ベールの中の1965年韓日協定外交文書〜韓日両国はなぜ40年の間沈黙しているのか?

『KBS−TV日曜スペシャル』(2004.8.15)




8. 15解放以後最初の日本帝国強占期歴史清算の機会だった1965年韓日協定。韓日協定は、日帝侵略植民地統治時代の不幸な過去を清算して韓国と日本間の国交正常化のために結ばれた条約だった。
しかし、妥結直後から、過去が正しく清算できなかったという批判と共に、
屈辱的な外交を取り巻く疑念が40年の間持続されて来た。疑念の中心には、当時作成された未公開文書がある。
『KBS日曜スペシャル』は、韓日協定未公開文書を初めて入手して、韓日協定の隠された真実を明らかにする。



去る2月、裁判所は、ある訴訟事件で注目される判決を下した。日本帝国強占期に強制動員されて夫役に苦しめられた被害者たちが外交通商部を相手取って提起した訴訟で、
1965年韓日協定締結の過程で作成された一連の文書を公開するように決定した。
非公開保存期間30年を越えたという理由だ。40年の間ベールに囲まれて来た韓日協定の真実が姿をさらけ出す瞬間だった。
現在、韓日協定に関する未公開文書は、外交通商部や外交安保研究院に保管されている。一審判決直後、外交通商部は文書公開を拒み、現在控訴審が進行中だ。



非公開期限を超えたこれらの文書。私たちは、外交通商部に文書の公開に関する範囲の論議を尽くした。
しかし、外交通商部が明らかにした文書の公開範囲は、非常に制限的だった。
公開された文書は極めて一部に過ぎず、しかも、李承晩政権時に作成された第4次韓日会談についての会議録と訓令の表記に過ぎなかった。
外交通商部は、文書を公開すれば広範囲な反日感情が起こり、韓日関係を険悪にする恐れがあるとして公開を拒んだ。韓日間の国交を正常化するための努力は、1951年、李承晩行政府によって始まった。
日帝侵略植民地支配に対する謝罪と補償に対する異見で協商は妥協点が探せないまま、朴正煕政権につながる。1961年11月、第6次会談が再開され、協商は急水勢に乗り始める。
当時経済開発のために資金を必要としていた朴正煕政権は、協商妥結を行き過ぎるように急いだ。協商が膠着状態に陥ると、当時中央情報部長だった金鍾泌は、裏側で決定的な役割を果たしたりした。



結局、1965年6月20日、韓日協定が結ばれる。14年間なんと1400余回の会議を重ねた韓日協定、
最大のテーマは日帝植民地支配に対する謝罪と補償の名目で支払いされる請求権金額だった。
しかし、協定文のどこにも日本の謝罪という表現は無く、請求権は無償で3億ドルに相当する日本の生産物と用役を10年にわたって提供するというものだった。
また、追加で2億ドルの借款を提供するということだった。
これにより、日本の侵略行為に起因して精神的、肉体的被害を受けた韓国人たちに対する請求権問題が、最終的にそれから完全に解決したと合意された。



韓日協定が結ばれた以後、朴正煕行政府は国民に対して、協商結果が非常に成功的だったことを大々的に広報した。
しかし野党と国民は激しく反発した。日帝植民地支配に対する日本の謝罪と8百万人に上る強制動員被害者に対する補償で
30億ドルを求めた国民達は、交渉結果が非常に屈辱的であるとして非難と疑念を提起した。
デモが拡がると朴正煕政権は戒巌令を発動、韓日協定締結に反対するデモを強制的に鎮圧した。



オ・サンソプ 63同志会事務総長

「当時、そのような屈辱外交がなぜ行われたのか、会議録その他の関連文書を公開するよう主張したが、朴正煕軍事独裁政権は戒巌令を発動してデモを鎮圧して隠蔽し・・・・。」



8. 15解放後唯一の日帝植民地支配過去史清算の機会だった韓日協定、以後協定の実体は多くの疑念と論難を残したまま歴史のかなたに消えていった。軍事独裁政権が続いた1980年代末まで、日帝侵略に対する被害と韓日協定に対する疑問はタブー視された。日帝の植民地支配に対する謝罪及び補償問題が再び世に出たのは民主化運動の風が吹き始めた1990年代序盤、春川で太平洋戦争被害者たちに対する補償問題を主導しているキム・キョンソプ氏、彼は16才の時である1942年に強制徴用され、ある鉄鉱会社で働きながら給料も受けられず、様々な苦痛を体験しなければならなかった。



キム・キョンソプ太平洋戦争被害者遺族会会長

「倭奴(ウェーノム)どもに毎日殴られて左肩を骨折し、終生を障害のまま暮らさなければならない立場になったが、暴力を受けた受けないの問題から離れ、彼らが労働力は労働力として搾取し、人権は蹂躪して労賃も払わない、倭人の心底のパターンが端的にここに出たものと私は見る。」



