[怒濤のソウル]

チェ・ミンシク氏ファン連合会日本支部
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  『チェ・ミン連の掲示板』連載

  シリーズ『怒濤のソウル』 ― 韓国ホームステイと仙台の韓国人たちとの交流の記録 ―

さらんへよ・記  
 



第1回 【ジンスやん】08月 24日 ( Thu ) 05: 15

 年上のジンス。地下鉄4号線の弥阿(ミア)のホームステイ先の息子。カナダの大学を卒業。彼には日本式に年齢差をとっぱらって【ジンスやん】と呼ばせてもらった。高校野球の観戦に一緒に行った。道峰山に一緒に登った。大学路(テハンノ)の炉端焼きで飲んだ。
 飲んだ翌朝の5時。いつものようにアボジとオモニと一緒に教会の早天祈祷会(セビョク・キドフェ)に行った。二日酔いで酒臭かった(=^_^;=けど、ふたりとも何も言わず<(_ _)> に私を真ん中にはさんで祈祷をささげた。ちょっと申し訳ないことをしたかなと思った。この教会では禁酒禁煙があたりまえなのである(=^_^;=。
 朝8時。ジンスは早天祈祷会には絶対に行かなくて、まだ寝たまま(=^_^;=だったけど、私が起こして朝食。オモニの料理はとっても美味しい(*^_^*)。オモニの朝食で私は韓国に行っても韓国料理オンリーで生活できる確信を得た(*^_^*)。アボジは「昨日、どこ行った?」とジンスに尋ねた。私が酒臭い理由を聞こうとしたのだろう。ジンスは朝っぱらからアボジを抱きしめて(=^_^;=すべてを誤魔化した。私の帰国後、この一件がどうなったかはとんと知らない(-_☆)。

【後日談】セビョクの語義にはこだわった。「新しい日が開ける」というニュアンスがあるそうだ。セビョク・キドフェをパク・チョンヒ大統領の戒厳令政策と絡めて論じるアメリカ人の意見を聴いたこともある。しかし、セビョク・キドフェと韓国キリスト教とを結びつけて論じるのはお門違い、というのがほとんどの韓国人の意見であった。



第2回 【高校野球】08月 24日( Thu ) 23: 45

 大学路(テハンノ)で飲んだのは、高校野球の観戦のあとだった。全国大会だけど、客席がらがら。ジンスいわくでは、人気はプロ野球だそうで。飲み代を賭けました。クリスチャンの癖に野球賭博<(_ _)> 。私は富川高校に賭けた。以前にホームステイしたお家の子供たちが富川高校だったから。
 生徒たちがライト・レフトスタンドに別れて応援するのだけど、鳴り物禁止らしくて、コンバットマーチを唄ってた(=^_^;=。ドボルザークの交響曲第9番の4楽章のテーマをちょっといじった感じ。「チャーン、チャン、チャン、チャーンチャチャーン」。たまにウェーブもします。でもウェーブを起こすために通路を走る生徒は教師につかまってしまう。

 で、富川高校は負けた(=^_^;=。

【後日談】ホームステイの数年後、富川(プチョン)で映画祭が開催された。行かなかったが、私にとってはなつかしい場所である。通勤時にはとても混雑する。ソウル駅と仁川(インチョン)駅のあいだにある。



第3回【KOEXにて】08月 25日 ( Fri ) 22: 56

 離散家族の調査をやった会場である。アックジョンにあってめちゃめちゃ広い。ジンスとアボジと一緒に行く。何の催し物かは知らないけれど、ともかく一緒に行く。その催し物はエネルギー展であった。アボジは屋上にソーラーシステムを付けたいらしい。日本製品のブースに行くと、私が通訳モドキをした。帰りがけにビビン冷麺を食べる。美味しかった。
 弥阿からアックジョンまで車でいくこともないのに、とも思ったが運転はジンス。助手席に私(どうも右側の助手席はへんなカンジがする・・・)で、後部座席ににアボジ。ところでアボジはフ○フィルム製品の輸入商で日本語がちょっとできる。雑談するのだが、英語(私&ジンス)、韓国語(アボジ&ジンス)、日本語(アボジ&私)でどうにか3人の会話が進展していく。かなり変なカンジがする。KOEXのあるサムソンのブースで記念品のナップザックをもらった。これが次回の<自転車に乗る>につながる。

