PART.14

 つと、肩に手がかかった。
 僕は驚いて尾崎さんを見た。
 やけに冷静な視線とぶつかって、僕は戸惑う。
 今ごろ、本当に今ごろ気づいたけど、僕は裸だった。
 ベッドの中で、きちんと布団をかけられていたけど、何も着ていない。
 尾崎さんの手が、布団を下へ押しさげようとする。僕は慌てて布団をつかんで、肌が露出することを避けた。
「……っ。待ってください。ちょっと……」
「三か月も待たされたんだよ。きみは待たせるだけ待たせて、それで去って行くつもりだったのかもしれないけど、俺はいつでもきみが欲しかった」
 そんなの聞いてない。
 わかってたけど、直接聞いたことなんてない。
「きみは気がついてたのに、知らないフリをしたよね。何もかも、ちゃんとわかっていながら、きみは気づかないフリをしてきた。俺がそれを知らないと思ってた?」
 手首をつかまれた。あっけなく腕が頭上に押さえつけられた。
「尾崎さ……」
「他の男に抱かれてるの知ってて、俺がそれに耐えられるとでも思ってた?」
 耳元で囁かれた。首筋に、尾崎さんの唇が落ちる。
「今、きみはここにいる。俺の傍にいる。俺と一緒に暮らしてるんだ。それなのに、何もしないでこのまま手放せるとでも思うのか」
 さすがにのぼせた頭も、焦りからだんだんはっきりしてくる。
「ずっと、俺は何もしないから安心していいと言ってきた。でもそれは本心じゃない。そう言ってきみを安心させたいだけだった。一緒に暮らせば何かが変わると思ってた。きみの心も身体もいつかすべて手に入ると思ってた。……でも、間違いだった」
 ズキリ、と胸が痛む。トゲが刺さったみたいに。
 悪いのは僕だった。ずっと期待させてた。確かに最初にここで暮らすことを提案したのは尾崎さんだったし、理由も理由だったけど、尾崎さんの気持ち知ってるのに承知してしまったのは僕だった。
 今さら僕には貞操だとかそんなの、関係ない。だからホントはこんなに頑なに拒まなくてもよかった。でも相沢のこと思うとそんな軽はずみなことは絶対にできなくて。
 それに、今の僕は相沢じゃなきゃ嫌だった。
「やめてください」
 尾崎さんが、かすかに笑った。自嘲に似た笑み。
「貞淑だね、きみも。そんなに彼のこと好き? でも一度くらい他の男と寝たところで、彼はきっと気づきやしないよ。最近では不倫も流行ってるらしいからね。結婚後、他の人とセックスする人間なんていくらでもいるんだよ」
 尾崎さんじゃないみたいだった。
 もしかしたらこれまで、僕はさんざん尾崎さんを抑えつけてきたのかもしれない。それとも僕に嫌われないようにと、尾崎さんがそう演じてきたのかもしれない。
 尾崎さんの手が、布団の中に滑り込んできた。直接、肌に触れる。
 僕はその手を押し退けようかどうか、迷った。
 迷ってるうちに、布団がはがされてしまう。
 尾崎さんの唇が、僕の身体を這った。指がまさぐった。足が絡みついてきた。
「やっ……」
 僕は今ごろになって暴れた。いつでも尾崎さんは強引な真似なんてしないのに、今夜に限っては違った。往生際の悪い僕をムリヤリ押さえつけ、強引に唇を奪う。
「つっ」
 反射的に舌を噛んだら尾崎さんがはじかれたように顔を離した。叩かれるかと思って目をつむったけど、尾崎さんがそんなことするはずない。
「そんなに嫌なのか」
 逃げないようにと思ったのか、体重かけて僕の身体を押さえつけてる。
「嫌いな奴と、ずっと一緒に暮らしてきたのか」
 嫌いなんかじゃなかった。
 ただ尾崎さんにはこんな真似してほしくなかった。
 こんな強姦みたいな真似。
 泣きそうになりながら僕は歯をくいしばり、首を左右に振る。
 嫌いなんかじゃない。
 だけど尾崎さんは相沢じゃない。
 恋人のように思うことはできなかった。
 しばらく尾崎さんは僕を見ていたけど、ため息をひとつついて僕の上からどいた。元の通りに布団をかけ直し、ズルズルと崩れるように座り込んだ。ベッドに背中からもたれる。
 落ち込んだように頭を垂れた。
「タガがはずれた。こんなことするつもりじゃなかったんだ。言い訳にしか聞こえないだろうけど」
 僕は何も言えなかった。口を開くと泣いてしまいそうだった。
