慌てて駆けこんだ病室のベッドで、相沢は落ち着いていた。 ……というか、くつろいでた。 さんざん心配させといて、こう余裕でいられると、ムカつくとゆーか、なんとゆーか……。 「ほんっとに心配したんだ。こっちが死ぬかと思うくらい。なのに顔色はいいし、くつろいでるし!」 ベッドの傍の椅子に腰掛けて、僕は文句を言った。 六人部屋で、カーテンの向こうに他に人いるけど、そんなことはどうでもいい。 「足が固定されてるだろ? 寝返りもうてないんだぞ? 今は麻酔きいてるから平気そうに見えるけど、本当はすごく痛いんだぞ」 怒る僕に対して相沢も不満そうにしてる。 「だいたい何でいきなり交通事故に遭ったりしたんだ。何の予告もなく!」 「事故に予告なんか出来ないだろー?」 相沢が呆れたようにため息ついた。 「ちょうど友達と歩いてた時に、車が物凄い勢いで突っ込んできたんだ。ギリギリのとこでうまくかわそうとしたんだけど、右足だけ庇えなかった。いきなりのことで、何がどうなったのかよく覚えてないんだけどな。友達の方は無傷だったよ」 「ナンバーとか、運転手の顔とかは」 「そんなの見てる余裕なんかなかったよ。しかも逃げられたしね」 「どこのどいつなんだ……」 怒りのあまりに握りしめた手に力が入る。 「全治一ヵ月だけど、途中で退院できるし。松葉杖があれば問題なく生活できる。通院は続くけど」 僕をなだめるような口調のあと、相沢がいたずらっぽく笑った。 「夜は何もできないけどな」 かあっと顔が熱くなった。いきなり何を言うんだ、こいつは。 同室の人に聞こえるじゃんか。 相沢が急に真剣な顔になった。 「退院できるまでは、しばらく一人になるけど……大丈夫か?」 「何言ってんだよ。子供じゃあるまいし」 「いろいろ問題あるから、余計心配なんだ」 「大丈夫だよ」 僕はムリヤリ笑った。 相沢の心配は本気だった。だから僕は笑ってみせた。 安心させるために。 「もともと僕は独り暮らししてた人だろ。相沢がいなくたって、ちゃんと人間らしい生活するしさ。僕の心配するよりも、早く治すことの方が大切だよ」 「悟瑠……」 相沢の手が伸びて、僕の頬をとらえた。どうせカーテンが閉まっているんだから、誰にも見えやしない。僕は相沢の方へ身体を寄せた。 動けない相沢の代わりに僕が顔を近づけた。唇が重なる。 何かを惜しむような長い長いキスをした。 ファミレスのバイトは順調だった。変な客もいないし、おかしな手紙もない。 「交通事故?」 尾崎さんに相沢の骨折のことを話した。それでしばらくの間、入院すると言うと、意味ありげに「ふうん」と言った。 「彼がいない間、ひとり寝は寂しいね」 「そんなことないですよ」 空気が妙な方向に行こうとしたから修正した。そしたら尾崎さんが残念そうな顔をする。 「どんどんガードが固くなっていくね、きみは」 「そうですか?」 「出会ってすぐに手に入れとけばよかったと後悔しているよ」 ため息つきつつ尾崎さんが呟いた。 冗談なのか本気なのかよくわからない態度と言い回しだった。 「まあでも、お大事にって伝えといてもらえないかな」 「いいですよ」 ドアが開いて新しい客が入って来た。見覚えがあると思ったら、こないだ一緒に旅行した仲間だった。 鮎川巧実。 たしかそんな名前だったな。 「いらっしゃいませ」 水とおしぼりとメニューを持って行った。鮎川が僕に気づく。 「おやー? こんなとこでも働いてんの? よく働くねー」 「ひとり?」 「そうそう。本当ならね、こういうとこは彼女と来るべきとこなわけよ。けどさあ、不幸なことに彼女がいないわけですよ。寂しいねえ」 鮎川はメニューを受け取って眺めた。 「じゃあ、注文決まったら呼んで」 「はいはい」 僕が戻って来ると、尾崎さんが難しい顔をしてた。 「……知り合い?」 「なんで険しい顔してんですか」 「いや……なんか嫌だなと思って」 「なにがですか」 「なんとなく正体隠してるって感じがしてね」 「考えすぎですよ」 確かにカルイところはあるけど、別に嫌な奴じゃないし。 「観察癖はやめて、仕事しましょうよ」 「ちゃんとしてるよ」 不満そうな顔された。 鮎川の注文はバイトの女の子が受けていた。暗いけどむりやり明るくしてるような雰囲気はないし、隠してる正体があるようにも見えない。 なんで尾崎さんはそんな風に見えたんだろう? 忙しく仕事してたら、鮎川は知らないうちにいなくなっていた。帰ったらしい。ちょうど今は昼時だから、たまたま寄った店がここだったんだろな。 帰り際、病院に寄った。話題に、鮎川がうちの店に来たことが出た。 相沢は、少し微妙な表情をした。 「まだ付き合い浅いせいかもしれないんだけど、鮎川ってつかみにくいとこあるんだよな。手のうちを見せないタイプっていうか……」 「相沢まで」 「までって?」 僕は尾崎さんが言っていた、鮎川に対する感想を話した。 「……裏がありそうに見える?」 よくわからなくて首をひねっていると、相沢まで同じように首を傾げてた。 