2009年

2009、9/17
サイトを維持するためだけに、訪れてみたといってもいい。
ここ数年は、自分でも、もう、このサイトはほとんど見ていないのだ(笑)。

とはいえ、ある時期に書き溜めた詩があり、
その少しあとのある時期に、ここにそれをアップロードしたことは、
いい想い出になっている、いまや、同じような気持ちにはなれないのかもしれない。

10年以上もの間、僕は一体何をして、何をしなかったのだろうか。
あることについては僕はまるで変わってしまったし、
あることについては、何一つ変わっていない。

例えばこのモニター。使っているPCも、キーボードも、
サイト創設時とは全く違うものだが、
このSONYのCRTモニターは、11年前からずっと使っている。

そもそも、ここにあるいくつかの詩を書いていたときには、
ネット環境なんてなかったのだ。

たとえば、明らかに変わっていない沢山のことの一つは、古本屋に通うこと。
確かに、いくつかの古本屋は、この10年の間に消えてしまった。
だけれども、まだ残っている古本屋に関しては、それは当たり前のように本屋があって、
当たり前のように僕は通い、帰っている。このサイトを作る前から乗っている自転車で。

2009、3/22

詩 1篇 無題2009春

さようなら春

そもそも いつから春だったのかも

よく考えると わからない

よく考えても わからない

春の嵐にふかれて

僕のこころは なんというか じどうてきに

洗われてしまう

そんな春の中で きのう 当たり前のように君が来てくれたこと

そんな春の中で
 
僕が少し妬くくらいに 

僕からしてみると とつぜんに

君は春のようにしあわせになった

もしくは その糸口をつかんだことだけは確かで

ありがとう そして さようなら

僕の大切な季節 いつ始まったのかも思い出せない 僕の大切な季節

そこには あるいみで 

こころの 本当のことが 全部つまっていたような気がする

でもそんな季節も この春の嵐で ながされてしまうようだ

それが良いことなのか さびしいことなのか 僕にはわからない

でも 悪いことではないように思うんだ

さようなら 春

2009 3 22

2009、2/14
春一番が吹いている。心地よく感じなくも無いが、
やはりどこかまだ、調子を乱しそうでもある。

しかしこうして突然、かりにも春が訪れると
それはそれで、感慨深くもある

田村正和の映画ラストラブをみた。
くだらないという声も聞いたが、いい映画だと思った。

何もかにもが決めたようには進まない、それでいいのだ。
予定通り、何の変哲もなしに進むこともあるし、一方では、
まるでこの突然の春風のようなものだとか、いろいろな出来事があって、
その一瞬一瞬が僕たちなのだ。

2008年

2008、10/6
もう寒くなってきた。

ほんの一週間ほど前のこと、
ゴーチェの『ポンペイ夜話』というものを読んでいた。

或る青年が仲間とポンペイに旅行に出かけ、
夜の街をひとりでふらふらしていると、
いつの間にか時間が遡り、そこには・・・

読みかけのまま、ふと外に散歩に出て、
夜風の心地よい並木道をあるいた。

昔書いた春の夜の詩を思い出したりもした。

夜風の心地よさを感じながら、ふと散歩できる期間というのも、
本当にあっという間である。

なぜゴーチェを読んだのか。

たまたまワイルドの『ドリアン グレイの肖像』を読んでいた。
するとその解説に、ポオの『ウィリアム ウィルソン』と読み比べると面白い、
と書いてあった。

そしてポオを少し読んでみた。
幻想的な世界、少し怪奇じみた世界に一時的な興味がわいた。

では古本屋に行きポオはないかというと、これが、偶然にない。

では秋の夜少し幻想的な気分になれそうなものは?
ということで手にとったのが、ゴーゴリの外套と鼻、それとゴーチェだったのだ。

●2008、4/7

僕は鎌倉が大好きである。

派手でない禅寺が沢山あり、囲む小高い山があり、
単に湘南であり、海であり。

色んな人達でにぎわうあじさい寺(明月院)があるかと思えば、
人は結構いても、何かどこか、ひっそりとした極楽寺もある。

「あじさいみたいにおしゃれになって」という、
なんだかそれだけで涙が出てしまうようなステキな歌詞もあれば、
「極楽寺坂みどり」という歌詞もある。

ところで、本題で、
永井路子さんの『鎌倉の寺』という本(S42、保育社)を手にとり感動した。
何気なく買った本に思いがけず感動するとほんとうに嬉しい。

これはカラーブックスというシリーズで、このシリーズは、
古い本として古本屋に置かれてからも、さらに相当な年月を経ている、
という印象をもたせる本たちである。図書館にもあるが、あまり目立たない。

ハウツーもの、マニュアル、旅先案内、といった類の本が多いから、
時がたってしまえば、歴史的資料以外の価値はない、と考えてしまう所もある。

ところが、(まあこれは著者が永井路子だから当然ではあるが、)
単なる旅行案内などということでは、とても済まされない、
素晴らしい美文なのである。ページ数は少ないが、
きれいな言葉たち、きれいな心が、鎌倉の写真とともに心に入ってくるようである。

