錦帯橋リポート

"日本三奇橋"のひとつ錦帯橋

山口県・岩国の錦帯橋を見てきた。
その橋が渡る川は錦川、それに架けられた帯のような橋として錦帯橋とは洒落た呼び名だ。架橋当初は大橋だとか五龍橋だとか呼ばれていたが、宝永年間(1704〜)以降、錦帯橋の名が定着したとか。
岩国は城下町、岩国氏、弘中氏、毛利氏の支配に続き関ヶ原合戦の後、出雲の国富田月山城から減封された吉川広家の築城を機に近世岩国藩の幕が切られる。
城下町を二分する錦川はたびたびの増水のためその橋が悉く流されていた。流れない橋を架けることは三代藩主宏嘉の切なる願い。

流されぬには、橋脚がなければよい。そんなことが可能か?、彼は甲州桂川に架かる「猿橋」にヒントを見る。そして幾多の試作と失敗の末、全長195.7M、スパン35Mライズ5Mの堂々たる5連アーチ橋を完成させる。もちろん当時にアーチなんて言葉はなかったし(それゆえにその姿を龍に見立てて五龍橋の呼び名が生まれたはず)、それ以前にそんな力学的解法が知られていた筈もなく、全くオリジナルにここまでの解答を得るに至ったことは驚嘆に値する。
参考にしたという猿橋は、両岸から順々に繰り出す張り出しの梁で全体を支える。西欧に見られた「持ち送りアーチ」に似た発想であり、これが一般の石造アーチへと変化するのをトレースするかのように、猿橋から発展した錦帯橋はおそらく日本初のアーチを誕生させる。(注、いわゆる太鼓橋などむくりのついた橋は、その目的は殆ど造形上であって、構造的には一定間隔の梁に過ぎない。)

その構造は実にアクロバティックで、橋下から見上げても容易には全体の構造を理解できない。何となく基本的なモチーフは理解できるのだが、全体が立体だし、V字型の連続の部材もおそらくは持ち送られた梁を相互に支えているのかなという気もしてくるのだが、率直に言ってこんなもの設計しろと言われても出来ない。しかし、西欧の木造アーチ橋に見られるような、目的の明確でない部材は少ないらしく、全体としては非常に明快なアーチを形成しているとのこと。さきほどの猿橋では、各梁がすべて岸から伸びるわけだけど、こちらでは、ある程度以上上部の「梁」は、橋の途中から立ち上がるわけ。言ってみれば宙に浮いた梁が荷重を支えているようなものだから、初めて考えるには理解しにくいのも当然のこと。しかしそれが、この橋がアーチと後に呼ばれることになった構造を持っていた証左である。日本にはこのような迫り送りの考え方が希であり、猿橋と並んで日本三奇橋のひとつにかぞえられている(もう一つは木曽の桟橋とも富山の愛本橋ともいわれるが、現存しない)。

そんな構造的な見事さのみならず、それが造形的にもたいへん美しく仕上がっていることを指摘しておかなければならない。5連で、中央の3つがアーチ、両端は柱−梁の構造に依っている。しかし両端にもやわらかなむくりがあるために、全体としてとてもリズミカルに仕上がっている。
「5連」であることの、5という数字が奇数であることも重要なんだよね。奇数は「中心の一つ」を持つでしょ。造形的にはそれが安定する。基本的に橋は奇数で組むべきだし、大分県立図書館にしても、100本の柱によって構成される空間が「9×9」であるから、「中心」が存在し、そこにエレベーター・シャフトを組み込むことが可能だったわけ。
現在の橋は、1950年のキジア台風による異常な増水で橋台が流れ流出したものを、1953年に再建。(それは3年後にがんばったという意味ではない。流出のたった一週間後に市議会が再建声明を発表、翌年より実際に架けはじめて竣工が'53年、ということ)。下部構造は深さ10Mのケーソンの上にRCの橋台を設けているが、その周りには石を貼っているので、外観上は昔の状態を保っている。橋を渡るとき階段部分にすべり止めのように貼られている銅板が所々むくれ上がっていたのは、きっとこの夏の猛暑のせいだろうな。

構造的見事さと造形的美しさの両立ということから、ひとは矢部の通潤橋のことを思い浮かべるかも知れない。実際、ぼくら九州の人間にとってみれば、アーチ橋とは石橋に他ならない。石造アーチ橋はほぼ九州内部のみに広まった特異な文化だけど(皇居二重橋も、その文化を担った優秀な職人集団、熊本の「種山の石工」によるもの)、その技法が中国から、あるいはポルトガルから伝わるには、19世紀を待たなければならなかった。すなわち錦帯橋のほうがえらく先輩格なのです。また、実際のところ、アーチの技法には石のほうが理解しやすいだろう。考えてもみれば、コンビーフの缶を並べてアーチが作れそう、ということは思いつくにしても、割り箸でアーチ作ろうなんて、思わないよね。まあ、バッキー・フラーの手にかかれば、アーチを飛び越えてジオデジックドームをこしらえるわけだろうけれど。それをそんなふうに線材をアーチに使うというのはじつにアクロバティックな考え方なのであって、やっぱり錦帯橋ってスゴイ、と思うわけ。
現在では、プレストレストコンクリート等によって、例えば大分自動車道の明礬橋などでは、スパン235Mなどという巨大なアーチ橋がつくられている。その源流となる考え方が日本でオリジナルに生まれていたことは誇りに思っておくことにしたい。

追記(2001.9.9)

上記中錦帯橋の木造アーチの構造が日本のオリジナルである旨にて書いたが、どうやらそうではないらしい。北宋朝 (960 - 1127 A.D.).にZhang Zeduanによって描かれたRiverside Scene at Qing Mingという絵には、まさに木造アーチ橋の「虹橋」が描かれている。スパンおよそ19M、幅8-9M程度。


Click to Enlarge.
出典:Zhu Kang, Hong Tao and Feng Congying, "Architecture of Ancient China"

岩国の松塚展門氏による錦帯橋のページにも詳しくその由来があり、中国の絵を参照した旨が書かれています。
http://www.joho-yamaguchi.or.jp/mac/ks-meikyo2.htm

又、猿橋の原型に相当する張り出し梁の橋もあるようだ。例:Wo Bridge in Lanzhou, Gansu Bridge. 橋の構造的工夫に関しては悉く中国に原型があると言えるだろうか。恐るべし中国。

→鹿島のインパクのページに錦帯橋の説明があり、「(…)こうした工夫によって洪水にも流されることなく、現在でも当時の姿のままに残すことができたのです。」という記述があるが、橋は1674年と1950年の二度にわたって流出しており、不正確だと思う。訂正してもらいたいものです。
http://inpaku.kajima.co.jp/ken/hashi/history/01/main1.html

[HOME]

最終更新日01/12/30