【後日談】アックジョンは観光地としてよく知られたお洒落な街。日本の韓国紹介番組でよく映像が流れる。駅前にあるKOEXで南北離散家族の調査の映像が流れたとき、私には感慨深いものがあった。



第4回 【自転車に乗る】 08月 27日 ( Sun ) 17: 50

 ヨウィ島広場には貸自転車屋がある。KOEXでゲットしたナップザックに荷物を詰めて自転車を借りた。借りるときは身分証明書を預ける必要あり。しゃーないからパスポートを預けたσ(^^;)。
 『シュリ』のロケーションの方にも行った。野外銃撃戦のポカリスエットの自動販売機の前でひとり死ぬシーンが撮影された街路。落下傘さん♪の話ではこの場所の特定はできなかったと言う。『シュリ』が上映される何年も前の話である。マッキントッシュの代理店があるのを知っていたからだ。そこでハングルフォントをいくつかフロッピーにコピーしてもらった。←いまじゃ、不要物だけど、その頃はノドから手がでる程、欲しかった。サードパーティのハングル入力キットを入手していたのである(∩.∩)。
 あとは定番の63タワービル。ツインタワービル。KBS。そして純福音教会。純福音教会はガイドブックによれば会員が約40万人(゜o ゜)いるんだそうです。日曜日は何度も礼拝があって、メインホールじゃ埋まらなくて、別室でモニター上映(まるで予備校ですな(=^_^;=)していると聞いた。私は日曜日は弥阿の三養教会に行くわけだから、平日に行ってみたのである。礼拝堂を見たかった。
 そんな腰をぬかす程大きなホールではなかった。ホールの座席にすわってみた。そしたら警備員のオジサンが来た。「どこから来たの?」。当時もこのぐらいのレベルの韓国語は知っていたが、あえて韓国語がまったく分からないフリをした(=^_^;=。警備員さん、ゴメン!残念ながらおじさんと世話話するほどの会話力がなかった。そして、この純福音教会を後にして、もう2カ所行く。次回はその話に続く(∩.∩)。

【後日談】ヨウィド広場はもともとは軍用機滑走路であり、戦争博物館が隣接している。そのヨウィド広場はいまは公園になっていて、貸自転車屋もないらしい。



第5回 【国会議事堂にて】 08月 29日 ( Tue ) 03: 52

 ヨウィ島で自転車に乗って次に向かったのは国会議事堂であった。守衛のおじさんに「写真撮って!」っと言おうとしたが、ニベもなく断られた(=^_^;=。近くのコンビニでビールを買った。そのまま漢江のコンクリート岸壁のほうへ行った。ビールを飲んでうまかった。これが韓国滞在中、初の昼酒(=^_^;=である。昼酒はちょっと背徳的なカンジがして良い。OGラガービール。自転車を返却して、また岸壁へ寄って遊覧船に乗った。
 そのあと、竜山(ヨンサン)電子街へ行った。秋葉原ほど広くはないけど、ラジオデパートみたいなビルがあった。そういう零細な店で電子部品を見るのがとても好きなのである。マッキントッシュの販売店と韓国版マックを製造(委託?)している会社へも行った。ビルの上には七色リンゴ。なんとなくウレシクなった。
 この会社で韓国語版システム7の購入方法を聞こうとした。受付の方がとても丁寧に対応してくれた。でも相手の英語が早口かつ専門用語のオンパレードでわからなかった。
 「私は日本人で、日本語版のマックを持ってます。」
 「それはよくわかりました。で、どういったご用件でしょうか?」
 この会話を何度繰り返したろうか?なんとか、用件を伝えるとシステムディスクのパンフと銀行口座を教えてもらって退散した。その後、この情報は生かさなかった。ところで、MacOS XでマックはOS上でマルチリンガル完全対応になるそうである。そしたら、さっそくチェ・ミンシクさんのフォルダをハングルで作りたい。

【後日談】現在使用中のパソコンはMacOS 8.6とWindows98。両方ともハングル環境を入れている。語学テキストはできる限り打ち込んで練習している。特殊なファイルを除いて、ハングル環境ならMacintoshのほうが数段便利にできている。この頃から考えれば便利になったものだ。