僕はそんなに歴史に詳しくはないし、寺についてもさほど細かくはしらないが、
それでも、普通の鎌倉観光本として十分に楽しめる内容だ。

調べれば、カラーブックス自体、その内容のていねいさから、
思うよりも人気があるようであるが、
その中でも、これは自分にとって特別な本となった。

2007年

●2007、12/15

1.
近年、毛皮っぽい服が多く出回っている。
もろ毛皮に見えてフェイクファーというものもあるし、
比較的安い服に部分的に毛皮様のものがつかわれているだけで、当然フェイクと思いきや、
これが本物、というケースもある。中国産などの安い毛皮が入っているせいもある。
気軽に上着を買うにも注意が要る。なんともややこしいファッション事情である。

毛皮のために動物を殺し、全くそのこと(その様なプロセスを経て作られていること)に
気を取られない感性は信じがたい。
個人的にはフェイクファーについても、積極的な利用には賛成できない。

世の中が良くなった、悪くなった、といっても、
依然、動物を取り巻く環境は、最悪の状況にあることに変わりない。
弱者を放置し、都合のいいときだけ好きなように利用する姿勢は、
そのまま、人間の社会の問題にも見てとれる。

こうした種種の問題が解決されない限り、いつまでたってもある意味では僕は幸せではない。
ひどい状況で扱われている生き物を思えば、僕の傲慢な幸せ不幸せなど気にかからない。
しかし言い換えれば、こういうことに関心を持つ人間は、
自分たちの幸せと動物の幸せが一致する、少なくともそう思えるようにできている、といえる。
世の中何もかにもが一致しているわけではなく、
やはり「あるネズミの幸せ」と「ある猫の幸せ」は、どうしても一致しないといえる。
気の合う友人であっても、音楽の好みが違うということはあるが、それは一致させる必要はない。

だが、できるだけ多くの動物がより多く幸せであることと、一人の人間の幸せは、
一致するかもしれない、と思うのだ。

2.
ここのところ、あまり細かくこだわらず、やや濫読気味に映画を見ている。
好きなもの・・・といって拘って選べば、イタリア映画やフランス映画の小品などだが、
ハリウッドものなどだって、みてみるとそれなりに良かったりはするのだ.

『めぐり逢い』1994 <なんてことない>ラブストーリーで、
わざわざ見に行ったりDVDを借りることはなかったと思うが、
そういうもの(なんてことない・・・)を上手く描けているものは毎度ツボにはまる。
エンニオ・モリコーネの音楽も毎回素晴らしい。

映画音楽というとバート・バカラックも頭に浮かぶ。
今晩放送されている『LOVEイン・ニューヨーク』もバカラックだし、
自分の好きなドラマ『協奏曲』でも、ヴァネッサ・ウィリアムズのAlfieが話題をよんだ。
Alfieは66年ころの映画の歌でもあり、また、ヴァネッサの前には、
ディオンヌ・ワーウィックが歌っていた曲でもある。

そんな折、バカラック氏が齢80にして来日するという。
すわ、これは見に行ったほうが・・・とも思ったが、

『アルフィー〜グレイテストヒッツ』(アルバム)を買ってみて、
個人的には、ちょっとなーというところがあった。
どこかで聴いた、フルオーケストラによるAlfieの深い響きを期待していたのだが、
バカラック氏自身のオーケストラによるこのアルバムは、
全体に小編成の軽妙な音で構成されていて、
しっとりと大きく包まれるような感じにはなれない。

やはり、映画の曲が良いと思ったら、究極はやはり、
その映画の中でかかっているバージョンそのものかと思う。

●2007、11/30
今年は前倒しで寒さがやってきた。

ホホをつねっても 痛くは 感じないくらい 冷たい夜風が

ユーミンの『11月のエイプリルフール』(1993)。
この曲、毎年聴くたびに、11月ってそんなに寒くないよ・・・
と思っていたものだが、今年は違う。

今年は何でも、スノードーム(スノーグローブ)が流行っているとか。
まあある意味ではしょうもないオモチャだけれども、
こんなものから、何かしら夢ややさしさを感じられることが出来るとするなら、
それはそれで、とてもうれしいことのように思う。

もう治りかけたけれども、少しばかり風邪を引いていた。毎日微熱。
なんともいえないけれど、風邪って少し気持ちいい。
ビールを少し飲んだような気持ちとも似ていて、でもそれとも違う、
風邪を引いていると、なんだか少しぼーっとして、少しだけ優しくなれる。

●2007、7/25
最近ハマっているのが現代フランス文学。
現代物にも積極的になってきたのが最近の読書傾向だ。

フィリップ・バラン『趣味の問題』を読んでみて、
クロード・クロッツ『列車に乗った男』を読み始めてみた。

B6サイズの本は昔ながらの、人文書院のサルトルなどを思い起こさせ、
なにかとてもうれしい。B6のソフトカヴァーっていいんだよねえ。
僕はビブリオマニアじゃないけれど、これだけは大スキ。

