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エッセ essais 4


目次


 

本当は、旅行ほどに… 98.11.29/12.01

本当は、旅行ほどに苦手なものはない。
知らぬ場所に自分が出くわすことの、絶望的な無意味さ。
その現場の光景を、解釈する能力は、僕にはないのである。
レクチュールLectureによる人生への不可逆の転換点を通過した後には、地球上に、旅すべき場所など、どこにも残されていないのだ。幸福な少年時代は終わってしまった。残された道=La Strada?があるならば、それはきっと、閉ざされた夜の闇と、そこに差し込むであろうgleamとの閾のあいだに。それは、先ほど見たフェリーニの白黒フィルムのうえであったかも知れないし(リュミエール的な閾、と呼ぶ)、昨晩まどろみに手にしていた書物のページに記されたインクのしみのあいだであったかも知れない(同様に、クリステヴァ、あるいはバルト的な閾、と)。

これまでに行った唯一の外国である韓国に行く際にも、僕は自分の中の葛藤を鎮めることに苦労した記憶がある。韓国へ行く、一体そこで自分は《泣く女》を発見できるのか? 朴大統領暗殺の暗殺の新聞記事とその後は?。せめてハングルを解釈したあとで旅を始めなければならないはずだ。…要するに、四方田犬彦の『われらが《他者》なる韓国』という本がそこに一冊あったものとして、自分にとっては自らの実践よりもその本のほうが余程重要であり、また、残念ながら、リアルであったのだ。一義的にその本を敷衍すること。まずはそこに追いつかなければならない。それが必要十分だった。

宿泊場所が契約される。一夜睡眠するための安全と快適が提供、あるいは保証される。一体、誰に対して!?。どうして私が、人間である以前の動物としての必要事項を消化する目的のために、あなたは私にserveしなければならないのですか?。私はあなたのMasterではなかったはず。どうして清潔な寝具や快適な部屋を用意しなければならないのですか?、どうして丁寧な言葉で話し掛けて来るのですか?。透明な存在であるはずの私に。
旅先に、微塵たりとも、自分の痕跡を残すことなどおこがましい。目を見開き、耳はそばだてて、口は決して開かず、路傍に眠り、手持ちの金が底をついた頃にくたばって死ぬのが、僕に許された唯一の旅である。ぐっすりと休むよりは、こないだの島根でのように、始発電車まで眠れないほうがふさわしい。安全な場所など、ないのだから。
逆を言えば、僕がそれ以外の旅をすることを恢復できるかどうか、または創造することができるかが、今後の自分にとっては重要な意味を持つのだろう。

ベッドの中で考える。99.1.12

長崎の26聖人記念堂などを設計した今井兼次という建築家がおり、彼のエッセイ『建築とヒューマニティ』を昨晩ベッドで読んでいた。
彼の作品は純粋に建築的に見てしまう前に、そこに込められている「思い」のほうをまず汲み取ることが大切だ。非常に控えめな文体で綴られるつのエッセイをみても、カトリック信者としての、あるいはそれ以前の、彼の物事や人に対する思いを、活字越しに味わうことができる。僕自身にとってクリスチャンは身近な存在ではないが、いつか東京キリストの教会を訪れたときのことなどを思い出しながら読んでいた。

建築に絡めて、近頃では生活ということを考えることがある。住居が日々の生活のために用意されているものということはもちろんのこと、そもそもすべての建築活動が人間の生活をより豊かにするためにあるものなのである。コルビュジェが革命を起こそうと考えていたのも、建築そのものではなく人間の生活だったということをよく考えておく必要がある。

翻って、いまここに部屋を借りて時間をやり過ごしている僕自身の環境が、生活としてリアルであるとは思えない。この感覚は学生時代から継続している。一方彼ら(クリスチャン)のあいだには、独特の共同体意識がおそらくあって、何やらつかめないがそこに生活のリアリティがあるように感じられる。教会に集っていた若者たちを見て何となく感じたことでもあるし、この本にもあるようなカトリックの世界の持つストーリーは、人間の生活にリアリティを与えるに必要十分な力を持っているのかも知れない。

僕にはキリスト教はよく判らないから、もっと引き下げてプリミティブに考えたとき、要するに生活とはコミュニケーションであるから、そもそもの発端は自分が対象を「面白がる」ことが大切だなと思う。面白そうな本を読むのであり、良さそうな音楽を聴くのであり、面白そうな、好きになりそうな人と話をしたいわけである。そうして何かを慈しみ、誰かを愛するわけである。それを包摂する(またはひらく)空間が建築なのである。僕は大体において判断が早すぎて(あるいは別の所で判断しようとして)対象を楽しもうとしない傾向があるから、改善の余地がある。

一方で、ベッドの中で考えるこのようなことに、スピノザもニーチェも廣松渉も出てこないのはどうしたことか。ベッドの中で何気なく考えることがどれだけの妥当性や正確さをもつのか、わからない。スピノザはスピノザに興味のある人が読み返せば良いのか。…基本的には、そうだろうけれど、しかし人にはスピノチストを傷つけないだけの良識は求められるから、意識的に勉強することも大切だ。

物語の権能。99.01.24

TVで『もののけ姫』見ました。
大した映画ですね。ああいった題材をテーマに採るというところ。説話論的構造。映像化にあたっての手法。
各要素が判りにくい部分なくクリアに作られていて、かといってそれによって効果を減じられているとも思えない。そのあたりがさすが経験を重ねているジブリ。

たたら製鉄と言えば山陰、島根ですが、たたらの流れを汲む高級特殊鋼「ヤスギハガネ」の生産で世界的に有名な安来の駅に朝方降り立ち、開館の時間を待って和鋼博物館に立ち寄り、その展示内容をみる。そのことのリアリティと、こうしてこの映画の中で女たちが巨大なふいごをリズミカルに踏んでいることのリアリティって、全然レベルが違うんだよね。

物語の権能、ということを感じずに居られなかった。

最初に「もののけ姫」に出会うシーン。数年前に読んだ小説にあった良く似たシーンを一瞬思い出しました。あのシーンはとても良く出来ていた。

「水」の権能、「火」の権能、「金属」の権能、「森」の権能、「風/息(プネウマ)」の権能、それぞれがよく理解されて映像になっていると感じられました。何者(物)かの「訪れ」、それが「音・連れ」であることもよく解釈されていました。

人間にとって、そんな自然に対してのプリミティブな感性って重要なんだと再確認できたこととともに、またいい映画を見たいと思わせてくれたという意味においても、良い映画でした。

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最終更新日04/09/10