第6回 【道峰山に登る】 08月 30日 ( Wed ) 02: 23

 『シュリ』でミョンヒョンとジュンウォンとジャンギルが待ち合わせた世宗文化会館からは、昼間は北漢山が見えるのだが、本日はそれよりもちょっと東よりの道峰山のお話。標高、約800M。阿弥駅からまあまあ近い。その近くに「学生革命記念公園」というのもある。山の入り口にはお寺があった。境内(?)には露天がならぶ。ここには3度ばかり行った。道峰山の山岳会HPもある。
 入り口からは全然想像できなかったσ(^^;)。険しいのである(=^_^;=。新品のクツでやって来たことをかなり後悔した。いつも私はローファーを掃いているのだが、さすがに海外旅行ではいろんなことを想定してトレッキングシューズを買ったのだ。日本で履き慣らさなかったのが失敗であった(=^_^;=。
 頂上に行くちょっと前に断崖絶壁があった。ジンス♪ともうひとり同行してくれたチョンさん♪はその切り立った岩にひょいひょい飛んでいった。私はクツに足がなじんでいなかったので、岩に行くのは断った。
 "Hey! ****! Come on! Chicken Boy!" (****は私の本名)
 ふたり♪がはやし立てる、チキン!とは「ノミの心臓」の意味(=^_^;=。でも断った。マジで死ぬのはいやだった。人からチキン呼ばわりされたのは生まれてはじめて(=^_^;=だったが、交流するとすぐに心の底から仲良くなれる韓国人のすばらしさを改めて思った(∩.∩)。
 頂上もでっかい岩だった。鉄の棒にフクロが吊してあった。なんと郵便ポスト(゜o ゜)だったのである。週いっぺん回収する、と表示されていた。私がわかる程度の韓国語だったか、英語表記付きだったかは忘れた(=^_^;=。
 頂上の岩に3人で腰かける。南は見慣れた阿弥駅の周辺が見える。私は今、ここに居候(=^_^;=してるんだという感慨を得た。振り返れば北朝鮮側の大地。市街地は見えないけれど、初秋の素晴らしい景色だった。そのまま下におりて行きたいという気持ちになった。
 下山してからはやはり、飲んだ(=^_^;=。バテ気味だったけれど、生ビールが最高にうまかった(^◇^)。チョンさん♪は結婚秒読み段階。無類のプロ野球ファンでイチローや松井や野茂の名前を挙げてくれた。私からはかろうじてドジャースのパク・チョンホを言えた(=^_^;=。

 関川夏央『海峡を越えたホームラン』(双葉文庫)を読んだのは帰国後のこと。

【後日談】帰国後、韓国滞在奮闘のエッセイを何冊か読んで大きな影響を受けた。関川夏央のほかに鷺沢萠(さぎさわめぐむ)『君はこの国を好きか 』(新潮社) と萩原遼『ソウルと平壤』(文春文庫)を推薦する。そして、私のハンドルネーム「さらんへよ」は戸田郁子『ソウル・サランヘ ― 日韓結婚物語』(亜紀書房)から頂戴した。



第7回 【ヨンジュ】 08月 30日 ( Wed ) 23: 53

 ヨンジュはジンスの妹で私より年下。私は「オンニ(*1)」と呼んだ。これは今の私には絶対できない。ヨンジュはしばらくはオンニと呼ばれるのを黙認した。丸顔、ややスリム、身長は150CMぐらい。英語がけっこう話せる。ヨンジュの職業はテキスタイル・デザイナーで自分の部屋で作業していた。納入先は日本の会社だそうだ。
 このご家庭に何度もホームステイしていて、来年行って再び泊まることは確実(∩.∩)。オモニは私が家に到着するなり、かならず「セータク、セータク」と言ってその場で私着ているシャツをひっぱがす。有無は言わせない。そこまでは良いのだが・・・。
 ある日の夕方。ヨンジュがリビングルームで洗濯物をたたんでいた(ここでオチはわかりますね>ALL)。私は果物を食べながら、テレビを見ていた。歌手のキム・ゴンモが好きな私は「あ、キム・ゴンモだ〜」とか喋っていた。バラエティと歌番組は語学力がなくても楽しめる。で、突然ヨンジュが「これ誰の?」と韓国語で言った。

 ”THIS IS MINE !”

