PART.29

 たった一ページの中におさまった文章は、尾崎さんのまた別の一面を見たような気にさせられるものだった。
 そこには日常の何気ない事柄を、違う角度から切り取った文章が連ねられていた。こんな物の見方もあるのかと感心しちゃうような。全体的に穏やかで、優しい。だけど鮮烈な。
 連載みたいに続くのかな。それとも単発の仕事なのかな。
 床の上にうつぶせに寝転がった姿勢で読んでいたら、少し疲れた。でも尾崎さんのおかげで、少しは気分的に楽にはなってた。
 でも焦燥は消えずに残ってた。
 僕はいったい何をしてるんだろう。
 みんな前に進んでる。
 相沢だって大学卒業すれば、どこかの会社に就職するんだろう。
 そして僕は?
 僕はどこにいればいい?

 ピンポーン、と呼び鈴が鳴った。

 びくっとして起き上がった僕は、恐る恐る玄関に向かった。
 ドアの覗き穴から外を見た。相手の立つ位置がずれてるのか、姿が見えない。
 出ようか出まいか迷った挙句、インターホンの受話器を取り上げた。
「……どちらさまですか」
 返ってきたのは沈黙だった。もしかしたら僕が迷っているうちに帰っちゃったのかも。
 受話器を置いて、玄関に向かった。
 もう一度覗き穴から外を見たけど、誰かいるようには見えなかった。
 チェーンをかけたまま、鍵だけを開ける。ゆっくりとドアノブをまわした。
 ガッと靴がドアの隙間に食い込んだ。ぎょっとした僕は、そこにいるのが鮎川だったことにさらに驚く。ドアを閉めようとしても、挟み込まれた片足が邪魔をして閉められない。
「いてぇよ。俺の足がちぎれるだろ」
 鮎川が心底から不機嫌な声で言った。
「チェーン外して開けろなんて言わないからさ、とりあえず話きいてよ」
「誰がおまえの話なんか聞くかよっ」
「おまえ、相沢の見舞いに行かなくなっちゃったんだって? それって俺が強姦したせい?」
 ムカついた。
 怒りの度合が強すぎて、一瞬頭の中が真っ白になる。眉間の辺りで熱が発光する。
「……すごい目。そんなにハラ立つ?」
「足がちぎれないうちに、外せよ」
 腹の底からマグマのように沸き上がる熱に、押し出されたような声が出た。どんなに怒っても怒り足りないような熱。それなのに鮎川は、予測でもしてたような冷静な顔で僕を見つめている。
「ちぎってみせろよ。できるモンならな」
 痛いはずだと思うのに、鮎川は足を外そうとはしない。靴だけじゃなくて、腕もドアが閉まらないように押さえている。
 怖かった。
 でも負けられない。
「警察呼ぶぞ」
「呼べば? 俺なにもしてないし、意味ないぜ?」
「なにもしてない? 嘘をつくな!」
 勢いで足を踏みつけた。痛かったのか、鮎川の足が引く。手もドアから離れた。けどそれも何かの作戦なのか、ドアが閉まる直前に見た鮎川は余裕の笑みを浮かべていた。
 じわじわと嫌がらせをする。そんな感じだ。
 閉まったドアが開かないように鍵をかけた。
 心臓がものすごい勢いで脈動してる。全身で息切れしてる。
 強烈な疲労感が襲いかかってくる。
 なんなんだあいつは?
 ざわざわと全身が総毛立つ。なんだかホラー映画で追いかけられてる人みたいな気分だった。
 急に吐き気が襲ってきた。ストレスだろうか。
 相沢に言わなきゃ、と思った。
 あんなやつが友達ヅラして相沢の近くをうろついてるのかと思うと、それだけで気分が悪い。
 でもどうやって?
 鮎川に強姦されましたなんて言えない。
 会いたい。でも。
 怖い。
 身体がバラバラになりそうだった。このまま壊れちゃえばいいのにって思った。そうしたら少しはラクになるかもしれないのに。
 床の上にひっくり返った。仰向けに寝ても吐き気は消えない。心臓が異様な鼓動を刻む。
苦しくて身体を斜めに丸めたら、少しだけラクになった。
 不安が押し寄せてきてザクザクと斬られるような感じだ。
 どうしたらいいのかわかんなくて苦しい。

 玄関のベルが鳴った。また。
 僕は今度もびくっとして、怖いものでも見るように玄関を見た。
 呼び鈴は何度も続けて鳴り、僕は思わずラジカセのスイッチを入れてヘッドホンを着けた。DJの軽快なトークが耳に飛び込んで、少しだけ気分が落ち着いた。そのまま僕はジッとして、時間が過ぎるのを待った。
 二時間経過してから、ヘッドホンをはずした。玄関はシーンと静かで、人の気配もなさそうだった。
 ……なんだったんだろう。
 単なる脅しなのかな。
 なんのために?