去る1991年、金さんは、日本政府と企業を相手取って強制動員に対する被害補償と謝罪を求める訴訟を起こした。



キム・キョンソプ氏

「太平洋戦争被害者では、私が初めて訴訟を起こした。自分で訴状を直接書いて東京裁判所民事裁判訴訟12部に提出した。受付したら涙が出た。敢えて朝鮮人が日本政府と企業を相手取って訴訟を申し立てて日本の裁判所に書状を差し出したということだ。」



当時、金さんが屈辱的な外交協商を結んで縮小された補償金を受けた韓国政府の代わりに日本政府を相手取って訴訟を起こしたには理由があった。彼は、両国間に結ばれた韓日協定を合法的な条約だと認めていないからだ。



キム・キョンソプ氏

「韓日協定を打ち消す。それはワイロを受けるための協定、言い換えれば作物協定だ。国民の権利と自尊心を泥棒たちに売り渡したから作物ではないか。作物協定は当然不正だ。だから原告は、当然日本政府とか日本企業にならなければならないのだ。今も韓日協定は認められない。」(mikasa注:「作物」は良く分からん。)



金氏が訴訟を起こして以後、日帝によって強制動員された被害者たちが日本政府と企業を相手取って被害補償訴訟を続けて申立てた。日帝によって強制動員された被害者たちが多様な形態で訴訟を起こし、これらによって提起された国内外の訴訟はなんと70余件に至った。しかしこれらの訴訟は大部分が棄却され、一部が継続中である状態だ。1990年代に入ってこれら訴訟の大部分が敗訴したのは、二つの理由のためだった。在日同胞カン・ブジョン氏の被害補償訴訟で、日本裁判所は国内法である国家無答責の原則を適用、国家間の権力作用に対して民事上償えないという決定を出した。一方、韓国人ソン・ソンド氏ほか5人の被害補償請求訴訟では、時効が成立して補償を請求できる権利が消滅したという判決を下した。



90年代後半、韓国人の日本に対する被害請求訴訟は、アメリカから提起され始めた。L.A.に暮らす在米同胞チョン・ジェウォン氏、日本の大学の留学生だった彼は、不意に日本のあるセメント工場に引っ張られて酷烈な労働に従事しなければならなかった。



チョン・ジェウォン氏

「急にセメント工場に強制動員されて1944年から45年の解放まで、言葉に表わせない苦労をして命を繋いだが、病気とか或いはその他の理由で死亡した人がほとんど半分...」



チョン氏は、去る1999年、自身が強制徴用された書類を根拠にLA州法廷に、受けられなかった給料に対する返還訴訟を起こした。訴訟対象は、自身を強制動員した、当時アメリカで事業をしていたモノダセメント会社だった(mikasa 注:「小野田セメント」の誤植だろうか)。チョン氏がアメリカの法廷に訴訟を提起することができたのは、1999年カリフォルニアで成立したヘイトン法の為だった。時効の問題と日本国内法である国家権力無答責論はアメリカでは適用されないという事実が知られ、アメリカの法廷に韓国人たちの被害補償訴訟が続いた。



金昌祿釜山大学教授

「アメリカでは、カリフォルニア州で時効問題を法律によって解決したし、ニューヨーク法廷では国家無答責論が通じる可能性はなかった。それで、そのころから、日本政府は、請求権協定によって問題は解決したという点に主張の中心点を移動していった。」



東京にある世界的な鉄鋼企業新日本製鉄、出勤の道で日本の市民団体会員たちが韓国人ヨ・ウンテク氏の被害補償問題を支援している。彼らは、市民に向かってヨ・ウンテク氏の悔しさを訴えるチラシを配ってくれている。ヨさんは、日本帝国強占期当時、新日本製鉄の前身である日本製鉄に所属し、給料を受けられないまま酷烈な労働に従事した。



ヨ・ウンテク氏(日本語で)

「私は(給料を)全部奪われたし、今も支払いを受けていない。この悔しさをどうしたら良いのか?」



ヨ・ウンテク氏が街で闘争をするのは、理由がある。ヨ・ウンテク氏は、2003年、日本の上級裁判所で未払い給料返還訴訟に敗訴したからだ。彼の補償を防げたのは、1965年の韓日協定の存在だった。裁判で、日本政府は、韓日協定により韓国人に対するすべての被害請求権が解決したと主張し、裁判所はこれを受け入れた。2000年代に入り、韓国人達の被害補償請求に対して日本政府の主張は変化した。今や韓日協定は、日本を相手にした訴訟で一番大きい障害になっている。



韓日協定締結から39年になる2004年6月22日、日本軍の強制徴兵、日本軍慰安所、強制動員労役被害者たちが外交通商部の前に集まった。彼らは、この日、外交通商部が韓日協定関連文書公開を拒んで申し立てた控訴を取り下げ、関連文書を即時に公開するよう求めた。



「一体これは、どこの国の政府なのか? 文書を公開して、日本政府に責任があるのか韓国政府に責任があるのか、はっきりさせて...」



彼らは、請求権協定の交渉過程で、政府が自身の被害補償問題をどう処理したのか知りたいと考えている。強制動員の被害者たちが日本を相手取って10年以上法廷闘争をくりひろげて来た間、韓国政府は無関心で一貫し、この日も彼らの要求に沈黙を守った。