そして何より、文字の組みに余裕があり、とても読みやすい。

少し細身の本が気持ちを楽にさせ、どこまでもライトな気分になれる。
それは、新潮文庫よりもずっとずっと軽くて可愛く、
夏休みだから本を読もう、だなんていうバカな考えを嘲笑っている。
本なんて嵐でも真冬でも読むときは読む。
気分の良い晴れた日、少しひまな涼しい午後だからこそ、
敢えて読まない。本なんてそんなものだ。

ともあれ手にとっただけでそんな風に考えてしまうほど、
B6の仏文学は未だ僕の気持ちを引き締める。

名作は名作でいいが、現代フランスもののよさは・・・
もしかしてある本は、どこまでもどうでも良くて、
ある本は、もしかして信じられないほど大切な。

話自体もわかりやすくて簡単で、入り込みやすい。

だけれどもフランス文学はやっぱり哲学的である。
エンターテインメントでもないし、だからってさほど重くもない。
そして何より、特に結論がないのが良い。それでいいのだ。

なんだか知らないがそこに横たわっている、
僕にとってフランス文学はそういう感じだ。

●2007、5/5
たまにだが庭仕事、農作業をするとこれが疲れないことに驚く。
慣れないことだから、「慣れない疲れ」は有るのだが、
歩く地面、触るものなどが全て自然なので、ソフトで疲れないのである。
土の上や、とりわけ砂浜などを歩いたさいの「疲れなさ」などはよく経験するところ。

例えば旅行にいき気に入った野山を半日程度歩いたとして、
あれあれ、ずいぶん長い距離を散歩したなあ、と思っても意外に疲れない。
年をとればとるだけ疲れやすくはなるが、それもまた自然である。

次ぎの日、都会を歩いてみると、全てが直角で硬くて、
2、3時間も歩けば関節やら何やら局所的にずいぶん痛い。これは若くても変わりない。
また、意外に運動にならないのも一面で事実である。
砂浜や農作業となると、これは、細かなウネリなどに常に対応して、
体を支えていなくてはならないし、直角や、完全な平面などもまず無い。
だから、1km歩いたといっても、舗装面を1kmあるいたのとは違う筋肉を沢山使い、
筋肉を鍛えるというよりも、全身がよくほぐれるような感覚が有る。
街の歩道など、もっともっと土の面が増えないものだろうか。
公園や緑地といった、「決めたところ」を増やすんではなく、
「何気ない、全体」に土や緑が増えて欲しいと思うところだ。

料理が意外に疲れないのもこれと似ている。
あまり意識している人も居ないと思うが、特段「自然派でない」人といえど、
やはり素材は、それこそイモだの葉っぱだの、基本、そういうものだし、
色彩も自然由来の物に準じているから目も疲れない。
人により考え方の程度は異なるとは言うものの、少なくとも家庭内なら、
あまり人体や自然からかけ離れたような薬剤などは、ふつう、使用しない。
細かな作業といっても、せいぜい1、2mmくらいの精度で切る程度である。
ルーペを使って電子部品をどうの・・・とかそういう領域までは行かない。
結構な分量をこなしたとしても、変な疲れが起きづらいのだ。


●2007、1/1
なんだか知らぬが年が明けてしまった。

僕は年末が好きだ。

夜も年末も一種のモラトリアム。
来年だから、明日のことだから、と悩めるし楽しめる。

あけてしまえば 朝や新年は現実。
だけど 現実というほど現実っぽくもない。

そう思っているうちに1日が終わり、この1年も終わる。
また夜になりまた年末になれば
1日や1年は それなりの現実感をもって思い出になる。

クリスマスはちょっと違って 26日になればもう終わり。
12月からの、いや11月ころからの、
長いクリスマスへのあこがれ期間が終わり、25日で全てが終わる。
今更そんな気持ちは強くないが、子供のころのリズムはいつまで経ってもどこか取れない。

30日に作った大豆のトマト煮がまだ残っていて その味が我ながらやさしい。

別に好きでないのに何となく毎年作るお煮しめ 
明日 日が出てから 食べてみるが どんな味だろうか。

暮れの最後に買った本は『パルムの僧院』今年の読書はこの一冊から。
その古本屋に並んでいた中では、田山花袋の『田舎教師』
もいいなと思ったが、何となくどこかで読んだような気がしたので止めた。

『限りなく透明に近いブルー』を04年に読んで、
確かその中で誰かがパルムの僧院を読んでいた気がしたから。
「何か読みたいなあ」と思って、さて実際何を読もうかと思うと、考えても分らない。
案外そんな簡単な「つながり」で選ぶ。

スタンダールはまったく別の理由から昔2、3読みこんだが、特に強い印象はない。
だけども、「パルムノソウイン」というものは、また別の問題として読みたいのだ。
「いつかパルムノソウインを読んでみたい問題」は、
日々の雑多なことや鮮やかな思い出とは全く別に、僕の脳みその中に2年強滞っていた。
そんな、ぽわわんとしたことが、心のどこかに確実に、ぽわわんと、何時でもある。

たとえばそんなように?

