あれから五日たった。 相沢には会いに行かないまま、ファミレスのバイトと雑誌モデルの仕事は復帰した。 僕の様子がおかしいことに尾崎さんが気づいたかどうかは、何も言わないからわからなかった。案外、僕のポーカーフェイスが完璧で、わりと鋭いタイプの尾崎さんでも気づかないのかもしれない。忙しくて会話する時間が少なかったせいもあるのかな。 けど、いつまでも相沢に会わないわけにはいかなかった。毎日のように訪ねて行った僕が、急に連続して来なかったら絶対おかしいと思うだろう。何かあったんじゃないかと心配するかもしれない。 カメラのフラッシュにもいつの間にか慣れた僕は、その瞬間だけ悩みを消した。考え事をしてると必ずバレるから、すべてを頭の中から追い出す。 とりあえず人前では沈んだ心を見せなかった。隠していると意外に気づかれない。 知られて相談できるような内容じゃないから、気づかれない方が有難かった。 撮影が終わってスタッフの人が飲みにいかないかって誘ってくれて、なんとなくついていくことにした。尾崎さんは今日はいない。時間がすれ違っちゃったみたいだな。 高谷(たかたに)さんと松本さんと瀬川さん、という三人の年上の男の人たちにまじりながら歩いて、こんな僕は珍しいよなって思った。 これまで誘われても、付き合いを悪くしてた僕はあんまり参加してなかった。なるべくなら早く帰りたかったし、男にも女にも好かれやすい僕の性質のせいで、余計な方向へ発展しないように気をつけなきゃならなかったせいもある。 この三人はたぶん安全なんだろうな……なんて油断はできない。危険な様子はないんだけど、鮎川にだまされた分だけ警戒心は強くなっていた。 居酒屋のような店に入り、日本酒やらなんやら注文して、たわいない会話を繰り広げた時だった。客は何組もいたけど、店の奥の方から見覚えのある顔が見えた。 それが鮎川だって気がついた時、向こうの方も明らかに気づいた様子を見せた。鮎川の他には紀ノ瀬と岩本がいる。よく一緒につるむ連中だな。 人数はそれだけでなく、他に男ふたりと女の子が五人いた。ようするに、コンパのようなものらしい。 僕は慌てて目をそらし、何も見なかったフリをした。けど、相手はそうしてくれなかった。 「あれー? 悟瑠くんじゃーん。久しぶり、誰この人たち?」 仲間たちを掻き分けて席から外れた鮎川が、目の前に現われた。 「知り合い?」ってスタッフの人に訊かれて、頷かないわけにはいかなかった。 「……友達と同じ大学の人」 相沢のことを「友達」なんて表現するのは、なんだか変だった。変でも他に言いようがない。まさか「恋人」なんて言えないし、「同居人」でもちょっと問題がある。仕事の種類が業界絡みなだけに。 スタッフの人が鮎川に「一緒に飲むかい?」なんて誘った。冗談じゃないと内心で叫んだ。口に出して拒否すれば何故かと訊かれる。鮎川が何を言い出すかわからないだけに、うかつなことは出来なかった。 「俺、仲間と一緒なんすよー。しかも今、ちょうど合コンでねー。彼女できるかどうかの瀬戸際なんすよ」 僕に与えた傷のことなんか記憶にないと言わんばかりの明るさだった。こんな風に人当たりよくして、調子うまく合わせて、ノリがよくて、気がつけば溶け込んでいる。そんな要領のいい鮎川が、得体の知れない生き物のように見えた。 この姿だけ見れば、きっと誰も疑わない。裏で何を考えているかなんて。 うっかり目が合った。 鮎川がにやっと笑った。その笑顔自体に粘着質な気配はない。けど瞳の奥の方で、僕を獲物として捉えていた。……そんな気がした。 鮎川が仲間たちの方に戻った。紀ノ瀬が僕に気づいて目が合った。きょとんとして鮎川に何かを訊いている。それに鮎川が答えるやりとりが見えたけど、声は聞こえなかった。 用事を思い出したことにして、僕はその場から離れることにした。 これ以上、鮎川と同じ店の中にいるのは耐えられそうにない。スタッフの人たちに挨拶をして、店を出た。 タクシー拾うしかないな。 けどこの店の通りにはタクシーが走っていない。もう少し広い通りに出ないと駄目かな。 「なに、もう帰んの?」 すぐ後ろから声がして、全身に鳥肌が立った。 仲間たちと盛り上がっていたから絶対に気づいてないと思ってたのに。 店のドアを背にして、鮎川が僕を見ていた。あんまり至近距離にいたから、思わず後ずさった。 「つ……ついてくるなっ」 「つれないこと言うねー。俺たち行くとこまで行った仲じゃん。なーにをそんなに警戒してんのかなー?」 からかうように笑いながら鮎川がそう言った時、店のドアが開いた。 「鮎川っ。