キム・グヮンリョル廣韻大学教授

「潔く認めて、この人達が、いわゆる国益のために、公開してもかまわないのではないか? なぜ公開をはばかるのか理解ができない。」



ヨシザワ・フシトミ東京大学教授

「これまで、日本と韓国の首脳部が交渉をして来たし、彼らだけが真実を知っていた。それは、過去の清算という点から見れば、正しい道ではない。資料を公開して日本と韓国の国民たちに、果たして日韓協定の真実は何だったのか考えさせることが、真正の過去清算につながることだと思う。」



私たちは、新聞記事を通じて韓日協定未公開文書を直接探してみることにした。

韓日間の交渉が本格的に進んだ1960年から65年。私たちは当時の記事を通じて、交渉に参加した韓日両国関係者たちを確かめてみることにした。また、情報公開制限が過ぎ、国史編纂委員会に移っている1960年代のアメリカ国務省文書について、ある民間研究所に依頼することにした。韓日協定妥結の過程でアメリカの介入があったとされているからだ。



私たちは、当時外交部事務官として参席したキム・ジョンテ氏に、ようやく会うことができた。キムさんは、自身を撮影しないという条件でインタビューを受諾した。彼はまず、外交通商部には文書公開を拒む特別な理由はないと述べた。



キム・ジョンテ氏

「特別な理由はない。外交交渉に際して作成された文書は、むやみに公表しないものだ。」



交渉の実務者として、屈辱的な外交という当時国民の批判をどう受け入れるかを確かめたかった。



キム・ジョンテ氏

「そのことを、いつまで追求するつもりか? 死ぬまで、子々孫々にわたり糺してどうするつもりか? 世界というものは、その時も、今でも、独不将軍(一人で勝手に決めてしまうこと)式で生きるものではない。日本というものがすぐ隣にあって、アメリカも地理的には遠いが考えは近くて、そういう親しい友人が近くに居たということは大きい財産だ。私たちには有益な交渉だった。」



韓日協定に関連して裏側で重要な役割を果たしたとされる金鍾泌前自民連総裁は、まだその時期ではないという理由でインタビュー要請を断った。私たちは日本に行って、日本側の交渉当事者たちに会ってみることにした。訪ね廻った末に、当時日本外務省の韓国担当課長として交渉に参与したクロダ・ミズオ氏に会えた。彼は、公開されなかった文書はないと話した。



クロダ・ミズオ当時日本外務省韓国担当課長

「未公開文書はない。合意された文書は全部発表した。」



しかし、交渉当時日本外務省事務官だったマツダ・リョウヘイ氏の意見は違った。

マツダ・リョウヘイ氏(韓国語で)

「微妙な問題もあって、今、お互いに、その当時の交渉に従事した人たちも健在であり、今、韓国の日本に対する感情も悪くて、6億償ったが少ない、駄目だという雰囲気もあって、そんな状態で文書を全部公開すれば、また両国関係に摩擦が生じる可能性が多いから、日本側で文書を全然公開できない。」



情報非公開期限30年は、日本でも適用されている。私たちは、外務省に正式に文書公開を求めてみることにした。交渉が急進展した第5次から第7次会談に係わる文書だ。一週間後、外務省から文書を公開するという返答を受けた。韓国政府とは違って、あっさりと文書を公開すると言って来たのは訝しかったが、私たちは外務省が公開した文書を受け取った。



日本外務省が公開した文書は、2枚だけだった。書類には会談の日付と、当時会議に参加した両国の交渉実務者の名前が記録されているだけだった。外務省は、日朝交渉の過程で日本の戦略が明らかになってしまうから、これ以上の公開は不可能だと説明した。



取材の過程で、韓日協定の会談内容を書いた冊子一冊が見つかった。『検定 日韓会談(著者タカサキ・ショウジ)』、後書きで、著者が韓日協定会議録を参考文献としたというものだ。著者は、韓日協定分野の最高権威者として知られたタカサキ・ショウジ教授、90年代中ごろ、東京大学で会議録を見たと説明した。



タカサキ・ショウジ教授

「1995年ごろ、会議録の存在は知られていなかった時、東大に会議録があるという話しを聞いて見に行った。それからいくらも経たないときに、もう一度見たいと思い付いてまた探したが、担当者は、そんな資料自体がないと言った。」



タカサキ教授は、東京大学で保管中である会議録のコピーが、ある在日同胞が運営する文化センターにあると言う。私たちは、この文化センターの地下書庫で、5次と6次の会談の会議録5冊に出会えた。文化センター側によれば、コピーできなかった一部の会議録は、あいかわらず東京大学に残っているという。会議録は、意外にも、全部ハングルで書かれていた。タカサキ教授によれば、これら会議録は、90年代序盤、日本のある学者が韓国の古書店で買って東大に寄贈したものだと言う。会議録一冊の分量は200ページ以上であり、平和線、漁業権、請求権など多様な分野にわたって幾多の会議が繰り返して開かれたことが分かった。さらに、参加者たちの発言内容が詳しく記録されていた。