なんだかよく分らないままに色んなつながりを保ったり切ったり、
新しく作ったりしながら、僕はまた生きていくんだなあ。

机の少し上の方には、2、3の既読本が転がっている。そこにある理由はいまいち良く分らない。
『地下鉄のザジ』(レーモン・クノー)これは一回映画を見ようと思ったが止めになってしまい、
あとから本を読んだら面白かった。楽しく痛快なお話である。
あとは『マノン・レスコー』(プレヴォー)悲恋の物語。これはだいぶ前に読んだヤツだな…。
わかりやすい話だが、恋愛ものとしてはもっとも印象深い本の一つでもある。
今一つ思い出せないが、なにかのつながりで、それらの本がそこにある。

2007年

●2006、4/30
『人体模型の夜』(中島らも)
この人の本は実にしゃきっとしていて、読みやすい。
極めて明晰。多彩な知識、積極的な取材などが目に浮かぶようだ。

収められている一編「貴子の胃袋」は菜食等についてよくかかれている。
らも氏自身は菜食でもないと思うが、
その周辺の事について、それなりに鋭く考察されている。

自論に合わない事は、とかく一蹴したり一笑に付したり、
ムキになって否定したり(それを売りにしたり)、
どうも日本にはそうした文筆家が多い印象を受けるが、
この一冊からも、らも氏は、いってみれば寛容の精神にあふれた作家と感じる。
「な〜んでもどうでもいいよ〜」ではなく、鋭く考察した上で、
特に何の肩を持つわけでもなく、必要以上に学識ぶるでもない。
そういった感じが、いい。

代表作と言える『今夜、すべてのバーで』にしても、
「壮絶なノンフィクション・アルコール依存症体験記」では無いが、
迫真の描写があり、依存症とその周辺に関しての細かな取材なども見て取れる。
だけれども、別にそこから何か、表立って主張している訳では無く、
最終的にはあくまでもひとつの作品として、それは、そこに横たわっている。

モンテーニュについて好きな点は、「結論を出さない」というところだ。
話し合ったり考えたりするからといって、結論を出すことにこだわらない。
あることについて自分なりの結論を出しているからといって、
それ以外の反対する意見や異なる考えに聞く耳を持たないわけでは無い。
およそ結論の出そうにない問題であっても、
色々と考えてみる事を恐れない、面倒くさがらない。
なかなか自分ではそうもできないが、
そうした寛容な視点から書かれた書き物に出会えれば、とてもいいと思う。


●12/3
この間の「今夜ひとりのベッドで」は、
少し展開が早すぎた感じがした。
「離婚をしてはみたけれど…」の部分を、「一話使って」も良かったような気がする。
一気に次の展開に行ってしまった所(俊介の告白)がやや早過ぎた気がする。
でもそうやって思わぬ早とちり気味な行動に出てしまうのもまたリアルなのかな…
とはいえそうした細かい文句も出るほど、気に入っているドラマである。
このドラマにおいて、やはりヒットは佐々木蔵之介さんかなと思う。

ともあれ、「今夜ひとりの〜」のような、
ごく普通の恋愛ものだって、普通に面白いのだ。

いつの時代もベタなものは案外面白いが、ベタなものが評価されているのも最近の傾向。
ドロドロものの昼ドラマも最近また人気が高いようだが、
「貞操問答」「デザイナー」なども部分的に見てみたりした所、なかなか面白い。
ものすごい飛躍や、え?だってこの二人って○○でしょ?そこは触れないわけ?
などと、無視されている関係などもあるわけだが、
「雰囲気」で乗り切ってしまうところは偉い。
雰囲気を醸し出すのは華やかな衣装であり、例えば奥村愛子の「歌謡」な歌かもしれない。

物語は物語。夢の世界であり、幻想。
人は、美しいものを求め、又時に激しく憎しみあう。
周囲の事になど構わず誰か(何か)を愛し、また自分の欲を追求する。
これらの事も端的には本当だ。こんなにドラマティックに生きることはないとしても、
時折、心の中でそんなドラマティックな一途な一瞬があることも否定できない。
笑い半分に見てみるような昼ドラマでも、
徹底的にリアリズムを離れたところに、妙なリアリティを感じる。

●10/28
軽い話題になるが、
このクールでのドラマでは、「今夜一ひとりのベッドで」がいい。

取り立てて論じるようなものではないかもしれないが、
何かと一捻りあったり、テーマが変わっていたりするドラマが多い中で、

シンプルでオシャレな恋愛ものなども逆に価値があると思う。
モックンはキムタクのような話題にはならないものの、
やはり独特の上手さがあるのに驚かされるし、
奥菜恵も浮いた感じや不快さのない魔性感を出せている。