 尾崎さんはまったくこっちを見ずに、立ち上がるなり上着をひとつ持って外へ出てしまった。パジャマ姿なのに。
 僕はなんだかすごく疲れて、動くのさえ放棄してた。
 なんでこんなことになったんだろう、とぼんやり考えた。
 僕が出て行けばいいのか。
 それなら尾崎さんも苦しくないだろう。
 傍にいるから辛くなる。
 僕がいなくなれば忘れてくれるかもしれない。
 忘れられれば楽になる。
 身体がものすごくだるいのに、僕は起き上がって服を着た。頭はやっぱりボーッとしてて、自分の考えてることがはっきりとわからない。
 マンションのドアを抜けて、階段をおりた。夜だからか、誰にも会わない。尾崎さんはいったいどこへ行ったんだろう。
 春だけど、夜はまだ寒かった。自分の財布は持ってきたから、今夜は適当にホテルでも探そう。それにはまず、駅の近くまで行かないと。
 そう考えながらマンションから離れようとした時。
「なにやってんだ」
 突然腕をつかまれて、僕は心底から驚いた。慌てて振り向くと、そこにいたのは尾崎さんだ。
「どこ行くつもりなんだ?」
「……どこか泊まるとこ探そうかと思って……」
「なんでそんなこと考えるんだ。きみはまだ調子悪いんだよ。帰ろう」
 尾崎さんだって外に出たくせに。
「戻りません」
「さっきのことなら謝る。謝るだけで済むとは思ってないけど、ふらふらとこんな時間にうろつかないでくれ。だいたいきみは危なっかしいんだよ、いつも」
 どの辺がどう危なっかしいのか、きちんと説明してほしかった。
 口を閉ざす僕の腕をムリヤリ引いて、尾崎さんは部屋に戻ろうとする。行くとこなんてホントはないから、仕方なく僕はついていくしかない。
 自分で自分が何やってんのかわかんなくて、すごくバカみたいだと思った。
 無意味な行動とか無駄な行動が多かった。
 部屋に戻されて、ベッドに押し込まれた。僕は何をされるのかと思ってちょっと不安だったけど、尾崎さんは何もしなかった。
「朝まで寝てなさい。俺も寝るから」
 尾崎さんは毛布を棚から引っぱり出して、ソファに横になった。それきり黙ってしまったから、僕もベッドの中に沈んだ。
 結局、僕は何をやってるんだろう。
 出て行こうと決心したのに、のこのこ戻って来てる。
 僕がいない方が尾崎さんのためになるのに。
 迷惑しかかけてない。


 翌朝、僕はとりあえず自分の荷物をまとめることにした。体調を崩したことにして、バイトは休んでしまった。尾崎さんはそんな僕の行動を見てたけど、とがめなかった。
「出ていくの?」
「いつまでもお世話になるわけにはいきませんから。これ以上迷惑はかけられません」
「あと、数週間だけなんだろう? 何も今になって出て行く必要はないと思うけどね」
 尾崎さんはさりげなく引き止めようとしてた。わかってたけど、僕は引かなかった。
「僕がいない方がいいと思って」
「どうやら俺はきみを追い詰めてしまったようだな」
 尾崎さんがため息をついた。最近、なんだかため息が増えたような気がする。
「バイト、行かなくて大丈夫なんですか?」
「俺も休んだ。本当はマズイんだけどね」
 尾崎さんが僕の近くに来た。つい、僕は警戒してしまう。
「もう、本当に何もしないよ。だから出て行くなんて言わないでくれ。きみには本気で悪いことしたと思ってる。きみの気持ちをわかってて、ムリヤリあんなことして」
「もういいです。忘れます」
「悲しいことをはっきりと言うよね」
 どきっとして僕は顔をあげた。尾崎さんがすごく近くにいて、さらに驚いた。
「忘れないでほしいんだよ、俺は。きみにキスしたことも、きみに触れたことも。きみが忘れるということは、俺の存在自体拒絶してるのと同じなんだ」
「そんなこと……」
「そうなんだよ、少なくとも俺にとってはね」
 尾崎さんはそう言って、僕の傍から離れた。


 尾崎さんと僕の関係はそのまま変化することなく、日々が過ぎていくように見えた。
 でも、少しずつ、変化は訪れている。
 尾崎さんと僕の間には、微妙な溝が生じている。すごく微妙な。
 あんな風になって、まったく今までと同じようになんて無理だった。
 無理を承知でこれまでのように接してるけど、尾崎さんが心の中で僕を切り離そうとしてることに、気づかないはずがない。