1961年5月にあったある請求権会議の主題は、韓国人徴用被害者に対する補償だった。


1961年5月にあったある請求権会議の主題は、韓国人徴用被害者に対する補償だった。

韓国側

「他国の国民を強制的に徴用して苦痛を与えたから、償う必要があるのではないか?」

日本側

「徴用当時、韓国人は法的に日本人だった。日本人に償っていないから償えない。」

韓国側

「当時、韓国で、道行く人をトラックに載せて炭鉱に送った。それなのに彼らを日本人だと言うのは、真実の隠蔽だ。」

会議が進むと、日本側の態度が変わった。補償するから韓国側が根拠を提示せよというものだった。

韓国側

「韓国人徴用労務者の未支給給料に関する資料があるか?」

日本側

「資料があれば、私たちが持っているものと突き合わせよう。」

韓国側

「私たちには資料がない。だから日本が持っている徴用者資料を求める。日本側には資料があるとSCAP公文にある。」

日本側

「私たちにもない。徴用された韓国人の中には北朝鮮に行った人もいて、事実を知ることができない。」



マツダ・リョウヘイ元日本外務省事務官(韓国語で)

「個人的な請求権問題も韓国側が求めたので、そうしたらどういうケースがありますか? 具体的に提示して下さい。金額がいくらですか。日本側はこのように韓国に求めたが、韓国にも資料がなかった。全部、韓国が日本に対してこのような問題を請求したいといったが、資料がなかった。資料がないから具体的な数字が出てこなかった。」



タカサキ・ショウジ教授

「戦争が1945年に終って1965年まで20年経った後に、そんな証拠を提示するのは、ほとんど不可能なことだ。正確な数字、韓国人が日本の戦争に何人動員されて何人が死んで何人が怪我をしたかを正確に算出できない。結局、韓国は早い段階で(被害補償請求権の主張を)あきらめた。」



結局、当時の資料確認の困難さは、30億ドルまで要求された請求権金額が縮小されるのに決定的な原因になった。ぎっしりと並んだこれら徴用者名簿は、日本から入手されたものだ。韓日協定が結ばれた後、日本は70年代末から90年代末まで、少ないときで数十冊、多いときは数満冊にのぼる徴用者名簿を韓国に送った。強制動員被害者たちの身元把握のために、韓国側が要求したためだった。去年には、日本のある民間人が、全国各地を回って30余年の間に見つけた徴用者名簿を独立記念館に寄贈したりした。



多くの徴用者名簿を見つけるのに決定的な助けになった人は、ある日本人教育者だった。コショ・タダシ教授。彼は太平洋戦争当時の強制徴用者の未払い給料を調べる過程で、韓国人の未払い給料が裁判所に供託された記録を見つけた。書類には、徴用者名前と未支給の給料の額が正確に記録されていた。それどころか、韓国人労務者達の給料から、本人達も知らずに差し引かれた年金が記録された事実も、日本情報機関を通じて見つけた。コショ・タダシ教授は、強制動員労務者の名簿をあいかわらず日本政府が管理していると確信している。

コショ・タダシ駒沢大学名誉教授

「今も全部コンピュータに入力されていて、何年何月まで足尾地域にいて誰が監督していたか、足尾地域の社会保険事務所に行けば受付書類を見せてくれる。私も何通か持っている。保険に入ったことの証明書がコンピュータに入力されている。だから、強制労働被害者たちの資料を持っているのは確実だ。」



結局、第5次会談当時、徴用者についての資料がないと言った日本の主張は、事実ではなかった。



キミヤ・タダシ東京大学教授

「請求権金額を韓国側が確定するためには、根拠が必要だった。日本側は韓国政府に根拠を求めたが、根拠に関する数字を持っていたのは、むしろ日本政府の方だった。けれども、日本政府はそういう資料を公開しないまま韓国と交渉したのだった。それは交渉の一つの方法かも知れないが、ほんとうに卑怯な交渉だったと言える。」



私たちは、東京大学に保管されている残りの会議録も確かめてみることにした。

大学側と数回交渉した結果、私たちは、初めて東京大学に保管中である残った会議録を確かめることができた。

東京大学は、全部で10冊の韓日会談会議録を持っていた。これらのうち、アリラン文化センターのコピーに漏れていたのは5次と6次会談の一部の会議録だった。会議録を見ていくうちに、意外な内容を見つけた。交渉当時、日本側が韓国側代表に、強制動員被害者たちの個別補償を申し入れた事実だった。1961年当時、会議録によれば、日本は被害補償を個人別にすると明らかにしたが、韓国は、政府に一括して支払うよう求めていた。



日本側

「徴用韓国人の未払い給料を支払う。しかし、お金は本人に渡されなければならない。」

韓国側

「それは国内措置として私たちが支払う。日本が支払う必要はない。」

日本側

「両国国民の感情を和らげるために、個人に支払うのが良い。」

韓国側

国内問題として措置する考えであり、人数とか金額に問題があるので、今は私たちの手で行う。



この論議は、会議を重ねながら数次反復された。ところで、補償金額の中には未払い給料だけではなく強制動員被害者たちに対する精神的、肉体的苦痛に対する補償まで論議されていることが示唆されていた。



