は、僕に平穏な生活を続かせてくれる気はないのかもしれない。
あの手紙の文面からは、そんな気配が伺えた。
手紙を読んでから、一週間が過ぎた。
何事もなく、平和だった。
三通続いた妙な手紙もあれから来なかったし、誰かが現われるようなこともなかった。
「もうすぐ夏休みだよな。今度、友達そろえて三日間くらいの旅行しないかって話が持ち上がってるんだけど、行く?」
月曜日の朝、朝食とってる最中に、相沢が世間話みたいな気軽さで切り出した。
「え? 僕も行っていいの?」
思わずそんな返事をする僕に、
「なに言ってんだ?」
相沢が呆れた顔をした。
「三日間の旅行だぞ? それなのにおまえひとりで留守番させろって言うのか? そんなことするくらいなら俺は即ことわるよ」
「三日間かぁ……。それくらいなら休み取れるけど」
その小旅行は僕を含めるとすれば、全部で五人になると言う。
それもまた、男ばっかりらしい。
「まぁ、手短く言っちゃえば、そのうちの半分くらいはナンパ目的みたいだけどな。うまく行くかどうかは知らないけど」
「ナンパって……。じゃあまた相沢はダシに使われるんだ?」
「ダシ?」
きょとんとして見返してくる相沢が可笑しくて、僕は笑った。
「ほら、ひとりくらい、いいのがいないと引っかかるものも引っかからないだろ? それで誘われたんじゃないかって」
「……うーん、そうかぁ?」
しきりに首を捻ってる。まぁ、あくまでも僕の想像だから、そんな真剣に悩んでくれなくてもいいんだけど。
「で、俺はナンパに参加する気は全然ないから、どうせ行くならおまえと一緒がいいってことで」
「いっそのこと、ふたりきりで行きたいな」
「ふたりかぁ。それもいいな」
「でも、友達なんだろ? その人たち」
「うん、まあな」
「じゃあ断わらなくてもいいんじゃない?」
僕がそう言ってしまったものだから、参加することに決まってしまった。
相沢の交友関係とかって、実はそんなに深く知らないから、いい機会だ。
さっそく僕はバイト先に休暇を申し出た。
あっさりと希望日に休みが取れて、夏休みが来るのを待った。
七月も、終わりの近づいた頃。
夏ってのはホントに暑くて辛いけど、そんな時期に旅行ってのも悪い気はしない。
旅行先は海の綺麗なS県T市に決まり、三日間という短い期間だけど、とことん遊んでやろうと思った。
旅行メンバーたちを旅行前に紹介するとかいう話になってたのに、なかなか会えず、結局当日になるまで顔も合わせられなかった。
他に人がいる分、相沢と恋人らしい行動なんてできないけど、たまには普通の若者らしく遊んでみるのもいい。高校中退してからずっと、僕は今どきの若者らしい生活なんてホントしてなかったから、考えるだけでもすごく新鮮な気がしてた。
集合場所は駅前。人の形をデザイン化したような銅像が飾られてあるところ。
荷物を持った僕と相沢は、待ち合わせ時間より十分ほど早く着いてしまった。
「誰も来てないなー。そうだろうと思ってたけど」
「ふぅーん、なかなかルーズな友達だねー」
僕が言うと相沢が苦笑した。
荷物を持ってその辺ウロウロするのも面倒だったから、僕も相沢も銅像の前で足を止めた。
僕と相沢がそこで待ちはじめて三分くらい経ったころ、すぐ近くで「あっ」と小さく叫ぶ女の子の声がした。
「この人、雑誌で見たよー」
「えーマジ? 何の雑誌よぉ」
小さい声で叫ぶような会話。まる聞こえだって。
女の子ふたりで、誰か他の人を待ってる感じ。
バイト先でならともかく、そこら辺でうろうろしてても見つける人っていなかったのにな。
世の中、結構狭いのかも。
女の子ふたりはチラチラとこっち見て何か言い合ってるだけで、声かけてこなかったからそのままにさせた。いざという時にはシラを切ろう。
ふと、違う方向から視線らしきものを感じたから、またかと思いながらなにげなく目を向けた。駅前だから、人はそれなりにたくさんいる。でも、新宿や渋谷みたいなメジャーなとこじゃないから、膨大な人数はいない。
だけど。
視線の主が見つからなかった。
気のせいと片付けたかったけど、そうできない何かがあった。
嫌な感じ……とでも言えばいいのか。
「あっ、遅いぞーおまえら」
相沢の声で僕はハッとした。その直後、さっきの嫌な感じが消えていた。
どこかへ消えたらしい。
僕と相沢の目の前には、三人の若者が立っている。
「わりぃわりぃ、こいつがよー、ちぃっとも起きなくてよー」
薄い茶髪の若者が嫌味込めて指差した先には、全然申し訳なさそうじゃなく笑っている、平和そうな黒髪長髪の若者。その隣には、濃いめの茶髪の若者がそんなふたりを見て笑っていた。
「紹介するよ。右から、鮎川巧実(あゆかわたくみ)、紀ノ瀬祐汰(きのせゆうた)、岩本一里(いわもとかずさと)」
濃い茶髪、黒髪長髪、薄い茶髪の順だった。