こういったものは、一歩間違うと「だからどうしたヨ」話になってしまう。
モックン演じる、妻のある装丁作家が、
ふとしたきっかけから奥菜演ずるガラス工芸作家、梓に惹かれてゆくのだが、
そこで、「あーそう、はいはい。だらしないやつだなあ」となってしまうと終わりである。
ところが、二人が惹かれあう場面が充分劇的に描かれており、
「それで今後どうなるのだろう?」とちゃんと思えたことがポイントである。

ヒネリのない恋愛ものは、恋の始まりのときめきや衝撃的な心の動き、あるいは危うさというか、
なんにせよ、恋の単純な嬉しさや戸惑いを描けるかどうかにかかっている。
映画にしても小説にしても、「そこ」がちゃんとできていないと、
あるいは作品との相性で見る側個々人がそう感じられないと、まるで説得力がない。
友情モノや親子愛の話などに関してもそれがいえるだろう。
逆に、そこのところをしっかり描けていれば、ヒネリがないこと等は気にならなくなる。
もちろん、妻を演ずる瀬戸朝香も魅力ある人間に描けており、
言葉は悪いが「不倫もの」としても薄っぺらにはならない予想。

このドラマは、そうした面で地味ながらしっかりよくできていると感じ、 ふわふわと心地よく見られるので、この秋、とても気に入っている。

その他では、『野ブタ。をプロデュース』も何気なく見た。
これは…非常に荒削りな感じがあり、原作もそうなのだろうか。
非常に今っぽいもので、あるいは僕からするとついていけない感じもした。
さほどモノを重く捉えないイマドキ感覚がありながら、
実はかなりの重さがあり、パンクな感じでコトを片付けようとしても、
そうは簡単に世の中終わらない、果てしない絶望感。を感じる。

90年代では、いじめや学校に対する反感を描いたドラマなどといえば、
即、グレーの教室、管理された校内、冷たいクラスメイト、
テイを重んじる親たち大人たち、ワケありで傷ついた仲間達、といったものが描かれた。
このドラマの教室のゴチャゴチャ感、「そこまで暗くない」空気感、
秩序のない絵面は、また違うリアリティを感じる。
強い悲しみや反感が今ひとつ感じられないから、その絶望は逆に救いがない。

とかく分り易い構図(逆境にひたむきに立ち向かうだとか、
悲しい出来事を愛や友情で云々…そういうの…)で
終わらせたがる傾向の強いテレビドラマの中にあっては、
こういう、何がいいたいのかわからない、
分りづらいゴツゴツした物も良いような気はした。

良い意味で何がいいたいのかわからない小説や映画は多いが、
テレビドラマは最初から読み方を強制してくるところがある。

●10/6
セカチュー(映画)を今さら見てみた。というかテレビでやっていたから見た。
この映画は…僕としては今ひとつ、いや、今ふたつ以下であった。

いわゆる俗っぽいもの(内容がどうであったにせよ、
その評判が俗っぽかったのはほんとうだ)の話をここで書くのも珍しいが敢えて。

むしろ、このセカチューは意外に「ドラマ版」が良くできていた。
僕はそちらのほうを先に見ていた。
昨今良くある「安易なTV化」な感じがして、
ドラマも、非常に醒めた気持ちで惰性で見たが、意外にも良かったのだ。

「若い死、若き日の輝き、残されたものの悲しみ」という
ある意味なんの捻りもない話であっても、
10時間以上という「時間」をかけてそれを見せる事で、
重みが出ていた点は、それなりに良いと感じた。
ありふれたモノでも生真面目に精緻にデッサンしていくと何がしか重い。
ドラマ版はその種のよさのある作品であった。
それだけに、映画版は逆に自分には馴染みがたいものであった。

「尺」の問題でいえば、逆に長すぎて辟易したのが、
最近見たニューシネマパラダイスの「完全版」だ。
これは逆に、短い劇場版の方が良く、長いものは、
もうなんだか、後半、要らない話が多すぎるように思った。

僕は短いほうを先(大昔だ)に見てそれなりにイイと思ったのだが、
完全版を見て、ああ、「語りすぎ」は良くないなと思った。
長い完全版「だけ」を見ていたら、あまりイイ映画とは思わなかっただろう。

精緻に長く描けばよいというものでもないし、
サッパリしていればそれでいいというものでもない。
ただこの辺はある意味では単なる評論家ぶった技術論でもあり、
あまり本質的なことではないようにも思える。

●5/5
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読み終え、
ひとまずは、「一通り読んだ」。

一通り読み終えて、結局僕に何が残ったかというとよくわからない。
「一連の世界」がそこに広がっていたなあという印象だ。

一つ一つが別個の話なのではなく、殆ど全部が繋がっている。
「よくよく考えるとどこか共通点がある」のではなく、
話がかなりはっきり繋がっている。これが村上春樹全体に感じたことだ。

