「学校、途中で家寄ってから行くからさ」 一緒に朝食を食べてる時、相沢が言った。 昨日も一度家に帰ってから僕のところに来たらしくて、学校関係のものはすべて家にあると言う。そんなわけで今朝、相沢は早起きの人だった。つられて僕も起きてしまった。 朝になったらどんな風になるのかと思ってたけど、いつもと変わらない相沢だった。だからかな、僕もいつもと同じだった。 でも、急に違う雰囲気になるのもおかしいか。 相沢が部屋から出て行ってしまうと、急に寂しくなった。 けど、しばらくしたら僕もバイトに出かけなきゃならないから、支度しないと。 身体が少し重かったけど、バイトは無事に終わった。帰り際、着替えていたら、尾崎さんが僕を呼んだ。 「悟瑠くん」 「はい?」 振り返ると尾崎さんが少し神妙な顔をしてる。……なんだろう。 「昨日の彼とは、ただの友達なのかな」 「え……」 僕は口ごもった。今の僕と相沢の関係は、いったい何だろう。 友達という単語はもう似合わない。 僕が答えに困っていると、尾崎さんが突然ふっと笑った。 「いやいいんだ。気にしないでくれよ」 背中を向けて着替えを続けた。僕はその背中をただ見つめた。 そしてふと、相沢は今日も来てくれるだろうかと考えてしまった。 「今日も晩飯一緒に食べないか?」 ぼんやりと相沢のこと考えてたらいきなり、いつの間にか着替え終わっている尾崎さんがそう言った。 「えっ、あ、はい。行きます、ぜひ」 僕は咄嗟に愛想よく返事した。 昨日とは違う店だった。それも寿司屋。 「……僕、貧乏なんですけど」 思わず尻込みした僕を見て、尾崎さんが笑った。 「いいよ気にしなくて。俺のおごりだから」 「えっ、そんな昨日もおごってもらったのに……」 「俺はきみより金あるから。金持ちってほどでもないけどね」 結局断わりきれなくて、僕は寿司をご馳走してもらうことになった。 なんで尾崎さんは僕にそんな親切にしてくれるんだろう。 退屈しない話を次から次へと喋って、僕を楽しませてくれる。 こういうことって普通、女の子にやらないかなあ。 帰り際になると、また尾崎さんは僕を送ると言う。 僕が断わっても、聞いてくれなかった。 ふたりでのんびりと歩いて、たわいない会話をした。尾崎さんといると楽しいから、これはこれでいいような気もしてた。 アパートが近づいてきた時、前方から人影が歩いてきた。 昨日のこと思い出して、もしかしたら相沢がまた来てくれたのかと思った。 けど、相沢なら、アパートのところで待ってるはずだ。 期待ばっかりしてるから、なんでも相沢かと思ってしまう。ただの通りすがりの人だろう。 そう思った矢先、いきなり全身に悪寒が走った。 前方から来る人影から異様な気配を感じた。 「……おや」 聞こえた瞬間、僕の全身が粟立った。聞き覚えのある声だった。 「あれからどんなに探しても見つからないと思ったら、やはりこの辺にいたのか」 聞き違いじゃなかった。 生活指導の教師だった。 こんなに暗いのに、わずかな街灯と月灯りだけで僕を見分けるなんて。 見つけてしまうなんて。 「……誰?」 尾崎さんが怪訝そうに訊いた。僕は答えられない。 怖くて、全身が固まったみたいに、動かない。 「あの夜、きみをこの腕に抱いて、わたしにはやっぱりきみしかいないことがよくわかったんだ。何故バイトをやめてしまったのかね? おかげで探すのにこんなに手間取ってしまったよ」 この男の異様さが、尾崎さんにもわかったみたいだった。言葉の内容にきっと驚いただろうと思うけど、かばうように腕が前に出て来た。……聞かれたくない内容だった。 「なんなんですか、あなたは」 男がうっそりと顔をあげる。 「おまえこそ、なんだ」 「俺は彼の同僚です」 「邪魔だ。どけ」 尾崎さんを突き飛ばすと、そいつの腕が僕に伸びた。僕は喉の奥で小さな悲鳴をあげて、抵抗した。 尾崎さんがそいつの背後につかみかかって、ガッと頬を殴る。吹っ飛んだ拍子に、腹部に膝蹴りを見舞った。ひっくり返った瞬間に、尾崎さんの手が僕の腕をつかんで走り出した。 「逃げるぞ!」 僕は言われるまま走った。 アパートにはすぐに着いた。相沢の姿はなかった。……今日は来なかったんだ。 落胆してる僕に尾崎さんは気がついたみたいだったけど、何も言わなかった。こんな時には相沢にいてほしかったけど、こっちからじゃ連絡取れない。 鍵を開けようとしたけど手が震えて、変わりに尾崎さんが開けてくれた。 ようやく部屋に入って鍵をかけたところで、僕は全身の力が抜けた。部屋の真ん中で座り込んでしまう。 「なんだったんだ、あいつは?」 「……」 どこから説明したらいいのか、僕にもよくわからない。 「顔色が真っ青だ。水でも飲むかい?」 僕は頷いた。 コップに水を汲んでもらい、受け取ったけど手が震える。 「大丈夫?」 「……大丈夫です」 「さっきの人は、知り合い?」 「……」 黙ってしまった僕を、尾崎さんが心配そうに覗き込む。 「でも会いたくなかった人なんだね?」 僕はコクンと頷いた。 両手で握るようにコップを持って、水を飲んだ。それでようやく、まともに息が出来るようになった。 