 ちょっとした仕種や態度にそれは出るから。
 嫌われたわけじゃないことはわかっていても、少しだけ僕は傷ついた。自業自得と言われればそれまでだ。尾崎さんに冷たかったのは僕の方だから。
 それに僕は今でもずっと土、日には相沢と会ってる。相沢といると安らぐ気持ちが強くて、離れられないことがわかってしまってた。だから本当に尾崎さんには悪いことしてると思っても、僕にとって相沢は決して失えない存在だった。
 相沢の引っ越し日が来て、僕は手伝いにすっ飛んでった。
「なかなかだろ?」
 マンションの部屋を見渡して、相沢が自慢気に言う。引っ越し屋が三階の部屋に巨大な荷物を運び入れる中、僕たちはダンボールを開けたり配置を決めたりした。
 引っ越しも無事終わり、部屋はまだ散らかってるけど、僕たちは一段落つけることにした。散らかってるとは言っても、そんなに荷物が多いわけじゃないんだけど。
 買ってきたジュースや食べ物を床に広げる。
 部屋はひとりだと広いけど、ふたりだとちょっと狭い感じで、学生が暮らすにしては割といいところだった。これからは仕送りとバイトで相沢は生活するらしいけど、実家からそんなに離れたところじゃないから、何かと親が訪ねてきそうな気配はあった。
「一応、来るなって言ってあるんだけどな」
「それで、僕のことは言ったの?」
 いきなり訪ねて来られても、僕はどう対処したらいいのかわからない。なにしろ、相沢の親には嫌われてるし。
「おやじの方は別に問題ないんだけどね。おふくろはちょっと騒いだな。説得するの、けっこう時間かかったけど、おやじが味方についてくれたから無理にでも納得させたよ」
 意外だった。
「おやじさんの方は平気だったんだ? 教師殴って退学した奴と一緒に暮らしても」
「そういう言い回しはよせよな。おまえ何も悪くないんだから。詳しい事情は話してないけど、おまえは悪くないんだってことはちゃんと言ってきた。……けど、おやじの方は薄々なんか感じ取ってるかもしれないな。だってその教師、生徒に手ぇ出したのバレてクビになったわけだろ? そのことは知ってたから」
「……じゃあ、僕が手を出されて怒って殴ったとか、そんなふうに思ったかなぁ?」
 その通りなんだけど。
「未遂かそうじゃないかまでは知らないだろうけどね」
 どうせ退学になるなら、未遂のうちに殴っとけばよかったな。
 今さら思ったところで、過去は変えられないけど。
 ため息つく僕を、相沢が見た。
「嫌なことは忘れた方がいいぞ。先のこと考えた方が楽しいだろ? 今のおまえならちゃんとやってけるし、人生なんていくらでもやり直しできるんだから」
 そうだろうか。
 道を間違えて歪んだ方向へ流れて行った僕が、本当にやり直せるんだろうか。
 先のことなんて、全然わからなかった。
 夢とか、そんなのないし。
 特にやりたいことも、目的もないし。
 普通のサラリーマンになれないことだけは、はっきりとしてるし。
「相沢は、普通にサラリーマンになるって前に言ってたよね」
「え? うん」
 突然、話の矛先が変わって、相沢がちょっと戸惑ったように瞬きをした。
「サラリーマンってさ、結婚しないと出世できないって知ってた?」
「いきなり何言いだすんだ? 今どき、独身なんて吐いて捨てるほどいるぞ」
「いいんだよ、結婚しても」
 何言ってんだろうな、僕は。
「おい」
 相沢が僕の腕をつかんだ。そのまま床に倒されて、相沢の顔が上から見おろしてくる。
「俺が誰のこと好きか、わかってんのか?」
「わかってるよ」
「他に好きな奴でもできたのか?」
「違うよ」
「……尾崎さんと、何かあったのか?」
「尾崎さんは……僕がフッたんだ」
「……」
 相沢が驚いたように僕を見た。
 それから、ゆっくりと身体を倒して僕を抱きしめた。
「明日にでも、来いよ。ここに。早く一緒に暮らしたい」
 僕だって早くそうしたい。
 唇が重なって、服の裾に手が入り込む。
「……相沢、荷物……」
「そんなの後でいい」
 整理されてない部屋の中で、僕たちは重なり合った。


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