 
 翌日、仕事はどれも休みだったから、相沢のところに行ってみた。
 とは言っても、病院の前へ行くまでにかなりの時間を使ったし、いざ着いてみると病室に行くまでにもかなりの時間を使った。
 勇気が足りなくて足が進まない。
 それでもやっと病室の前まで来たけど、今度はドアを開けるまでに時間がかかった。
 しばらく悩んで、ようやく決心を固めた。
 ドアを開けた時、ベッドの中で固定されてるもんだと思っていた相沢は、松葉杖を使って立っていた。しかもこっちに向かって歩いてる途中だった。
 まさかいきなり目の前に出てくるとは思ってなかったから、僕は慌てた。なんとか平静を保って、保って、目をそらさないように努力した。
 僕の顔を見た瞬間、驚いたように目を瞠った。それから嬉しそうに輝いた。
 それが逆に僕の中でダメージになった。僕の身に起こったことを相沢はまだ知らない。逃げ出したくなるのをこらえて、無理して笑ってみた。
「ずっと来てくれないから心配したんだ。どうしたんだよ」
 嬉しさ半分、怒り半分、そんな感じで相沢が言った。僕は何と答えたらいいのか迷って、ただ「うん」と言ったきり黙ってしまった。
 僕の様子がおかしいことに相沢も気づいたみたいで、表情が曇った。
「なんかあったのか?」
 松葉杖をついて相沢が傍に来た。僕はますます逃げたい気持ちにかられて、必死の思いでそこに立っていた。
 どんな顔をすればいいのかもわからない。
「悟瑠?」
 相沢の目が僕を覗き込んでくる。いたたまれなくなって、僕は目を伏せた。こんなあからさまな反応じゃ、絶対に変だと思われる。だけど、頭の中が真っ白で言葉が何も見つからなかった。
 喋る言葉をいろいろ考えて来たはずなのに。
「……す……座っていいかな」
「……うん」
 相沢はどこかへ行こうとしていたのもやめて、自分のベッドの方へ戻った。
 僕はベッドの傍の椅子に座って、とにかく呼吸のリズムを戻そうと思った。相沢はカーテンを閉めてからベッドの上に座って、松葉杖を支えた。
「足、どう?」
「だいぶよくなったよ。とりあえず寝たきりから解放された」
「そう、よかったね」
 顔を直接見るのが辛くて、うつむき加減のまま喋った。誤魔化すように笑ってみせたけど、誤魔化しきれるとは思えなかった。
「どうした? 何か言いたいことがあるんだろ?」
 ギクッとした。
「……そんな顔、してた?」
「ああ、してる」
「……そうだよね……。きっと今、すごくサイアクな顔色してるんだろうな」
「ここで話しづらいなら、場所を変えよう」
「いいよ。だって足、まだだし」
 確かに、六人部屋のここじゃ、カーテン閉めてたってあんまり意味がない。話なんか完全に筒抜ける。だけど完全回復してない相沢を連れ出せないと思った。
 何をどう言おうなんて、いろいろ考えたようで考えてなかった。頭の中はぐしゃぐしゃで、まとまりのある会話なんか出来るとは思えない。
 でも何かちゃんと伝えなきゃって心の中で足掻いた。この身に起こった事件は話せない。でも他に何か言えること。
 相沢の顔を見た。
「鮎川巧実」
 この名前を口にするだけでも辛い。
 鼓動が早くなる。呼吸をするのも苦しくなっていく。
「……鮎川?」
 相沢が怪訝そうな表情をする。なんでここにその名前が出てくるんだろうって顔。
 僕は深く息を吐いた。
「あいつ怖いから。注意して」
 驚いたように相沢の目が見開かれた。
 僕はそれ以上伝える言葉も見つけられなくて、逃げるように立った。相沢が慌てて腕を伸ばして、僕の手首をつかむ。
「待てって。悟瑠!」
 振り切るように腕を振ったら、バランスを崩した相沢が座っていたベッドから転倒した。ギョッとした僕は動揺しながら相沢を起こす。
「だ、大丈夫?」
「……っ。バカやろ……っ、いきなり逃げるな」
「足は?」
「平気だよ、これくらいっ」
 逃げられないようになのか、しっかりと両腕をつかまれた。
 ここで去るわけにもいかず、とにかく僕は相沢をベッドに座らせる。本当に痛くないのかな……。そんなわけないよな……。
「そんな断片的なことだけ言われても、おまえにいったい何があって、鮎川がどう関係あるのかわかんないだろ。俺がいない間に何があった?」
 そんなの言えない。絶対。
「……なにもない」
「何もない顔じゃないだろ。鮎川が何をした?」
 鮎川のした、事実。
 そうだ。
 僕のことよりも言わなきゃならないことがある。
「足」
 そうだ、あの事故。相沢の骨折。
「車が突っ込んで来たって言ったよね。あの車、運転してたのが」
 だけどこれを言って、相沢がさらに危険な位置に立たされたら?
「車を運転したのが?」
 相沢が問い返した。喉の奥に声が詰まったように、僕の口からは言葉が出て来なくなった。
 その代わりのように、相沢が言った。
「運転してたのは、もしかして鮎川なのか?」
 僕はこの時、どんな表情をしたんだろう。
 たぶん、ポーカーフェイスはできてなかったと思う。
「それをどこで知った?」
 相沢の問いが続く。
「鮎川が……自分で喋ったんだ」
 やばい。
 このままじゃ、ヤバイ。
 あの日のことがフラッシュバックした。鮎川のしたこと。喋ったことが急に蘇った。
 ガクンと膝が崩れた。いきなり全身の力が抜けた。ずっと僕の腕をつかんでいた相沢が、驚いていた。
「……悟瑠?」
「……なん……でもな……」
 どうして僕はあの時、テープレコーダを用意しなかったんだろう。
 唐突にそう思った。
 そう思うことで、ムリヤリ鮎川にされたことを忘れようとした。
 喋ったことをテープに残しておけば、警察に突き出せたのに。
「……証拠が、ないんだ。あいつ、指紋は残してないって……」
「悟瑠、おまえおかしいぞ。もう喋らなくていいから、じっとしてろ」
 床に膝をついたまま立てなくなった僕と同じ高さに、相沢が来た。不自由な片足になるべく負担をかけないように座った。首の後ろに腕がまわってきて、強く抱きしめられる。
 言われたまま喋るのをやめてじっとした。久しぶりの相沢のぬくもり。こんな感触だったかな……。
 カーテン閉まっててよかったな……。
 なんだか疲れてた。急に眠りたくなって目を閉じた。
 自分でも情緒不安定になってるのわかってたけど、これで少しは治るような気がした。



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