つと、肩に手がかかった。 僕は驚いて尾崎さんを見た。 やけに冷静な視線とぶつかって、僕は戸惑う。 今ごろ、本当に今ごろ気づいたけど、僕は裸だった。 ベッドの中で、きちんと布団をかけられていたけど、何も着ていない。 尾崎さんの手が、布団を下へ押しさげようとする。僕は慌てて布団をつかんで、肌が露出することを避けた。 「……っ。待ってください。ちょっと……」 「三か月も待たされたんだよ。きみは待たせるだけ待たせて、それで去って行くつもりだったのかもしれないけど、俺はいつでもきみが欲しかった」 そんなの聞いてない。 わかってたけど、直接聞いたことなんてない。 「きみは気がついてたのに、知らないフリをしたよね。何もかも、ちゃんとわかっていながら、きみは気づかないフリをしてきた。俺がそれを知らないと思ってた?」 手首をつかまれた。あっけなく腕が頭上に押さえつけられた。 「尾崎さ……」 「他の男に抱かれてるの知ってて、俺がそれに耐えられるとでも思ってた?」 耳元で囁かれた。首筋に、尾崎さんの唇が落ちる。 「今、きみはここにいる。俺の傍にいる。俺と一緒に暮らしてるんだ。それなのに、何もしないでこのまま手放せるとでも思うのか」 さすがにのぼせた頭も、焦りからだんだんはっきりしてくる。 「ずっと、俺は何もしないから安心していいと言ってきた。でもそれは本心じゃない。そう言ってきみを安心させたいだけだった。一緒に暮らせば何かが変わると思ってた。きみの心も身体もいつかすべて手に入ると思ってた。……でも、間違いだった」 ズキリ、と胸が痛む。トゲが刺さったみたいに。 悪いのは僕だった。ずっと期待させてた。確かに最初にここで暮らすことを提案したのは尾崎さんだったし、理由も理由だったけど、尾崎さんの気持ち知ってるのに承知してしまったのは僕だった。 今さら僕には貞操だとかそんなの、関係ない。だからホントはこんなに頑なに拒まなくてもよかった。でも相沢のこと思うとそんな軽はずみなことは絶対にできなくて。 それに、今の僕は相沢じゃなきゃ嫌だった。 「やめてください」 尾崎さんが、かすかに笑った。自嘲に似た笑み。 「貞淑だね、きみも。そんなに彼のこと好き? でも一度くらい他の男と寝たところで、彼はきっと気づきやしないよ。最近では不倫も流行ってるらしいからね。結婚後、他の人とセックスする人間なんていくらでもいるんだよ」 尾崎さんじゃないみたいだった。 もしかしたらこれまで、僕はさんざん尾崎さんを抑えつけてきたのかもしれない。それとも僕に嫌われないようにと、尾崎さんがそう演じてきたのかもしれない。 尾崎さんの手が、布団の中に滑り込んできた。直接、肌に触れる。 僕はその手を押し退けようかどうか、迷った。 迷ってるうちに、布団がはがされてしまう。 尾崎さんの唇が、僕の身体を這った。指がまさぐった。足が絡みついてきた。 「やっ……」 僕は今ごろになって暴れた。いつでも尾崎さんは強引な真似なんてしないのに、今夜に限っては違った。往生際の悪い僕をムリヤリ押さえつけ、強引に唇を奪う。 「つっ」 反射的に舌を噛んだら尾崎さんがはじかれたように顔を離した。叩かれるかと思って目をつむったけど、尾崎さんがそんなことするはずない。 「そんなに嫌なのか」 逃げないようにと思ったのか、体重かけて僕の身体を押さえつけてる。 「嫌いな奴と、ずっと一緒に暮らしてきたのか」 嫌いなんかじゃなかった。 ただ尾崎さんにはこんな真似してほしくなかった。 こんな強姦みたいな真似。 泣きそうになりながら僕は歯をくいしばり、首を左右に振る。 嫌いなんかじゃない。 だけど尾崎さんは相沢じゃない。 恋人のように思うことはできなかった。 しばらく尾崎さんは僕を見ていたけど、ため息をひとつついて僕の上からどいた。元の通りに布団をかけ直し、ズルズルと崩れるように座り込んだ。ベッドに背中からもたれる。 落ち込んだように頭を垂れた。 「タガがはずれた。こんなことするつもりじゃなかったんだ。言い訳にしか聞こえないだろうけど」 僕は何も言えなかった。口を開くと泣いてしまいそうだった。 