韓国側

「補償金は生存者と傷者、死者を含めて、強制徴用された人たちの精神的苦痛に対することを言う。」

日本側

「日本の一般法律によって個別的に解決する方法もある。」

韓国側

「私たちは、国家が代わって個人の被害補償問題を解決したい。」



キン・ミンチョル民族問題研究所長

「日本の主張に従って協定が結ばれたのであれば、協定締結以後、在日韓国人大量虐殺、強制徴用者に対する未払い給料などの事実が明らかになるたびに、日本政府は賠償義務を負うようになる。時期の問題を離れて、そんな事実が明らかになった時から、日本政府の個人に対する賠償責任は生きていることになる。」



交渉は、韓国側の主張どおりに政府が一括して受け取る形で終った。結局、個人に支給されるべき補償を防げたのは、韓国政府だったことになる。日本から受け取った無償3億ドルのお金の大部分は、重工業育成と浦項製鉄建設など経済成長のために使われた。政府は個人に対する補償を試みたことがあった。協定が結ばれてから10年後の1975年、政府は、被害者たちの届出により補償を行うという新聞公告を出した。ところが、対象は8・15光復以前に日本にお金を残してきた人と死者など極めて制限的だった



日帝によって強制徴用されて悔しく死んだ父の恨を胸に抱いて暮らすイ・ユンジェ氏、父イ・フヮソ氏は1942年軍属に取られて2年後に日本で死亡した。光復以前に死亡し証明書類が明確なこの人は、対象者であったにも拘らず補償を受けられなかった。1975年当時、新聞とかラジオがほとんど普及していなかったため、政府が補償を実施するという事実を知らなかった。



イ・ユンジェ強制徴用被害者遺族

「そのころは、ラジオも新聞も何もなかった。政府が通報しないなら、田舎では何も分からない。そんな情報がなかったから、私たちは聞けなかったのだ。1975年当時に補償を実施するという公告があったのなら、個々人に通報してやるのが政府の任務だ。」



全羅南道小鹿島。日帝はここで、ハンセン病患者を隔離収容した後、強制労役させた。まだここには、当時被害を受けた生存者100余人が残っている。治してくれるという話しだけ信じて小鹿島に入ったというチャン・キジン氏。しかし夜も昼も強制労役をさせられた。



チャン・キジン小鹿島強制収容ハンセン病患者

「昼間には煉瓦を作って、夜にはカマスを作り、仕事はきつく腹も減るから逃げ出す。腹が空いて死ぬも水に落ちて死ぬも同じだから逃げる。自殺する人もいた。カマスを編む途中で首を吊って死ぬ人もいて...」



 軍需物資を作る酷烈な労働に耐えられず、自殺する人まであった。



チャン・キジン氏

「傷つけば治さなければならないのに、治療もろくにしてくれないから病菌が入って、指が切断され足も切断されて、傷もろくに治療を受けられなくて...」



ハンセン病は治療を通じて完治が可能だが、酷烈な強制労働によって病気はひどくにり、両手と足は切断された。

もっと驚愕すべきことは、日帝がハンセン病患者たちを対象に生体実験をしたということだ。

当時病人を解剖したここは、若干の補修はされているが、すべてが60年前そのままだ。病人達の臓器を集めておいた保管箱も保存されていた。



チャン・キジン氏

「肝臓を抜き取って入れ、腸も肺臓も抜き取って入れ...様々な自分達が研究しようとするたびに入れた。」



当時の被害者であるユ・インソプ氏、彼は病人達を実験台にした苦痛が忘れられない。



ユ・インソプ小鹿島強制収用ハンセン病患者

「人の臨床実験をするときには、先ずねずみとかうさぎとか動物を通じて研究した後に人に実験をやってみて、その薬の效果を見なければならないはずだが...小鹿島の病人達は完全に動物扱いだった。」



小鹿島のあちこちに、ハンセン病患者の苦しんだ跡が残っている。日帝治下の被害者たちに対する韓国政府の無関心が続く中、最近、日本のある市民団体は小鹿島のハンセン病患者に行われた人権蹂躪の実態を明らかにし、日本政府を相手取って補償訴訟を起こした。

1991年、被害者たちの証言によって初めて存在が明らかにされた従軍慰安婦たちの人権蹂躪実態、民間団体の長い努力で実体が知られるようになった浮島号爆沈事件とハイナン島集団虐殺事件...結局、韓国政府は、日帝治下の強制動員被害者たちに対する実態調査を全然しなかったし、被害者たちの実態が明らかになった以後も適切な措置を取らなかった。



1976年、経済企画院が作成した韓日会談白書によれば、当時、朴正煕行政部が被害者たちに補償名目で支払った金は95億ウォン、政府が自ら請求権を解決するとして日本側から受け取った3億ドルの5%に過ぎなかった。残りは政府関連機関が分けて使った。



金昌祿教授

「朴正煕政権は、日本から交渉の代価として一定の資金を受け取り、それを政略的に経済開発を実施するという点に焦点が当てられていたし、過去史清算という側面は一般国民達の世論によって仕方なくやる姿勢をみせたが、深刻な認識を持っていたとは感じられない。それで、その結果、十分な補償にならなかったのではないか...」