 ここは日本語よりも英語が先に出た自分を誉めたい。でも韓国語よりも英語が先に出た自分が情けない。さあ、皆さん、もう気が付いてますね。そうです。ヨンジュは私のパンツ(=^_^;=をたたんでおりました。次の瞬間、お互い真っ赤になった。ヨンジュとの苦笑もののエピソードはまだまだある(=^_^;=。

 *1 お姉さんの意。年下女性が年上女性に呼ぶときのみ可。

【後日談】やはり韓国人の名前を覚えるときは漢字表記が気になり、それを知るほうが覚えも早いのだが、ジンスとヨンジュは漢字名を知らずに覚えたはじめての友人となった。いまだに知らない。



第8回 【キムチ作りを手伝う(?)】 09月 04日 ( Mon ) 19: 48

 ジンスとヨンジュの家にオバサンたちがぞろぞろやって来た。会話は早口でまったくわからない。やおら、たらいを取り出し、キムチ作りが始まった。私は近くで見ていた。白菜キムチ。味見する私が「辛い!」とか言えばカワイゲもあるけど、「マシイッスムニダ(美味しいです)」というから・・・。白菜に唐辛子をすりこむ作業をちょっとやらせてもらったが、下手ッピーでちょっとやって終わり。そりゃそうでしょ。ぬか床をガイジンの男にいじられちゃたまったもんじゃない(=^_^;=。
 記憶が正しければその前日、ヨンジュはリビングルームでニンニクのペーストを作っていた。以下は英語でのやりとりを日本語にしたもの。
 ヨンジュ:「窓、開けてくれる?」
 わたし :「オレはかまわないけど(∩.∩)」
 ヨンジュ:「そうじゃなくって、私が息が詰まるの」
 わたし :「わかった」
 韓国文化への過剰適応は良い結果をもたらさないのが常。ヨンジュの他のセリフ。「オモニの食事の味は最高よ」「あんたの英語の発音悪いね」「これはこうやって食べるのよ」「ゲストのあなたは家事を手伝っちゃだめ」。誤解を避けると、家で仕事するヨンジュと話す時間がいちばん長かった。良くも悪くも社交辞令ぬきなのである。
 韓国料理ならなんでも食べる私の唯一の苦手。それはポンティギ。豆粒大のサナギのくん製。市場でよく見かける。勇気を出して食べたことも、ある。でも、この匂いの半径3メートル以内は私はダメ。これを英語で理路整然と説明するのはあきらめた。中学生並の英単語と身振りだけで勝負!

 market.....ポンティギ.....smell.....too bad.....smell!!

 ヨンジュが椅子から笑いこけた。そして、ふたりで大笑いした。

 次回はリクエストにお応えしまして、「ソウルでデート」(でもやっぱしヨンジュの話)。

【後日談】自己流でチゲ(鍋物)は作る。キムチは奥が深いので私にはまだまだ無理。ポンティギがキライという声はたくさん聞いて、この話を聞いてよろこんでくれる韓国人は多いが、ダイエットに食べるという女性もいる。



第9回 【ソウルでデート】09月 07日 ( Thu ) 04: 21

 会うのは半年ぶりだった。すっぴんだとパク・ウンスクさんに似ているかも知れない。デートの前にヨンジュだけには話した。行く直前、私のピンク色のカッターシャツにアイロンをかけながら、ヨンジュはソウル女性のハートをつかむ秘訣を講義してくれた(∩.∩)。
 ヨンジュは150CMぐらいのミクロ系。まん丸顔。家の中ではずーっと同じスウェットを履いていて、もはや薄汚れてる(=^_^;=。寝起きが悪いので顔はぶーになる。オモニが毎朝、低いアルトのベルカント唱法で「ヨンジュヤーーーン♪」と起こしに行く(^◇^)。煉瓦づくりの家がオモニの美声でこだまする(^◇^)。さすが教会聖歌隊仕込み(=^_^;=。でも、そんなジョンジュも外出するときになると高いヒールにパンツルックでメイクもばっちし。ほとんど別人(=^_^;=である。
 待ち合わせは路上。今だから告白すると1時間ちかく前にはそこに行った。待ちきれなかったのである。名前をウンジョン(Eun-jung)と言う。そのころは名前を正確に発音できなかった。もっとも彼女も私の名前の発音は下手だった。
 向こうのほうからキレイな女性がやって来た。そして私の目の前に来た。日本中のファンの反発を覚悟で書くと、『シュリ』の冒頭のシーンでウェイトレスに扮して出てくるパク・ウンスクさんよりずっときれいだ。日本にいるころは学校とバイトで化粧っ気がなかった。ウンジョンはとても大人びて見えた。そして、そのときが一番きれいだった。その日のことは書かない。書けない。永遠の思い出だから。