これ企画したのおまえだろ。勝手に抜けるなよ」 怒りながら姿を見せたのは、紀ノ瀬祐汰だった。そんな彼に、鮎川はヒラヒラと手を振る。 「やめやめ。おまえら勝手に楽しんどけよ。やっちゃったモン勝ちだからさ」 「おまえのそういう発想、嫌いなんだよ。俺も帰る」 鮎川が舌打ちした。邪魔が入ったとでも思ったんだろうか。 「帰りたきゃ、勝手に帰りゃいいじゃん。だったら仲間集めした時に、参加するなんて言うなよな」 「参加しろってうるさかったの、おまえの方じゃんか」 この隙に逃げよう。 と思ったのに気がついたのか、鮎川が僕の左手首をつかんだ。 「ちょっ……離せよっ!」 「やだよ。せっかくつかまえたのに」 鮎川の手の力は強くて、振り払うことが出来なかった。 「とにかく、嫌ならとっとと帰れ。俺はこれから用があんだよ」 手首をつかんだまま、鮎川は紀ノ瀬に向かって言い放った。 用ってなんなんだよ。嫌な予感が脳裏をかすめた。 「こっちにはない! 離せっ!」 怒鳴りつけたら、紀ノ瀬の方が驚いた顔をした。そして何を思ったのか、茫然とした顔で鮎川を見た。 「おまえ、この人になにしたの」 「……え?」 鮎川と僕は同時に驚いていた。紀ノ瀬がいったい何に気がついたのか、どうして気がつくのか。 「すごく嫌がってるだろ、放せよ」 「そんな嫌がってないだろ。なに言ってんだ」 鮎川が反論した。 紀ノ瀬は引き下がらなかった。 「だって顔色めちゃくちゃ悪いよ。なんかサイアクなことなかったら、そんな風にならないだろ? いったい何したの、おまえ」 「べつに何もしてねーよ」 「嘘だ」 ……変なやりとりだった。それよりも、なんとかこの場から逃げたい。 いきなり車のクラクションが鳴った。心臓が跳ね上がって慌てて振り向くと、路上に一台の車が止まっている。見覚えのある車の窓から顔を出したのは、尾崎さんだった。 「こんなところで何してるんだい?」 助かった! 「お、尾崎さんはどうしたんですかっ」 「瀬川さんから留守録があって、暇があったらそこの店に来ないかって誘われたんだ。きみもいるって聞いたし。それで来たんだけど……なんか、妙に取り込んでいるね」 「あのっ。乗せて下さいっ、その車に!」 「え?」 ムリヤリ鮎川の手を引き剥がそうと試みた。予想しなかった展開に鮎川が慌てた。 「待てよっ。なんでそいつはよくて俺は駄目なんだよっ!」 「うるさいっ!」 思い切り鮎川の手に爪を立てたら、その痛みで隙ができて離れた。そのまま僕は走り出し、何が何やらわからずにいる尾崎さんの車に乗った。 「出して!」 「う、うん」 車が発進した。鮎川が慌てている。紀ノ瀬は唖然としていた。 「このまま遠くに行ってください」 「いったい、何があったんだい?」 尾崎さんが戸惑っている。僕はどこまで口にすればいいのか迷った。 「……瀬川さんたちには、せっかく誘ってもらったのに悪いことをしました。途中で抜けだしてきちゃって……」 「彼らが何かしたの?」 「違います。そうじゃなくて……」 「さっき絡んでた人?」 「……はい」 「知り合いかい?」 僕は黙った。けど尾崎さんには隠したって、たぶん見抜かれる。 「……相沢と、同じ大学の人です」 「何が原因でもめてたんだい?」 「…………」 僕は何も言えなくなった。まさか本当のことなんて話せない。 「言いたくないことなら無理には訊かないよ」 尾崎さんらしかった。僕が口を閉ざしたらそれ以上突っ込んではこない。 「でも、相沢くんには言った方がいいかもしれないね」 僕は黙り込んだままだった。 なんで相沢に何も伝えてないことまで見抜かれちゃうんだろう。 相沢に言う? どうやって? 鮎川にされたこと、言われたこと、相沢にすべて打ち明けるのは苦痛でしかない。 だけど会いたい。本当は。 会いたくて会いたくてたまらない。だけどその反面で怖かった。 怖くて怖くてたまらなかった。 「最近、見舞いに来てくれないって言ってたよ」 「!」 「何かあったのかって俺に訊かれてもね。きみからは何も聞いていないとしか答えられなかったよ」 「……行……ったんですか、相沢のところに……」 「ああ。いくら恋敵だからって、入院したのに無視するわけにはいかないだろう?」 走っていた車が信号のところで止まった。すると突然、尾崎さんが後部座席へと手を伸ばし、何かを探しはじめた。雑誌を一冊、左手に持ったかと思うと、当り前のことをするような自然な仕種で僕に渡した。 「三十一ページ、開けてみて」 「え……?」 意味がわからないまま、言われた通りにページを開いた。 夜で暗いから、見づらかった。