韓日会談が日帝の植民地支配に対する過去史清算を目的としたにもかかわらず、会議録のどこにも日本側の謝罪が見出せない。日本は、韓国側に提供する資金を、被害補償のための請求権名目ではないということをたびたび強調した。



日本側

「名目の問題は、国交正常化を祝うとか、韓国の繁栄を望んで韓日親善を願うからという名目で日本側が  

支払うものだと言って、韓国はこれを受領した後、請求権が片付いたといえば良いだろう。」

韓国側

「本国では、日本が請求権名目を使わないようと申し入れたという報告を受ければ、失望するだろう。」



資金の名目について妥協点を見出せない両国は、一旦、支援金の規模に会議の主題を変えた。

日本側

「日本は、経済協力の名目で1億5千万ドルを提供しようと思う。」

韓国側

「韓国は、被害補償名目で、全部で6億ドルは受けなければならないと思う。」



ところが、この時期、当時のバーグ韓国駐在アメリカ大使がアメリカ国務省に送った報告書によれば、当時朴正煕政権の関心事は名目ではなく資金の額だと明らかにしている。それから5ヵ月後、当時の金鍾泌中央情報部長と大平日本外相は内密に会談を行って、交渉の最大の核心だった金額について、無償3億ドル、借款2億ドルで合意した。



チェ・ミョンホ ヨンシン大学教授

「クーデターを起こして政権を掌握した朴正煕行政部の正当性の無さという問題、正当性を回復するためには経済開発という政策以外立てられなかったし、経済開発のためには資金が必要であるがアメリカからは資金提供を受けられなかった。それで資金源として考えられるのは、日本以外には無いとする選択だった。それで日本との修交を急いだのだ。」

私たちは、取材の過程で、当時韓国側の首席代表だったぺ・ウィファン氏が保管して来た会議録の一部を手に入れた。会議録は、交渉妥結の間際である1965年5月に作成されたものだ。交渉が妥結するときまで、日本は、韓国に提供する資金の性格を、賠償ではないと主張していた。



日本側 

 「我々の提供は、賠償のように義務的なものとしてではなく、経済協力であるという基本的な考えを持っている。」



注目すべきは、当時の韓国側代表も、賠償ではないという日本側の主張に同意しているという事実だ。



韓国側

「我々も、日本の提供が賠償ではない特殊な性格ということに同意するが、表現は異ならなければならない。」(mikasa注:この文の後半部分は確信が持てない。)



日本側

「金鍾泌・大平合意に至った経緯を見れば、韓国には請求権と経済協力のためのものだったが、日本の考えは、確かに経済協力の趣旨だった。」



韓国側

「この問題は、日本の植民地支配に対する被害補償の請求権という位置付けで始まったことであり、韓国の事情が厳しいから援助するという理由で始まったことではないのではないか?」



日本側

「とにかく、私たちは、経済協力の趣旨で提供する考えだ。」



数次にわたる会談過程から韓国が請求権名目で受けたという無償3億ドルに対して、日本は、被害補償では無いことを明らかにしていたし、植民地支配に対する謝罪も全然なかった。



マツダ・リョウヘイ当時日本外務省事務官(韓国語で)

「アジアはほとんど植民地だった。アフリカもほとんど植民地、南米も12ヶ国中の9ヶ国が植民地だった。地球上の84%が植民地時代だった。そんな植民地時代だったから、植民地支配を受けた国に対して植民地統治をした国が謝るとか補償するという話は一つもない。」



タカサキ・ショウジ教授

「事実上、それは歴史清算ではなくて経済協力、良く言えば日本が韓国との経済協力という名分のもと、韓国を日本の市場にするための機会として利用したという点で、歴史清算という部分では0点だと思う。」



民族問題研究所にアメリカ国務省文書の分析を依頼して一ヶ月、韓日協定に対するアメリカの介入に関して新しい事実が見つかった。韓日協定妥結に関心を持ったとされたケネディ行政府、文書で明らかとなったアメリカの介入は、関心という次元を越えた驚くべきものだった。1962年5月当時、アメリカは韓日会談の進行状況を正確に掴んでいることが分かる。国務省文書によれば、アメリカは、韓日両国が金額問題で妥協点を探せなかった初期に、請求権問題が交渉の一番大きい障害物だと分析していた。



二ヶ月後、アメリカ国務省が東京とソウルのアメリカ大使館に送った電文。国務省は、韓国駐在大使と日本駐在大使に、交渉が妥結するようにアメリカの影響力を行使するよう指示した。そうかと思うと、韓日両国の密約が必要なら、アメリカを通じてするようにしろとの指示まで付随していた。国務省のファイルに綴じられていた機密という名前の文書だ。アメリカ国務省関係者が韓国政府関係者に、日本の無償援助として3億から4億ドルが適当だという具体的な金額を提案したことを明らかにしている。この関係者はまた、3億ドルが適当だと実際に妥結した金額に非常に近い数字を提示したことを明らかにしている。