尾崎さんはまったくこっちを見ずに、立ち上がるなり上着をひとつ持って外へ出てしまった。パジャマ姿なのに。 僕はなんだかすごく疲れて、動くのさえ放棄してた。 なんでこんなことになったんだろう、とぼんやり考えた。 僕が出て行けばいいのか。 それなら尾崎さんも苦しくないだろう。 傍にいるから辛くなる。 僕がいなくなれば忘れてくれるかもしれない。 忘れられれば楽になる。 身体がものすごくだるいのに、僕は起き上がって服を着た。頭はやっぱりボーッとしてて、自分の考えてることがはっきりとわからない。 マンションのドアを抜けて、階段をおりた。夜だからか、誰にも会わない。尾崎さんはいったいどこへ行ったんだろう。 春だけど、夜はまだ寒かった。自分の財布は持ってきたから、今夜は適当にホテルでも探そう。それにはまず、駅の近くまで行かないと。 そう考えながらマンションから離れようとした時。 「なにやってんだ」 突然腕をつかまれて、僕は心底から驚いた。慌てて振り向くと、そこにいたのは尾崎さんだ。 「どこ行くつもりなんだ?」 「……どこか泊まるとこ探そうかと思って……」 「なんでそんなこと考えるんだ。きみはまだ調子悪いんだよ。帰ろう」 尾崎さんだって外に出たくせに。 「戻りません」 「さっきのことなら謝る。謝るだけで済むとは思ってないけど、ふらふらとこんな時間にうろつかないでくれ。だいたいきみは危なっかしいんだよ、いつも」 どの辺がどう危なっかしいのか、きちんと説明してほしかった。 口を閉ざす僕の腕をムリヤリ引いて、尾崎さんは部屋に戻ろうとする。行くとこなんてホントはないから、仕方なく僕はついていくしかない。 自分で自分が何やってんのかわかんなくて、すごくバカみたいだと思った。 無意味な行動とか無駄な行動が多かった。 部屋に戻されて、ベッドに押し込まれた。僕は何をされるのかと思ってちょっと不安だったけど、尾崎さんは何もしなかった。 「朝まで寝てなさい。俺も寝るから」 尾崎さんは毛布を棚から引っぱり出して、ソファに横になった。それきり黙ってしまったから、僕もベッドの中に沈んだ。 結局、僕は何をやってるんだろう。 出て行こうと決心したのに、のこのこ戻って来てる。 僕がいない方が尾崎さんのためになるのに。 迷惑しかかけてない。 翌朝、僕はとりあえず自分の荷物をまとめることにした。体調を崩したことにして、バイトは休んでしまった。尾崎さんはそんな僕の行動を見てたけど、とがめなかった。 「出ていくの?」 「いつまでもお世話になるわけにはいきませんから。これ以上迷惑はかけられません」 「あと、数週間だけなんだろう? 何も今になって出て行く必要はないと思うけどね」 尾崎さんはさりげなく引き止めようとしてた。わかってたけど、僕は引かなかった。 「僕がいない方がいいと思って」 「どうやら俺はきみを追い詰めてしまったようだな」 尾崎さんがため息をついた。最近、なんだかため息が増えたような気がする。 「バイト、行かなくて大丈夫なんですか?」 「俺も休んだ。本当はマズイんだけどね」 尾崎さんが僕の近くに来た。つい、僕は警戒してしまう。 「もう、本当に何もしないよ。だから出て行くなんて言わないでくれ。きみには本気で悪いことしたと思ってる。きみの気持ちをわかってて、ムリヤリあんなことして」 「もういいです。忘れます」 「悲しいことをはっきりと言うよね」 どきっとして僕は顔をあげた。尾崎さんがすごく近くにいて、さらに驚いた。 「忘れないでほしいんだよ、俺は。きみにキスしたことも、きみに触れたことも。きみが忘れるということは、俺の存在自体拒絶してるのと同じなんだ」 「そんなこと……」 「そうなんだよ、少なくとも俺にとってはね」 尾崎さんはそう言って、僕の傍から離れた。 尾崎さんと僕の関係はそのまま変化することなく、日々が過ぎていくように見えた。 でも、少しずつ、変化は訪れている。 尾崎さんと僕の間には、微妙な溝が生じている。すごく微妙な。 あんな風になって、まったく今までと同じようになんて無理だった。 