街の通りの灯りでなんとかページを確認する。 三十一ページには、誰かのエッセイかコラムのようなものが載っていた。連載ではないみたいだった。あんまりそういう類の文章はは読まない方だから、そこに載っているのが知らない名前でも別に不思議には思わなかった。 「それ、俺が書いたんだ」 「えっ?」 予想もしなかったことを言われて、一瞬聞き違ったかと思った。脳の回転が遅いのか、尾崎さんの言葉を理解するまで、五秒くらいはかかった。 「……えええっ?」 反応の遅い僕に苛立つことなく尾崎さんは笑った。いたずらっぽい笑み。作戦が成功して喜んでいるような感じ。 「なんでこんな暗いとこで渡すんですか、そんな重要なものを。街灯や店の灯り程度じゃ、よく見えないですよ」 「ごめんごめん。なんか、照れ臭くてね」 車はとっくに走り出していて、尾崎さんは苦笑していた。 「それ、きみにあげるから。家に帰ってから読んで」 「もー」 懸命に目をこらしたけど、見出しや写真以外の活字はよく見えなかった。光源が少なすぎる。 「目、悪くするから。ここでは読まないほうがいいよ」 「気になっちゃうじゃないですか」 「ちゃんと送ってあげるから」 尾崎さんに笑われた。 「……いつから書いてたんですか、こういうもの」 「雑文は、高校のころから書いていたよ。雑誌なんか読んでいると、錯覚するんだよ。自分にもこれくらい書けるんじゃないかって。卒業してからしばらく書かない時期もあったんだ。きみと一緒に暮らしていた頃も書いてなかったな。だけど……ウェイターとか雑誌モデルとか、いろいろバイトをやってみて、違うんじゃないかって思ったんだ、最近。自分の好きなことは何かって考えた時に」 僕は黙って聞いていた。 「少し前、雑誌に文章書く仕事してみないかって話があったんだ。高校の同級生に出版社へ就職した人がいてね。それで、とりあえず掲載するかどうか決めるためにも何か文章書いてよって言われたんだよ。自信はなかったんだけど、書いて渡したら掲載が決まってね。手直しは必要だったんだけど、これはチャンスかなって」 すごい。 「これをクリアしたからって、まだ有頂天になるのは早いんだよ。これっきりで話が来なくなる可能性だってあるんだ。売れなければ即、切り捨てられる世界だからね。芸能界と一緒だ。モデルもね。一般にウケなきゃ、すぐに駄目だと言われる。必要ないと捨てられる。でも俺は、がんばってみることにした。媚びる文章は絶対に書かないけど、自分の書く文で売ってみよう。みんなに買わせてやろうって。たぶん……書くのが好きなんだろうね」 なんで尾崎さんが誘いがあっても芸能界入りしなかったのかとか、モデルの仕事の枠を広げなかったのかとか、ストンと理解した。 「バイト、やめるんですか?」 「まさか。今やめたら食べるのに困るよ。生活もできない。両方やるんだよ」 それはすごく大変なことなんだろうな、と漠然と思った。 改めて考えたら、僕は何かのプロになろうとはしていなかった。目指すものなんか、何もなかった。好きなこともなかった。そもそも、僕には趣味なんかない。 流されるようにモデルの仕事をしてきたんだ。 尾崎さんをすごいと思う反面で、遠くなったような気がしてた。 手を伸ばせば届く距離にいるのに。 何か目指せばまだ間に合う年齢なのに、僕には難しいと思った。尾崎さんと同じようにモデルでひとつの出版社としか契約しなかったのは、あまり有名になれないからだった。華やかな表の世界は僕には眩しすぎる。僕の存在をたくさんの人間に知られたくない。 過去の汚点が僕を突き刺した。なんで身体なんか売って生きてたんだろう。 だけど僕は、有名になるのが苦手な性質だから、今くらいの状況は丁度よかった。けれどそれじゃあ将来が不安だ。僕の目指す道なんかないから、余計に。 焦燥? 羨ましさと悔しさと。 憧れと。 なんだかわからない感情が僕を襲った。 このままじゃいけないんだと頭のどこかが思っていたのかもしれない。だから僕はこんな変な感情にさいなまれるんだ。 「……悟瑠くん?」 考えこんでいた僕はハッとした。いつの間にか、車は止まっている。 「着いたんだけど、大丈夫かい?」 「……あ。すみません、ぼーっとして。今日は本当にありがとうございました。助かりました。雑誌までいただいちゃって」 車のドアを開けて、外に出た。 「ちゃんと読みますね、これ」 「うん。じゃあ、また明日」 「はい。おやすみなさい」 車が走り去って行った。……尾崎さんに、変に思われたかもしれないな。 僕は部屋に戻って、さっそく雑誌を開いた。 |