「この人は、何ら特別な話を書いたのではなく、
非常に丁寧に一つの世界を描いたので評価されたのだろう。
その世界が好きとか嫌いとかは別にして。」そんな印象を受けた。

逆に言えば一つ一つの作品に個性がないが、
そういった見方は見当違いだろう。
エンターテインメントを求めるならばこんな小説は読んでも仕方ない。
書いていった結果、全部が似てくるのは自然なことだ。

一通り読んだ上で、『羊男のクリスマス』を読む(見る)と、
なかなか面白かった。

『ノルウェイの森』だけが、少し違うように感じた。

ノルウェイを含めて、セクシャルな描写が強いのは閉口した。
昔の作家はあまりこういうことは書かないのだけれど。

こと、村上龍と平行して読んでいたせいもある。
村上龍の場合、性描写、ドラッグ等キツい描写があっても、
むしろ強烈に醒めている。
良く言われるとおり、その極みが『限りなく透明に近いブルー』だと思う。

----

最近、村上龍の、80年代後半ころの、
あきれ返るほどバブリーな小説を読んでいた。

そこにはヨーロッパの都会の情景が良く出てきたため、
僕はセーヌ川の夢を見た。それはとても汚くて猥雑に濁っていた。
僕はその中に落ちてしまい、都会の浅い汚い川を下流に向けあるいていた。

「全く何をどういっても、殆どの都会にこの種の汚い川が流れているという時点で、
人間社会は何もかもが根本的にだめなんだなあ、ある意味では」
僕自身が普段から思っていることだ。
『洪水』という一篇にも集約されている感覚だ。

そうすると、強烈な勢いで水を下方に吸い込んでいる装置が一面にあるポイントにさしかかった。
汚い水はここで全て浄化されてしまう装置なのだという。
それは非常に強力だったが、何とか踏越えて前方に歩いていくことが可能
という表示があった。

この装置の部分はまさに村上春樹の世界を思わせる。
けれども、「水が汚いなあ」で終わらず新しい展開を見せた僕の夢は、
今までにないものだったように思う。

----
期せずして「二人のムラカミ」を読んだこの冬であったが、
リュウの方はエンターテインメント性の強い小説も多く気軽に読める。
酷評されていることも多い『だいじょうぶマイ・フレンド』を最近読んだが、
僕は、コレはとても面白いし良い話、と感じた。
確かに少しハチャハチャな感じはあるけど、面白いと思う・・・。

●2/19 村上春樹を読みながら

短い期間に相当な量を読んだ。
『羊をめぐる冒険』を読み、『風の歌を聴け』を読み、『1973年のピンボール』を読んだ。
これは青春三部作といわれるものだそうで、風、ピンボール、羊、という順番だ。
次ぎに『ダンス・ダンス・ダンス』がある。これも読んでみれば「羊」の続編だ。
29歳や30歳の主人公が多く何か不思議な縁を感じた。

今は『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいるところである。
『TVピープル』に出てきた加納クレタが出てくるあたりが面白い。

村上春樹についての話はまた後にするとして、
ともかくまあ、あまり一時に一人の作家ばかり読んでいると疲れる。
いわゆる「チェイサー」
(強い酒を飲むときに飲みやすくするために添えるビールなど)のような感じで、
こういう風に一人の作家にはまっているとき、僕は合間合間に他の作家を読む。

村上春樹を読み始めたもともとのきっかけが
この秋冬に村上龍を読んでいたことだったから、
『ラッフルズホテル』『ラブ&ポップ』などもチェイサー的に読んだ。
『ラブ&ポップ』はとても面白い。

結局昨日今日は、ねじまきの第三巻を読みかけたまま、
谷崎潤一郎を読んでいる。
コレはチェイサーではなく別の酒を飲んでいる気分だ。

谷崎も、僕のなかで、読む前のイメージと読後感が大きく違った作家の一人である。
元々僕は10代に三島由紀夫にハマった時期があって、
トーマス・マンやラディゲもその影響で読み始めた。
三島は、もともと思っていたイメージとそう変わらなかった。

谷崎を読むのは結構後のことで20代の話になった。

三島同様、いわゆる耽美的な小説というイメージがある。
『刺青・秘密』『痴人の愛』などという背表紙を眺めれば、
三島以上に耽美で倒錯的なイメージが沸くのは当然だ。

ところが実際読んでみた谷崎はまるで違った。
谷崎は、その実とても軽くて楽しい。むしろ太宰に近い。
え?太宰が軽いって?僕は太宰の物ほど軽快で楽しい本はないと思っている。
太宰特有の、・・・僕流に表現すれば、思いつめて自殺を思って結局できずに失敗して、
泣いて、よく寝てよく食べて、自分の身体の健康さにあきれて、
結局「笑った」とき味わう気分のような、
そういうパンクな明るさ。谷崎にもこれがある。『痴人の愛』などは、
「NAOMI」という題名の方がよっぽど内容に合っているんじゃないかと思った。