「正体隠すってのも大袈裟かもな。でも別に暗いわけじゃないし、裏表があるような気もしないんだけどな……俺もよくわかんないんだけど」 ちょっとしか会ったことがないから、僕にはなおさら判断ができない。 「そうだな……俺、大学でいろいろ友達づきあいしてた時、あいつ、いつの間にかそこにいたって感じだったな」 「いつの間にか仲間になってた?」 「そう。そんな感じ。で、気がついたら、さらに近くにいた、みたいな」 「なにそれ」 へんなの。 「実はさっき見舞に来たんだよ。紀ノ瀬と一緒に。手土産なんにもなくてさ」 相沢がふざけて、わざと不満そうな顔をした。すぐに表情が戻る。 「……正体隠してる、かぁ。いつも通りだったけどな」 「先入観がない方が、いろいろ見えるってこと、あるかな?」 「……なくはない、と思うけど」 だからなんなんだ、という言葉が脳裏を走った。尾崎さんの発した一言から、まるで疑うように検証してるなんて。いったい彼の何を疑うんだ? 人間なんて誰でも必ず一面以外の顔は持ってる。複雑に出来てるんだから。 椅子から立ち上がった。 「そろそろ帰るよ。面会時間すぎると看護婦さんに怒られちゃうしね」 「忘れ物」 相沢が唇を指差した。僕は苦笑した。 「仕方ないなあ」 なんて言いながらも、実は喜んでキスしてやったりする。 キス以上のことが何も出来ないのは、やっぱり少し寂しい。けどそんなことは一言も口にせずに、僕は病室を後にした。 独り暮らしが当り前だった頃は、ひとりなんて平気だった。 けど、突然ぽつんとひとりにされると、心のどこかに風穴が出来たみたいに空虚さが漂う。寂しいと思う。 僕のたてる音以外の音が存在しない。 コーヒーでも飲みながら、僕は卒業アルバムをめくっていた。知り合いの少ない上と下の学年のアルバムは見る気がしない。同級生の上半身の写真が並んでいるページを眺めながら、僕は何をしているんだろうと思った。 ページを繰る手が止まった。 見たくない顔を見つけてしまった。 僕を退学へと追いやった、あの生活指導の教師の写真があった。嫌な記憶が頭の中を走馬灯のように駆けていく。頭を軽く振って、忘れようと努力した。 ……忘れてた。 卒業アルバムを見れば、絶対にこの顔と出会う。そんなことに、写真を見るまで気がつかなかった。 あれから再会せずに済んで、嫌なことはすべて排除してしまうように、存在すら忘れて毎日の生活をしてた。 忘れなければ普通になんて生きて行けない。 忘れよう忘れようとすれば、何かきっかけがない限り、思い出すことなんかない。 けど、些細なきっかけで、忘れようと努力した嫌な記憶は簡単に蘇ってしまう。 僕はため息をついて、違うページを開いた。 「……あれ?」 よそのクラスの生徒の中に、見たことのある顔を見つけた。 昔見た人じゃなくて、最近見た人だ。 写真の真下に名前が載っている。間違いない。 ──鮎川巧実。 人違いなんかじゃない。 同じ高校、同じ学年に彼がいたなんて知らなかった。 きっと一緒のクラスになったことがないんだな。 だから僕は知らなかった。 ……向こうは、僕を知ってたんだろうか。 でもこの間の旅行では、初対面だって……。 会ったことがないから知らなかったのか。 本当に、会ったことないのかな。 額の辺りで電流が走ったような感覚が襲った。 まさか……と思う気持ちが先走る。 まさか……まさかね。 そんなの出来すぎだ。 こんな偶然ありえない。 本当に、偶然か? 同じ高校なら、僕の身に起きたことを知っていてもおかしくはない。 相沢と同じ大学なら、近寄ることも造作ない。 一緒に旅行すれば、どれが僕の荷物でどの部屋で寝るかなんて、知ってて当然。 そうだ。 鮎川は僕がモデルのバイトをしてることも知ってた。 そして今日、ファミレスで会ったのは偶然なんかじゃない? だとすれば、つじつまが合う。 心臓が早鐘を打った。 ……落ち着け。 まだそうと決まったわけじゃないだろう? だって鮎川は、彼女と別れたばかりだ。旅行の目的だってナンパだったし。 男よりも女に興味があるはず。 それに、あんな陰湿な手紙を書くようなキャラクターじゃなかった……と思う。 旅館で相沢が三人に訊いた時、みんな知らないって言った。 ……そんなのアテになるのか? 僕は相沢のアドレス帳を探した。けど見つからないから、最近買ったばかりの携帯電話のメモリを調べた。鮎川の番号は入ってた。 ハズレなら詫びればいい。 だけど当たったら? 当たりだったらどうすればいい? 携帯電話をテーブルに置いた。鮎川にかけて、それで何て言えばいい? 手紙を書いたのはおまえかって? それでもしYESだったら、どうするんだ。 怖かった。 間違いならいい。勘違いなら問題ない。 でも間違いじゃなかったら。 相沢が退院するのを待った方がいいのかもしれない。 尾崎さんには知らせられない。手紙の内容が全部本当だとばれてしまうから。 ピンポン 玄関でチャイムが鳴った。 口から心臓が飛び出すかと思うほど驚いて、僕はその場から動けなかった。 |