「そしてこっちが今、俺と一緒に住んでる久我悟瑠」
「よろしく」
僕が言うと、濃い茶髪の鮎川巧実が「あーっ、知ってる」って叫んだ。
「雑誌見たよー。そこでモデルやってるでしょ。あれってギャラいくら?」
いきなり言うから、僕は圧倒されて、なんと答えたらいいのやらわかんなくなった。
「へー、モデルなんてやってんだ。すげー」
紀ノ瀬が感心したような声で言う。
「モデルって、もっとタッパねーと出来ねぇんじゃねえの?」
岩本が疑うような目で僕をじろじろと眺めた。
「今日は、そういうのナシで、普通に扱ってほしいんだけど」
僕が言うと三人が顔を見合わせた。
「まー、いいけどな。相沢の友達なんだし」
代表のように、鮎川が言った。
電車に乗り込んで、喋っているうちに打ち解けた。
もともと相沢の友達だし、話してみると意外に距離を感じない。
電車をふたつくらい乗り換えて、S県に着いた時には自分の同級生と話してるような気分になってた。
T市に入って、バスに乗った。旅館はバスで十分くらいのところにあるそうだ。
相沢と並んでバスの座席に腰掛けた。移動だけで、少し疲れて眠くなってきた。
いつの間にかウトウトして、相沢の肩にもたれてたのに気づいた時、僕は心底からドキリとした。
今はふたりきりじゃなくて、他の人たちと一緒なんだ。
それだけは忘れちゃいけなかった。
旅館に着いた。 部屋はふたりと三人に別れてふたつ予約してあった。
もちろん、僕と相沢は一緒。
だからって、うかれちゃいけない。
フスマを隔てた隣同士、Hな真似なんかしたら筒抜けだ。
着いた時にはもう夕方だったから、僕たちみんなで温泉に入ることになった。相沢がちょっと嫌そうな顔したけど、何も言わなかった。
相沢が何を気にしたかはわかってた。温泉ってことは当然、裸になるから、僕を他の奴らに見せるのが嫌だったんだと思う。けど、普通、同性同士で意識することなんかそうそうないから、僕はあんまり気にしてなかった。
相沢が一緒にいるんだから、何の心配もする必要がなかった。
温泉は結構、混んでいた。
夏休みで海の近くということで、若者が多く遊びに来ているらしい。あとは家族連れが多かった。いつの間にかみんなバラバラになってたみたいで、他の三人がそれぞれ離れたところにいた。僕と言えば、相沢の傍から離れない。
「こういうのも、たまにはいいね。ゆったりできて」
「やっぱりふたりきりで来ればよかったって、後悔してるよ俺は」
「なんでだよ。こんなとこで僕の裸なんか喜んで見る奴なんて、相沢だけだろ」
「……そうだけどさ」
相沢がちょっとすねた。
「でもちょっと無防備すぎるんだよ、おまえは」
「なに言ってんの。普通だよ」
僕が笑うと相沢がため息ついてた。
その時。
視線を感じて僕は顔を横に向けた。
けれど、どこにも僕を見ている人なんていなかった。気のせいか……。
神経過敏にでもなってるんだろうか。まさか。そんなはずない。
気を取り直した時、また視線を感じた。
気のせいなんかじゃない。
確実に誰かが僕を見ている。
なのに視線の主は見つけることができなかった。
……誰なんだ?
その疑問を僕は、相沢には言わなかった。
もしかしたら、本当に神経質になってただけかもしれないし……。
相沢と一緒に温泉から出た。他の三人がどこに行ったのか、さっぱりわからない。
相沢に訊いたら、「ナンパじゃないか? もともとそれが目的なんだから」と言われた。
三人ともみんな、見てくれは悪くなかった。いくらでもモテるんじゃないかと思うのに、なんでわざわざ遠くの地でナンパなんかするんだろう。不思議だ。
相沢が一緒なのも、別にダシに使うつもりじゃなかったみたいだし。
……じゃあ、なんで誘ったんだろう?
完全に、別行動してるし。
それを相沢に言ったらこう返ってきた。
「俺が、俺たちのことはほっといて、勝手に遊んできていいぞって言ったからじゃないか? 俺と悟瑠はふたりで行動するからって」
……なるほど。
浴衣姿で僕と相沢は部屋に戻った。他の三人は戻っていなかった。
なんとなく荷物を整理しようと思って僕は自分のバッグを開けた。
……?
何か入ってる。
……手紙?
白い封筒に手紙が入っている、らしい。
宛名もなければ差出人もない。
なんだこれは?
「悟瑠、何か飲み物買ってくるけど、何がいい?」
「え……ああ、スポーツドリンク」
「ちょっと行ってくる」
「……う、うん」
部屋から相沢が出て行ってしまった。僕は、この不審なもののことを言いそびれた。
封筒から手紙を取り出して開いた。
文章が連ねてある。どこかで見た字だった。
久我悟瑠くんへ──。
手紙はそこから始まっている。
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