Stand By Me: Michが子供だった頃
問題児として過ごした少年時代。思いつくままに、その時代を振り返ります。
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5月11日 野生児時代
小学生の頃は、春から秋まで、常に何か生き物を飼っていた。といっても、犬とか猫とかではなく、カブトムシ、沢蟹、カマキリなんかだ。私の育ったところは新潟県の山奥なので、周りにはいくらでも自然があった。だから、学校が終わったあと、友達と1時間くらいかけて自転車で近くの川まで行って、夢中で沢蟹を取った。1回行けば、ひとり何十匹と収穫があった。取るのは楽しいので、際限なく取るのだが、問題はそれから。そんなに大量の沢蟹を飼育するのは大変だ。初めのうちは、えさをやったり水を取り替えたりするのだが、そのうちあきて、何もしなくなる。そうするとかにだけに異臭が発生する。そうなるともうお手上げで、近くの川に放流するか、(残酷だが)ニワトリのえさになってしまう。ごめん、沢蟹さん。迷わず成仏していてくれ。

夏休みは、近所の山に出かけ、カブトムシとクワガタを捕まえる。目的地まで行く途中の畑で
、トマトやスイカ、メロンなんかを少しばかり失敬させていただいたものだ。森の中の、樹液が染み出している木に、何十匹というカブトムシやクワガタがいる。下から木を蹴飛ばすと、束になって落ちてくる。それらを夏の間飼っているのだが、一匹また一匹と死んでいく。そして、残り数匹になったころ、夏休みも終わりになる。寂しい夏の終わりだ。

あと、近くの川で、岩魚やヤマメなんかを突いたりもした。私はすごく不器用なので、なかなかうまく突けなかったが、友達にすごく突きが得意なのがいた。彼は後に、クロスカントリーの日本代表として冬季オリンピックに出場することになるのだが、やはりその片鱗を少年時代から見せていた。きっと動体視力と瞬発力が、当時からすごかったのだろう、数え切れないくらい捕まえては、私に分けてくれた。で、火を起こして、みんなで魚を焼いて食べる。山火事の恐れがあるから、絶対焚き火はするなと言われていたが、言われてやめるような素直な子供ではない。その後の人生で、色々なおいしいものを食べてる機会に恵まれたが、あの時代に仲間と食べたあの味に勝るものには、いまだに出会っていない。

田舎の農村だったから、みんな裕福だったわけじゃない。どの家も兼業農家で、日本の平均から見れば、中流以下だったろう。私の家も、当時は貧しく、共働きかつ兼業農家の両親が、なんとか姉と私を育ててくれていた(もっとも、両親は私たちに苦労はかけまいとしてくれたから、それほど貧しさを感じることもなく育ったが)。

そんな、金銭的には豊でない田舎で育った私も、大学を卒業したあとは、きれいなスーツを着て、おいしいものを食べ、なんでも欲しいものが買えるようになった。物質的豊かさを手に入れたんだ。でも、それが幸せだったかどうか問われれば、イエスであるしノーでもある。もちろん欲しいものがいつでも買えることは嬉しかった。しかし、そのための手段であるお金を手に入れるために犠牲にしたものは大きかった。自分を殺し、くだらない上司にもへつらい、どんどん遠くへ行ってしまうような気がしていた。大人になるってそういうことかもしれないから、それが普通なのかとも思う。でも、貧しかったけど、自分に正直で、変に自分を作らないでいられた時代は、もっと心が豊かだったんじゃないのかとも感じる。もちろん、大人になった今と、子供だった当事を単純に比較はできないが。それでも、もう二度と戻れないあの頃のことを思うと、むかし、夏休みの最後の日に感じたような寂しさがこみ上げてくる。二度と手に入らないものを思うときのあの寂しさが。


冤罪…

小学校時代、私はかなりの問題児だった。けんか、悪戯、授業中のおしゃべりなど。そのため、クラス内の机の列からひとりだけ離され、「離れ小島」と呼ばれる状態で級友から隔離されていたこともあった。よって、教師達にはひどく嫌われていた。ただ勉強はできた。それがまた教師にとって気に入らないことのようにも思えた。だから、僕を特別学級(勉強についていけない生徒のためのクラス)に例外的に編入させることも検討されたらしい。

気の毒なのは母である。学期末のPTAに参加したあと、私の母だけはそのあと特別に残されて、教師から指導されることとなる。教師達に対して申し訳なかったなんて露ほども思わないが、母に対しては、今でも済まなかったと思っている。

田舎の小学校のこと、教師による体罰がまかり通っていた。問題児だったがゆえ、私は当然毎日のように殴られていた。僕自身も悪いことをしたという自覚もあったから、殴られることに対しては、特別反発も感じなかった。しかし、自分がやってもいないことが理由で殴られた時は、やるせない気持ちになった。

運動会の練習をしていたときのこと。入場行進のリハーサルをやっていたのだが、行進している列の右手にブランコがあった。その途中、友達のひとりが教師の目を盗んでブランコのところに行き、ひとこぎしてから列に戻った。当然彼が列に戻った後も、ブランコは揺れている。それを見たある教師は、いきなり私をぶん殴った。何も聞かずにである。

ある夏休み、私は友達と一緒に学校のプールに泳ぎに行った。プールに入れる時間までしばらくあったので、友達と話しながらだべっていた。そこへ、ちょっとみんなから馬鹿にされている、2級下の男の子がやってきた。友達のひとりが彼に向かって、「おまえがプールに入ると、水が汚れるんだよ。帰れ」と言った。当時も今も、ひどいことを言うものだと思ったが、その場では、とりなす間もなく、その男の子は泣いて帰っていった。そのあと、プールで遊んでいる時のこと、ある教師がやって来て、私にプールから上がれという。教室のひとつに連れて行かれて、その男の子がおばあさんと学校にやって来て、私に帰れといわれたと苦情を言ったとのこと。言ったのは自分じゃないという私の主張など聞かず、教師は懇々と私に説教し続けた。

まあ、学校でも折り紙つきの問題児だったから、みんなが私をそういう目でみていたんだろう。それは自分の責任でもあるわけだからしようがない。でも、小学生ゆえ、自分の正当性をうまく説明できなかった自分自身と、問題児のいうことなんて嘘ばっかりと、てんで私の言うことに聞く耳持たなかった教師に対しては、いまでも悔しさを感じる。教師のそうした態度で、子供は少しずつ傷ついていくんだ。

あれから20年以上の時が過ぎた。その年月は私を大人にし、人並み以上に礼儀を重んじる人間になった(自称)。今の教師達はどうなんだろう?子供がいるわけでもないし、教師という人種と接点がない今、それを知る術もないが、私が出会ったような教師達が少数派であることを祈る。子供は小さなことで傷つく。教師が考えている以上にだ。その小さい胸に、その傷や、やりきれない思いを抱えている。子供と接する仕事をしている人には、是非そのことを覚えていてほしい。
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