イ・セイル民族問題研究所現代史研究員

「今まで知られた範囲では、アメリカが具体的にどのぐらい韓日協定に介入をしたかがはっきりと分からないまま、ただアメリカが、第三者立場から韓日協定締結を促した程度に知られているが、この文書を検討してみた結果、アメリカが韓日間の交渉の初期から終りまで積極的に介入して、文書作成とか金額の??などすべての部分に介入、交渉妥結に決定的な役割をしたことは明らかだ。」



日本の韓国に対する支援金額を掛け合ったとされる金鍾泌・大平会談。しかし、アメリカ国務省文書によれば、金額問題はアメリカの事前調整によって妥結したことが分かった。ワシントンで7年間韓日協定分野を研究して来たイ・ゾンウォン教授は、金額妥結は、実際アメリカがリードしたことを主張する。



イ・ゾンウォン立教大学教授

「金額部分にあってはアメリカの主導的な役割が大きかったから、その金額が単純に金鍾泌・大平二人の個人の談判によって成り立ったと見るよりは、論議過程から相当な案が出たし、アメリカの仲裁が金額妥結に決定的な役割を果たしたことを否定できない。」



私たちは、アメリカ国務省の文書を分析する過程で、韓国と日本の間に、不法政治資金の取り引きがあったことを確かめることができた。

1966年にCIAが作成した内部報告書だ。当時民主共和党が日本企業から政治資金を受け取ったという内容だ。また第6、7次韓日会談が進行中の時期に、日本企業が民主共和党の予算の3分の2を提供したという記録もある。日本企業6社が全部6600万ドルを支払ったし、企業別の額では百万〜2千万ドルに至る具体的な数値まで記録されている。当時朴正煕政権の実力者だった金鍾泌も、韓日協定を推進した代価、また日本企業が韓国で独占権を持つ代価を受けたと明かしている。韓国政府が放出した米6千トンを日本に輸出するのを統制した韓国企業8社が、民主共和党に11、500ドルを送ったという。こんな事実の出所を明らかにしていないCIA報告書に、注目に値する表現がある。『Well Founded』という表現を使っている。

私たちは、このことばの意味と信頼度に関して、アメリカ人学者に尋ねた。



Rob韓国外国語大学英語教育科教授

「『Well Founded』は、根拠があって信用できるという意味だ。だからこれは非常に強い説得力を持っている。文章に統計値があるからでもある。計6,600万ドルという数字、6社が計6,600万ドルを百万ドルから2千万ドルずつ支払ったということ、そこには特定された事実がある。」



私たちは、CIA文書と関連があると見える別のアメリカ国務省文書を手に入れた。1964年、韓国駐在アメリカ大使がアメリカ国務省に送った文書だ。この文書によれば、当時の朴正煕大統領の、金鍾泌を除きたいという意思を伝える。韓日会談反対デモが激しい頃だった。後に二つの対話内容で、朴正煕は、自民党総裁である小野の手紙を紹介しながら、小野が金鍾泌を除外すれば日本との交渉妥結はないと警告したので、除外させられなかったと記録している。



ホン・ソンユル ソンシン女子大学社会学科教授

「今もっとも重要なことは、当時このような仕事に関わった当事者たちが今も生きていて、その人たちが韓日協定の真実を??なければならず、また韓国政府は政府なりに文書を公開しなければならず、アメリカ政府にこれに関する文書の公開を求めること、このような多角的な努力を通じて真実を突き止める必要がある。」



私たちは文書に言及された金鍾泌前自民連総裁に公文を送って、アメリカ国務省の文書に対する真否を問うた。



ユ・ウンヨン前自民連スポークスマン

「金前総裁は、当時民主共和党が日本企業から不法政治資金を受けたことは無く、アメリカが関与する理由もなく、誰かの作り話に過ぎないと言っている。」



1960年代初め、アメリカは韓日関係を正常化しなければならない戦略的利害を持っていた。ベトナム戦争を中心にアジアの共産化が活発になり、自由主義陣営の結束が切実な課題だったからだ。



イ・ゾンウォン教授

「アメリカを中心として日本を強化する地域同盟体制を実現させようとするアメリカの、当時の重要な戦略的堡塁だ。これはベトナム戦争を遂行するための重要な体制でもあるし、それを実行するための重要な部分として、韓国と日本との関係正常化が全体的な構造の中で韓半島が持つ意味だと言えるだろう。」



1965年の韓日協定、それは当時のアメリカ、韓国、日本首脳部の利害関係が噛み合った結果だった。

韓日両国政府が40年間沈黙して来たことには、理由がある。韓国政府は屈辱的な交渉の内容が公になることを心配しているようだ。また日本政府は、北朝鮮との修交交渉が進行中である状況で、自身達の交渉戦略と押し付けがましい交渉内容が明らかになることを心配しているように見える。しかし、アメリカの文書を覗いてみる時、一番大きい理由は、不法政治資金の為ではないのかという疑問を持たせる。

韓国と日本。両国の人的交流は広がって来たし、少なくとも表向きは大きい問題は無いように見える。けれども専門家たちは、両国の間にいつも葛藤の種火が潜在していると指摘する。