●2/2 村上龍とか

昨年秋の日記を見ると、村上龍の話が出ている。

結局去年の初秋から今冬にかけて、村上龍をよく読んだ。
『限りなく透明に近いブルー』からはじめて、
『昭和歌謡大全集』『イン ザ・ミソスープ』『エクスタシー』『69』などを読んだ。

大昔、『アメリカン・ドリーム』を読んだ「記録」があるし、
なにより雑誌などで結構エッセイを目にしたりはしていたから、
この人についてある程度は知っていた。けれどちゃんと読んだことは無かった。

古い本や、いわゆる「名作」の翻訳ばかり読んでいる身からすれば、
いまどきの日本語で書かれているのは実に読みやすく、
あっという間に読んでしまった。

題材としては結構ハードな話が多いが、不愉快というほどのものではない。
何を押し付けるでもなく、いい意味で冷たく軽く書いてある感じがいい。
読み終えるとすがすがしい感じも残る。
一番最近に読んだ『69』はわかりやすい青春物で、
あまりハードな話でもなく、爽快でとても面白かった。
何か一冊読んで気分転換したいが・・・、と考えている人にもおすすめである。
小学生のような感想だが、
そもそも本を読んでどう思った、など、
そう簡単に上手く書けないので、そんな程度にとどめたい。

ともあれ、古本屋に行くと村上龍を手にとる日々が続いた。

そんな中で、まあいずれ起きただろうハプニングとして、
12月だったと思う、僕は間違って村上春樹を一冊買ってきてしまった。
『回転木馬のデッドヒート』という短編集だった。
そしてなんと、終わりまで気づかないで読んでいた。
ボクはそれを村上龍の本だと思って読みきってしまったのだ。
「なんだか生ぬるい感じがするが、
村上龍はこんなものも書くのか」と思っていた。

奥付を見た際は久々に衝撃を受け、しばらく苦笑した。
よくわからないが、胸がスカッとした。

今にして思えば
「回転木馬」というあたりが村上春樹っぽいのだが、
「デッドヒート」というところが村上龍にもありそうな題名だった、ということもある。

まあある種の、行きがかり的な縁も感じて村上春樹を読み始めることにした。
最初はやはり?、『ノルウェイの森』から入ることとした。
『ねじまき鳥クロニクル』という本も随分話題になっていたな・・・
なにしろこの人の本は、古本屋に無いことが問題だった。(村上龍はやたらにある)
久しぶりに新刊屋で小説を買い込んだ。

村上春樹に関する先入観から言えば、
なにかこう、「夢だけど、小説家になりたい」
とか言う人、言いそうな人が、必ず口にする名前でもあったし、
「極端な話だけど、村上春樹のようになりたいから○○大を受ける人もいるらしい」
とか言う極端な話もきいた。どうも僕はその辺が分らなかった。
僕は詩や雑文を書くのは好きだが、
小説は書こうと思ったことがないし、ましてそれを学校で学ぶなどどういうことか。
なんとなくそうしたイメージもあって、
まあともかくあまり積極的に読もうとは思っていなかった。

やれ若い頃はヘッセが好きだった、近ごろはサリンジャーを読んでいる、
・・・そんな話になれば、
「○○君(僕)はやっぱり読書家だよね、・・・というと村上春樹なんかは?」
「全く読んだことがないですよ、全く」「ええ〜そうなの?ホントに?」
「ドストエフスキーは 長いので 今のところ一切読んでいないんですが、いずれは。
それに対して村上春樹は ━ そういう意味ではなくて ━、僕は読まないかも・・・」
そんな会話も何度かあった。

いずれにせよ、先入観も全く無視される形で、
「勘違い」というある種究極的な形で、
僕は村上春樹を一冊読んだ。とはいえ『回転木馬〜』はエッセー的な本でもあり、
それだけじゃ物足りなかったので当然もっと、代表的な作品を、読んでみることにした。

「死後30年以上経過している作家の本しか読まない。」
大まかに言うと僕の純文学に関する読書傾向はそんな物に近いので、
それだから村上春樹は読まなかったのだが、
ノルウェイの森を読み始めて直ぐ、その台詞「死後〜」を口にする人物が登場した。

20代最後の歳のはじめ、僕はそんな顛末で村上春樹を読み出した。
(つづく)

1/2●災害報道のさなかで、スローライフを考える

2005年 初春。

昨年は、何をおいてもまず、自然災害の多い年であった。
台風、地震、津波。

先に言ってしまえば僕自身は被害にあっていないし、
間接的な意味でもそれほど打撃は受けなかった。
食費はかさんだものの、正直言えば生死に関わる問題ではなかった。
厳密に言えば関係しない筈がないが、深刻に思い悩むことはなかったのだ。