無理を承知でこれまでのように接してるけど、尾崎さんが心の中で僕を切り離そうとしてることに、気づかないはずがない。 ちょっとした仕種や態度にそれは出るから。 嫌われたわけじゃないことはわかっていても、少しだけ僕は傷ついた。自業自得と言われればそれまでだ。尾崎さんに冷たかったのは僕の方だから。 それに僕は今でもずっと土、日には相沢と会ってる。相沢といると安らぐ気持ちが強くて、離れられないことがわかってしまってた。だから本当に尾崎さんには悪いことしてると思っても、僕にとって相沢は決して失えない存在だった。 相沢の引っ越し日が来て、僕は手伝いにすっ飛んでった。 「なかなかだろ?」 マンションの部屋を見渡して、相沢が自慢気に言う。引っ越し屋が三階の部屋に巨大な荷物を運び入れる中、僕たちはダンボールを開けたり配置を決めたりした。 引っ越しも無事終わり、部屋はまだ散らかってるけど、僕たちは一段落つけることにした。散らかってるとは言っても、そんなに荷物が多いわけじゃないんだけど。 買ってきたジュースや食べ物を床に広げる。 部屋はひとりだと広いけど、ふたりだとちょっと狭い感じで、学生が暮らすにしては割といいところだった。これからは仕送りとバイトで相沢は生活するらしいけど、実家からそんなに離れたところじゃないから、何かと親が訪ねてきそうな気配はあった。 「一応、来るなって言ってあるんだけどな」 「それで、僕のことは言ったの?」 いきなり訪ねて来られても、僕はどう対処したらいいのかわからない。なにしろ、相沢の親には嫌われてるし。 「おやじの方は別に問題ないんだけどね。おふくろはちょっと騒いだな。説得するの、けっこう時間かかったけど、おやじが味方についてくれたから無理にでも納得させたよ」 意外だった。 「おやじさんの方は平気だったんだ? 教師殴って退学した奴と一緒に暮らしても」 「そういう言い回しはよせよな。おまえ何も悪くないんだから。詳しい事情は話してないけど、おまえは悪くないんだってことはちゃんと言ってきた。……けど、おやじの方は薄々なんか感じ取ってるかもしれないな。だってその教師、生徒に手ぇ出したのバレてクビになったわけだろ? そのことは知ってたから」 「……じゃあ、僕が手を出されて怒って殴ったとか、そんなふうに思ったかなぁ?」 その通りなんだけど。 「未遂かそうじゃないかまでは知らないだろうけどね」 どうせ退学になるなら、未遂のうちに殴っとけばよかったな。 今さら思ったところで、過去は変えられないけど。 ため息つく僕を、相沢が見た。 「嫌なことは忘れた方がいいぞ。先のこと考えた方が楽しいだろ? 今のおまえならちゃんとやってけるし、人生なんていくらでもやり直しできるんだから」 そうだろうか。 道を間違えて歪んだ方向へ流れて行った僕が、本当にやり直せるんだろうか。 先のことなんて、全然わからなかった。 夢とか、そんなのないし。 特にやりたいことも、目的もないし。 普通のサラリーマンになれないことだけは、はっきりとしてるし。 「相沢は、普通にサラリーマンになるって前に言ってたよね」 「え? うん」 突然、話の矛先が変わって、相沢がちょっと戸惑ったように瞬きをした。 「サラリーマンってさ、結婚しないと出世できないって知ってた?」 「いきなり何言いだすんだ? 今どき、独身なんて吐いて捨てるほどいるぞ」 「いいんだよ、結婚しても」 何言ってんだろうな、僕は。 「おい」 相沢が僕の腕をつかんだ。そのまま床に倒されて、相沢の顔が上から見おろしてくる。 「俺が誰のこと好きか、わかってんのか?」 「わかってるよ」 「他に好きな奴でもできたのか?」 「違うよ」 「……尾崎さんと、何かあったのか?」 「尾崎さんは……僕がフッたんだ」 「……」 相沢が驚いたように僕を見た。 それから、ゆっくりと身体を倒して僕を抱きしめた。 「明日にでも、来いよ。ここに。早く一緒に暮らしたい」 僕だって早くそうしたい。 唇が重なって、服の裾に手が入り込む。 「……相沢、荷物……」 「そんなの後でいい」 整理されてない部屋の中で、僕たちは重なり合った。 |