チェ・ヨンホ ヨンシン大学教授

「韓日関係は、今、円満に行っているかのように表面的には見えるが、潜在的には不信の種を抱いていると言うことができる。基本的には、日本が歴史認識問題に対してきれいに解決できなかったため、周辺国に対する歴史認識問題が片付かない状況で日本は右傾化して、国粋主義的流れが強化されている。これは周辺国の不信と憂慮を増幅させる過程として作用するだろう。」



日本の右傾化の動きは、戦後60年が流れても変わっていない。その下地には、韓日協定締結過程で明らかになった日本の歴史認識がそっくり敷かれている。専門家たちは、東アジアの和合と安定のために、日本の歴史認識に対する変化が必要だと指摘する。



タカサキ・ショウジ教授

「韓日間の和解がいちばん重要だ。中、長期的に見れば東アジア共同体に向かうことに違いないが、真正の過去史清算は、その時の最大障害を除くことになる。その意味で、東アジアの未来のためにも重要だと思える。」



現在、日本と北朝鮮は、国交正常化のために10年ぶりの交渉を続けている。専門家たちは、最近の国際情勢上、両国間の修交可能性は高いと見通す。そして、北朝鮮と日本が修交するときは、韓日協定改正の機会になると指摘する。韓国政府が韓半島で唯一の合法的政府であることを認める韓日協定第3条を改正しなければならず、その時が機会になると言えるのだ。



キム・ウォンウン 開かれた我が党議員

「北朝鮮と日本の間の国交正常化交渉が10年ぶりに進んでいるということは、1965年韓日協定の交渉内容を日本が自ら破棄していると見られるのだ。従って、韓日協定の条約文は根本的に再検討されて、再交渉されなければならないと思う。」



専門家は、改正の内容には日本の侵略蛮行に対する謝罪と責任ある賠償が含まれなければならず、改正に対する努力は、不実な交渉を放置して来た政府が先頭に立たなければならないと指摘する。



キム・グヮンリョル教授

「正常な独立主権を持った国家の政府なら、過去の軍事独裁政権の外交的失敗を潔く修正して原状復旧させる努力が必要だと思う。そのような努力が真正の韓日関係のために、外交通商部が通さなければならない姿勢ではないかと思う。」



日帝36年間強占の歴史が残した傷は癒えないまま、年月は過ぎている。3年前、日帝植民地支配の謝罪と補償を求めたまま死亡した在日同胞ソク・ソンギ氏の娘。彼女は毎朝墓地を訪ね、恨を抱いて世を去った父の霊をなぐさめる。



ソク・ソンギ氏の二番目の娘

「父は日本人として軍隊に引っ張られた。ところが、帰って来たら韓国人として取り扱われて何の補償も受けられなかった。ほんとうに悔しい。最後まで確実な形として現れなかったから、墓の中でもとてもくやしいだろうと思う。」



死んでも洗い流せない恨を残したまま世を去ったソク・ソンギ氏。彼は太平洋戦争当時、日本によって強制徴兵されて片方の腕を失った。軍隊から帰ってきた彼は、在日韓国人たちを集め、日本政府を相手取って謝罪と補償を求めた。1965年、韓日協定が締結されたが、彼とその仲間には何も返って来なかったから、日本政府を相手にした闘争は続いた。ソクさんと彼の仲間は、補償を求める訴訟を申し立てて最高裁判所まで争ったが、去る2001年、結局敗訴した。



ソク・ソンギ日帝治下強制動員被害者

「大日本帝国の侵略戦争によって発生した犠牲だ。これは間違いない事実だ。」



東京郊外の病院で、ソク・ソンギ氏は、ほかの韓国人たちの訴訟が棄却されているという知らせを聞きながら臨終を迎えた。しかし、彼は、最後まで自身に関心を向けなかった韓国政府を恨むことは無かったという。



キム・ギョンドゥク 日本最初の在日韓国人弁護士

「その人が残した遺言の中で私が忘れられない話しが二つある。一つは日本政府に対することだが、私たちは雑巾のような存在だった。日本で使用価値がある時は好きなように使い、使用価値が無くなれば見捨てられた。私たちは雑巾のような存在だと話す。もう一つは、わが国が弱いからいつまでも日本に見下げられる。その一方で、韓国政府に対しては批判しなかった。わが国が強い国にならなければならないと言った。しかし彼は、自身が見捨てられたということを、どのくらい韓国政府にも言いたかったことだろうか。」



日本の侵略戦争による不幸な過去を清算するために結ばれた、1965年韓日協定。しかし協定が結ばれて39年が経ったが、二国間に横たわる暗い過去は清算されないまま私たちの足首をつかんでいる。もう侵略戦争の幾多の「恨」を癒して未来に向かうためには、過去史をきちんと清算しなければならない。私たちが突き止めた韓日協定未公開文書は一部に過ぎず、まだ多数の文書が公開されていない。歴史を糺すための第一歩は、韓日協定の真実を明かすことであり、その責任は、この問題を捨て置いて来た韓国政府にある。

(終) (注:下線はmikasaによる)

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