「ご迷惑をおかけして、すみませんでした」 「迷惑って……被害に遭ったのはきみの方だよ?」 「でも尾崎さんは何の関係もないのに巻き込んで……」 「俺がいなかったら、もっと大変なことになってたんじゃないか?」 その通りだった。 ひとりだったら無事でなんて済まなかったと思う。 さあぁ……っと全身の血が引く。 「ありがとうございました。助けていただいて……」 深々と僕は頭を下げた。本当に心底から感謝していた。 ……でも、まだ問題が解決したわけじゃない。 アパート引き払わなきゃ。ここに住んでる限り、奴とはまた遭遇する可能性が高い。 相沢には……どうしよう。話さないと。でも……話せない。 なんでこんなことになるんだ。 僕がいったい何をした? 「俺は何もしてないよ。きみを引っ張って逃げただけだ。さっきの奴がなんだったのか知らないけど、きみを見つけるためにうろついてたみたいだね。ストーカーかな」 ざわっと全身が総毛立った。 「気をつけないと。きみは男にしてはかなり綺麗な方だから、それだけで狙われやすい。警察に突き出してやりたいくらいだが、証拠らしい証拠もないからそれも難しいな。もし、何度も遭遇するようだったら本格的にここを引き払って引っ越した方がいい。それとも、しばらく俺のところにいるか?」 「え?」 思いもかけない言葉が聞こえて、僕は驚いて顔をあげた。すぐ目の前に尾崎さんの顔があって、真剣な眼差しで僕のことを見ていた。 「俺は独り暮らしだし、家の方角も違う。きみさえよければ、しばらく身を隠すためにも俺のところに来た方が安全だ」 「え……でも」 そんなことしたら相沢が。 他の人の家になんかいたら相沢が来れない。 「でも、悪いから」 「俺のことなら気にしなくていい。全然迷惑なんかじゃないよ。それよりもきみの安全を考える方が大事だろう? すぐに引っ越すなんてできないから、それまでの間だけでも」 「でも……」 「ここから離れられない事情でもあるの?」 ズキッと胸が痛んだ。尾崎さんの申し出は有難すぎるくらいだけど、それでも僕は相沢と一緒にいられるこのアパートにいたい。引っ越すにしても、相沢に伝えてからじゃないと。 「俺はなにか、きみを追い詰めるようなこと、言ってる?」 尾崎さんの手が、ふいに僕の頬に触れた。 不覚にも僕はビクッっとしてしまった。 尾崎さんが小さく「ごめん」と謝る。それから苦笑する。 「昨日の、彼。恋人?」 「えっ、ち、違いますっ。まだそんなんじゃ……っ」 急に変な方向に話ふられて、僕は思わず慌てた。駄目だろう、その態度じゃ! 「気がついたかい? 昨日、きみの隣に俺がいたのを見て、彼はとても険しい顔をしたんだよ。まるで俺が悪い虫みたいにね」 「すみませんでした」 つい僕が恐縮してしまう。 「相沢は本当はすごくいい奴なんです。僕がずっと落ち込んでるって言うか、ダメだった時に傍にいてくれて面倒見てくれて、そのおかげで立ち直れて。感謝してもし足りないような奴なんです。昨日は……たぶん、驚いてたんだと思います。僕が他の人と並んで歩いてたりしたから……」 「いや、きっと悪い虫だと気がついたんだよ。確かに俺は昨日、下心を持っていたから」 「え……」 驚いて僕は言葉をなくした。唖然として尾崎さんの顔を見つめていると、困ったように目をそらされる。 「ちょっとはね、脈あるかなと期待してたところがあったんだ。きみが俺に好感持ってることはわかっていたし、長期戦で攻めてみようかと。でもまあ、昨日の彼が恋人だとするなら、諦めもつくしね。……なんか、変な方向に話が流れてったなぁ。そんな話よりも深刻なことが起こってるっていうのにな」 僕はなんと言えばいいのかわからなくて、黙ってた。 だから余計尾崎さんは困ったみたいで、ちょっと落ち着きをなくした。 「いや、忘れてくれていいんだ、それは。一応、俺のことは伝えておきたかっただけだし、きみがそれどころじゃないのも、わかってるんだ、ちゃんと」 それどころじゃない……と聞いて、僕は胃の中がキュッと締めつけられたような気がした。いますぐ相沢に連絡できればいいのに。なんで僕は相沢の電話番号を訊いてなかったんだろう。うちには電話がないから、きっと相沢も気がつかなかったんだ。 「昨日の彼は、よく来るの?」 「あの……だいたい、土日に来ます」 「じゃあ、土日だけ帰ってきて、後は俺の家にいた方がやっぱり安全なんじゃないかな」 ……告白された後に安全と言われても……。 僕が躊躇したのに気がついて、尾崎さんが苦笑した。 「ああ、悪い。あんなこと言った後じゃあ、全然説得力ないな。だけど俺は理性を保つの得意だから、心配しなくても何もしやしないよ」 「はあ……」 僕は何と答えたらいいのかわからなくて、ため息のような返事をしてしまった。 「信用されてないな」 尾崎さんが苦笑した。それを聞いて僕は慌てる。 「いえ、あの、そういうわけでは」 「でも真剣に考えた方がいい。さっきの男がまた現れないとも限らないんだから」 「……」 僕は急に黙り込み、唇を噛んでうつむいた。 確かに尾崎さんの言う通りだった。 |