やや不謹慎ではあるが、
僕が思ったのは、本来、地球上で生きるのは、
これくらい大変でこれが当たり前なのだ、ということである。

何も起こらないと、いつまでたっても何も起こらないという風に錯覚する。
病気や事故などもそうである。
ひとたび病んだり怪我を負ったりすれば、
「それなりに健康」であることがどれだけ難しく重要であるか、
痛感した、そんな経験はみなさんお持ちではないかと思う。

スーパーに行けば季節など忘れてしまうほどの
各種野菜が年中無休で当たり前のように並んでいる。
それが今の日本である。台風のとき、
レタスが高かったのキャベツが高かったのと言っても、
結局それらは、近所のスーパーにあったのである。

しかし、これほど災害が続くと、
直に被災せずとも、
間接的な影響で生活自体が難しくなることも、
充分ありえるな、という「実感」が出てくる。

生活には何が要るのか。
食べることであり、寝られる場所であり、最低限の着るものである。

それらに加え、今では電気や情報網なども、ある程度は生活必需品と思う。
ここのどのくらいまでを必要と思うかが個人差の出る点で、
また、生活している環境によって異なる点である。

ただいずれにしても、絶対的に必要なのは、
上記の三者、「衣食住」である。
それらが満たされていれば、人同士のコミュニケーションといった
心的要素は自然と満たされるものであろうし、
また、それらが満たされている環境であれば、
人以外の生き物や鉱物等も、ある程度保たれている状況であると考える。

どこで出来たかも分らない衣服を着、その意匠に気を配り、
どこで出来たかも分らない食物を買い、
中がどうなっているのか分らない機械で調理する。
人によってはそれが直接何の役に立つのか実感できない仕事をしている。
(現在の僕自身のそれは、僕が生きていくためには要ることなのだが、
僕を抜きにして考えたとき、世の中にとって必要かというと一寸疑問なものである)
電車で高速長距離の移動を毎日行う。その距離は歩けば何日もかかる距離だ。
電車がひとたび止まることでもあれば大騒ぎになる。
自力では到底到達できない場所、たとえばアンダマン海の島々まで、
お金を払って飛行機でバカンスに行く。
僕を含めて、日本の都会に住んでいる人の多くは、そうした生活をしている。

ツバルという国は、今や水没の危機に瀕している。
このままでは、もしかすると国土がなくなってしまうのである。
しかも、これは自然災害ではなく人災である。
まあ「人災も自然災害だ」と言う理屈もあるが、
ここではそこまで難しく考えない。
地球の温暖化による海面上昇でツバルが消えてしまうかもしれないのである。
もちろん、そういう状況はこれから減るのではなく増えていく危惧がある。

ものを概念化して考えられる生き物に生まれてきた以上、
僕は、人間は「より一層考える」ようになるべきだと思っている。
スローライフなどというと、「自然に戻る」といった印象を受けるが、
僕の思うそれは退行現象ではない。
より一層考え抜いた結果として、スローな生活を選ぶという風な意味である。

人が考える力を持つということに、特別な意味とか、尊さなどは感じない。
僕がもっとも嫌いな言葉の一つは、
「人命は地球よりも重い」である。そんなわけがない。
人は生き物の一種に過ぎない。

単純な原生動物のような形の生き物、
水中を速く泳げる魚、空を飛ぶ鳥、
長い年月そこに立っている木、
人や哺乳類等にとっては病原菌ともいわれる菌、虫、
色々な生き物がそれぞれに特徴を持っており、
人間の「考える力が大きい」というのもひとつの特徴に過ぎない。

けれども、この「考える力」が「中途半端」なのが、
一番良くないのだと、僕はそう思っている。
つまり、バカじゃ困るわけである。

地球上に人が居ようが居まいがどうでもいいと思うが、

存在しようとするならば、
人はもっと頭が良くならなければいけないと思う。
世界中の子供に満遍なく、
ある程度の教育を施すことはその大前提であり
達成すべき目標だし、
恵まれた国に居る人々はもっと学ばなくてはいけない。
別に今から学校に行けとかそんな意味じゃない。
もっと色々、考えなくちゃいけないなと思う。

それでもダメなのかもしれない。
人間の脳なんてたかが知れているわけだから、
それをどれだけ洗練して上澄みの方だけを見ても、
所詮全員大バカ者なのかもしれない。
だけども、もう少し頭を良くする努力はしてもいいはずだ。

先を考えずに技術を使って今ツバルが沈むというのは、
どう考えてもバカなストーリーであり、悲劇である。
これは反省すべきなのだ。
そしてまた、想像も出来ないようなかたちで、
そんなような、「ツケが回ってくる」出来事が起きるかもしれない。
なぜ想像できないことがおきうるかと言うと、
答えは簡単で人間の想像力には限界があるからである。
科学の発達は良いとしてもその使い方は又全く別の話である。

災害の話から始まり、
つらつら書いていたらそんな流れになった。
今年もよろしく願いたい。


2004年の日記

2002年の日記

2001年の日記

もっと過去の日記(1999年6月から)

Press to Home