 それ以来、ウンジョンとは会っていない。
 そして、ウンジョンを越える女性は私の前にまだ現れていない。

 *
 キム・ゴンモ『美しい離別』、当時から好きだった歌です。


 涙が流れて 別れを知った
 ちからなく背を向けていた 君の後ろ姿を見て
 ぼくも君も悲しいのを知った
 でも耐えなければ 追憶が美しいままであるために
 短かったぼくらの出会いも 美しいぼくらの愛も
 今は涙で消してしまわなければいけない傷にすぎない

※ ぼくの心の深くにいつでも君を残しておこう
  悲しい愛の追憶は君だけでぼくには十分だから
  でも時間は追憶のなかで
  君を忘れてしまえとばかりにすべてを消し去っていくけど
  ぼくはときどき泣いてしまうことだろう

 目を閉じて過ぎ去った日を思い出してごらん
 その中には君とぼくの隠しておいた愛がある
 いつでもぼくは君の心の中にいる
 思い出のかげにかくれて
 長い別れはぼくに君を忘れてしまえというけれど
 悲しい愛は涙の中の君を見ている

※(リフレイン)

【後日談】この曲は最初はカセットテープで聞いて、後々ソウルでCDを買った。歌詞の意味が全部わかったのは韓国語教室に入ってからのこと。先生に頼んで、教材に使ってもらった。



番外編【『グリーンフィッシュ』〜除隊男の話 】 09月 07日 ( Thu ) 05: 09

 HSKとマルチポストです。

 キネカ大森で『グリーンフィッシュ』観てまいりました。

 『グリーンフィッシュ』はこの間のHSKオフの前にパソコンで作業する片手間(!)でいっぺん観たきり。途中でうたた寝する始末。だから昨晩はスクリーンでしっかとこの目に焼き付けてまいりました。脚本・映像・構成・カメラワーク・演技。文句のつけようがありません!
 ハン・ソッキュさんが演じたタイプの男。仙台に知り合いがおりました。そこで、チェ・ミン連で連載中のシリーズ『怒濤のソウル』HSK出張バージョン=です<(_ _)> 。
 そいつはウルフルズのトータス松本に似ていました。トータス松本とは、○清ヤキソバ、UFOのCMでポットのCGに使われるボーカリストです。すっげーぶっきらぼうなヤツでした。日本人とのコミュニケーションのトラブルも遠慮なしに私にずばずば言って来るヤツでした。韓国のキリスト教の横暴(=^_^;=とかクリスチャンの私につめよって来ました。でも、私は話をちゃんと聞こうと思いました。ヤツはモノゴトの筋を必ず通す男だったからです。約束の3分前にかならず指定の場所に現れる男でした。いわゆる【コリアンタイム】をご存知の方は多いと思います。約束の時間をさっぱり守らない韓国人という意味・・・。
 そいつと夜中、他の友人のアパートに一緒に泊まったとき、「戦争が起きたら、お前はどうする?」と聞かれました。私は「家族と逃げる」と答えました。私の中学担任の先生がおっしゃった「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンが私の脳裏にあったからです。でもヤツは違いました。今、日本いる自分はもし【一大事】があったら、なにがなんでもソウルへ行く、と。 これで真夜中の2時に口論がはじまりました。国籍関係なし、年齢差関係なしで、議論は延々と続き、疲れはてて寝ました。ヤツは入隊中はトラックの運転が任務だったそうです。

 そして・・・
 翌朝、いつものように仲良く朝食を一緒に作って食べました。
 これが私が知る韓国人の姿です。

【後日談】この男とよく食べたのはカムジャタン(じゃがいも鍋)である。それにキムチと韓国のりとビール。その当時はこれで大満足だった。この男とは最初のころは筆談でしか会話できなかった。





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