自分が願うあり方になるよう、「一人分の責任」を果たすこと

by 池田香代子



国のためにたたかうという発想は、ごく最近のこと。

この話は、モデルとして、たとえばフランスを念頭にお読みください。

 かつて、国とは王国、おおざっぱに言えば王の私有地みたいなものでした。ですからその所 有権争いとしての戦争で本気で命のやりとりをしたのは、王からじかに土地をま かされた封建貴族たちだけでした。ふつうの人びとは傭兵として参加したにすぎ ず、王の領土のために命をかけるなんて気はさらさらありませんでした(これ、 ほんとです)。
 ふつうの人びとが命がけで守るべきとされたのは、そのあとに現れた近代国民 国家です。なぜなら、そこでは人びとが主役だからです。人びとによる戦いをと おして、近代国家は誕生しました。

 人びとは、内に向けては王と戦って自分たちの権利をひとつまたひとつと獲得 しました。そんな国民国家はここ1、2世紀、人びとの活力を引き出し、人類の 進歩に大きく貢献しました。
 けれども、近代の国民国家にはそうした光の部分とともに、影の部分もありま す。そのいちばん大きなものが戦争です。新しい共同体を獲得するための人びと の戦いは、内に向かっただけでなく、外にも向かいました。人びとは他の国の人 びとと戦って、国民国家という新しい共同体を獲得しました。

 そうした歴史的ないきさつから、近代の国ぐには交戦権を固有の権利としまし た。さらにはそれを拡大解釈して、「国を守るため」にさまざまな戦争をしてき ました。じつに身勝手な、へりくつとしか言いようのない理由をつけて。最近で は「テロ報復攻撃」、「テロ先制攻撃」、でしょうか。
 国民国家の近代は、人びとが本気で殺しあう戦争という新しい悲惨を生み出し たのです。国がなければ戦争もない、という「イマジン」の一見素朴なりくつ は、近代の国民国家の本質を衝いています。

 パリ市民が反革命勢力相手に苦戦していると知ったマルセイユ市民が救援のた めに駆けつけた逸話は、国民国家という新しい共同体をよく物語っていると思い ます。見ず知らずの人の命のために自分の命は賭けるわ、人の命は奪おうとする わ……そんなこと、つい数十年、あるいは数年前まで、人びとは夢にも思わな かったのが実状です。マルセイユ市民は、異郷人であるパリ市民に、連帯感なん てもってなかった。その連帯感が生まれたとき、近代国民国家フランスは生まれ た。
 このときに、パリを目指して歩いていくマルセイユ市民が歌ったとされる「ラ ・マルセイエーズ(マルセイユ市民)」が、近代国民国家フランスの国歌となっ たのは、フランス国民はマルセイユ市民をお手本にしよう、ということです。
 「ラ・マルセイエーズ」に限らず、たとえばアメリカ合衆国の国歌も、じつに 血なまぐさいでしょう? 国歌には、「死んでも守るべき愛と忠誠の対象として の国」のCMソングタイプのものがけっこうあります(フランス国歌について は、たしかアルベールビルオリンピックのとき、歌詞の残酷さが議論になった記 憶があります)。

愛しているのは、実は「国」という制度ではなく、故郷や家族や母。

 国って、ようするに法律で運営される制度(やその及ぶ範囲)ですからね。 抽象的で、愛だけでなく、情念の対象には なりにくいはずです。運転免許制度は、ある地域(国とか)で車を運転するため のものですが、それはどんな博愛主義者でも愛せない。国籍制度も、ある地域の 制度とその運用(国政)のもとに生きるためのものでしょうが(その地域の外で でも)、この制度を愛せと言われても困る……。
 だからこそ、「愛国心」を言う人は、その愛の対象を「愛郷心」の対象とすり 替えて語るしかないのかもしれない。もっと生々しく、家族や母親を持ち出すし かないのかもしれない。だったらわたしたちは、みそ汁を飲んでほっとするのは 「国」への愛じゃなくて舌になじんだ食べ物への愛だよ、家庭的なものから得られる 安らぎへの愛だよ、と言うべきだろうと思います。

 国籍と居住地が異なる人は、これからどんどん増えるでしょう。国籍は、文化 的帰属意識として、たとえば食や祭などのかたちで生き生きと受け継がれていく でしょうが、地域的帰属意識は居住地へと移るでしょう。そういう人びとのグ ループは、地域に多様性と活気を与えるでしょう。
 日本の私たちは、たとえばアグネス・チャンさんの社会的発言に耳を傾けます し、在日の作家の日本語作品を愛読し、在日のスポーツ選手に声援を送ります。 横浜や神戸の中華街に遊びに行き、最近ではインド人経営のレストランで、カ レーをナンでいただくのが珍しいことではなくなりました(個人的には、新宿歌 舞伎町裏のコリアンタウンが好き(^_^)v)。これが、私たちの社会の紛れもない 現実です。
 国境はなくならないと思います。でも、もっと低くなっていくと思いますが、 ともあれここ200年、「国」は多くの地域で、人びとの帰属意識に支えられ た、れっきとした共同体です。いっぽうで、そうでないところもたくさんありま す。たとえばアフガニスタンの人の中には、自分がアフガニスタン人だ、という 意識のない人はいくらでもいるとのことです。トライバルエリア、なんてところ もあるし、アフガン全体がゆるやかな「トライバルエリア」のようなものでしょ う。

共同体のメンバーとしての、一人分の責任感

 私は、私が属するこの共同体が、内でも外でも、誰かを踏みつけにしない、公 正なものであってほしいと思うし、そうなるように、私には共同体メンバーとし ての「一人分の責任」があると思っています。たとえば地方自治体の 首長の「ババア発言」にたいして訴訟を起こす方々も、自分が属する共同体 への責任を果たしているのだと思います。そして、そういう責任感はすっとわか るのですが、万が一、「それが愛国心だよ!」なんてアメリカ式に言われたとし たら、お返事に困ります(@_@;)

この文は、chance-forumメーリングリストに投稿されたものを、ご本人の了承を得て 掲載したものです。掲載にあたって、メーリングリストでの他の投稿に対する応答の部分は削除 してあります。タイトル・小見出しは編集にあたって吉田まきこがつけさせていただきました。