linkbanner Updated on June 14, 2003


Column 12:

Rock Pioneers from New York

ロックを築いたニューヨーカーたち ―アル・クーパー [
第3部]

 

ソロ本格デビューとスタイルの変化

「スーパー・セッション」という企画の成功で、コロンビア・レコーズ社内の居心地もよくなったアル・クーパーは、いよいよ本格的なソロ活動に取りかかった。よくも悪くもこの頃の彼は、プロデュースに凝り始めた時期で、1枚のアルバムでいろいろな実験をやっていた。ブラッド・スウェット&ティアーズ「序曲」もその一環だったし、「スーパー・セッション」物でも単に生演奏をそのまま発表せずにホーンをはじめとするさまざまな装飾を後から加えている。ソロ1枚目の『アイ・スタンド・アローン』(1969年)(写真)は、そんな彼の研究成果とも言うべき作品で、新たに就職したコロンビア・レコーズの設備をフルに活用して作り溜めた楽曲が集められたアルバムだ。

Al Kooper / I Stand Alone (1969)「序曲」はBSTの1枚目と同様、後で出てくる曲のモチーフを集めたオーケストラ物で、ジェリー・ロスのもとにいたジミー・ワイズナーがアレンジを手掛けている。狂ったような叫び声で始まるのも、BSTのときのアイディアを引き継いだものだ。タイトル曲「アイ・スタンド・アローン」は、切ないラヴソング、この後のソロキャリアで何度も出てくるクーパーらしい曲だ。録音はナッシュヴィルで、バックを固めるのはチャーリー・マッコイをはじめとする地元の代表的なセッション・ミュージシャン達である。このメンバーはクーパーがボブ・ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』の録音で知り合った面々で、大半はこの頃エリアコード615というグループ名でレコードデビューした面子と重なる。

ナッシュヴィル録音は収録曲12曲中全5曲にのぼるが、典型的なナッシュヴィル系はビル・モンローをカヴァーしたブルーグラスの「ケンタッキーの青い月」だけで、後はほとんどがむしろメンフィス・ソウル的なアレンジだ。クーパーは南部音楽とは縁が薄かったことを考えると、自分が一度だけ行ったことがあり、かつコロンビア・レコーズのスタジオがあったナッシュヴィルを利用して、カントリーにはこだわらずに南部っぽい雰囲気を作らせたと言えるかもしれない。代表曲「アイ・スタンド・アローン」は、ほとんど『ダスティ・イン・メンフィス』のときのダスティ・スプリングフィールドのような雰囲気だ。

この他に、フォー・シーズンズなどを手掛けたチャーリー・カレロに協力を得たポップ・ソウル物が3曲、うち1曲はハリー・ニルソン「ワン」のカヴァー、原曲と同様ビートルズ「エリナー・リグビー」とよく似た感じで、ストリングズで孤独感を醸し出している。ちょうどロサンジェルスでジミー・ウェッブランディ・ニューマンらがアレンジにこだわったシンガーソングライター物を出し始めたのと同時代であることを感じさせるアプローチだ。

そして、「カラード・レイン」トラフィックのデビュー作からのカヴァー、アレンジは原曲に割と近い。クーパーは同時代のイギリス物に精通していたが、なかでもスティーヴ・ウィンウッドは当時かなりお気に入りだったように思われる。ライヴ盤『フィルモアの奇蹟』でも、トラフィックの「ディア・ミスター・ファンタジー」、そしてスペンサー・デイヴィス・グループのカヴァーで知られる「愛の終る日まで」と、2曲もウィンウッド物を取り上げた。ソウルフルな歌声と、ハモンド・オルガン、適度なポップ感覚、それにサイケ全盛時代を感じさせるアレンジ・・・この辺りがツボだったのだろうか。クーパーのヴァージョンでバックを務めるのはドン・エリス・オーケストラ、BSTで明らかになったようにジャズ・トランペット好きのクーパーは、ドン・エリスもお気に入りだったらしい。彼がコロンビアに入ってすぐプロデュースしたのが、ドン・エリスの『オータム』(68年)だったという経緯もある。

ところで、このソロデビュー作は、純粋に音楽的な意味にとどまらず、さまざまな形で時代と交錯する作品になった。一つは、ヴェトナム戦争末期のアメリカ社会という文脈である。クーパーは、多くのヴェトナム帰還兵から、このアルバムの曲が救いになったと感謝するコメントをもらったらしい。「アイ・スタンド・アローン」をはじめとする彼のバラードは、敗戦の色が濃くなる戦場で、アメリカの兵士の心を癒す役目を果たしたようだ。そういえば、「序曲」に反戦デモの掛け声がサンプルされているのも、この時代を感じさせる。その意味で、まもなくジェームズ・テイラーキャロル・キングの大成功で訪れるシンガーソングライター・ブームの到来を予感させた作品でもある。

日本でも、ある意味でこの作品は、新たな時代を感じさせる1枚として受け止められた。資本自由化の波でコロンビア・レコーズは日本市場にも参入を目指し、ソニーの盛田昭夫副社長(当時)の決断で、1968年3月にCBSソニー・レコードが設立される。そして、CBSソニーは、当時にわかに流行し始めた「ニューロック」というジャンル分けを活用し、自社の新たなアーティストたちを精力的に売り込み始めた。折りしも『スーパー・セッション』物で多くの洋楽ファンを感動させたアル・クーパーは、そんなニューロックの代表格と見られていた。そこに登場した彼のソロデビュー作は、レコード会社自体も積極的に宣伝したし、当時のファンも期待を込めて手にとった。

「アイ・スタンド・アローン」に対する日本のファンの反応は、全面的な人気というわけにはいかなかった。『スーパー・セッション』の延長、あるいは当時CBSソニーを代表したジャニス・ジョップリンBSTシカゴサンタナジョニー・ウィンターといった音を期待していた人々にとっては、少し凝りすぎで、また曲調も感傷的でポップすぎたのかもしれない。これ以降、アル・クーパーの日本での人気は、ソロ活動以前の路線を好む意見と、新たに強くなったシンガーソングライター的な側面を高く評価する意見に分かれたように思われる。とはいえ、ここまでの紹介ですでに明らかなように、クーパー自身は、ライヴの即興性にも強い関心を持っていた一方で、十代のときからポップス畑でじっくり曲作りする体質を身に付けた人であり、そのどちらも兼ね備えたのがクーパーであるというしかないだろう。

クーパー自身は、このアルバムにあまりいい思い出を抱いていない。それは、このアルバムがアメリカ側でも、一種の毀誉褒貶にさらされたからだ。理由は、社会的というよりも、かなり個人的な事情からだった。この頃、彼の元のバンド、ブラッド・スウェット&ティアーズは、クーパー脱退後のアルバムで大成功を収め、マスコミに登場する機会も増えていた。そして元メンバーたちは、クーパーが抜けた事情について聞かれると、バンド初期の彼の独裁ぶりを示唆するようになった。この状況は、クーパーのソロ活動に対する評価にも跳ね返ってきた。「アイ・スタンド・アローン」というタイトルは、「俺と肩を並べられる奴は誰もいない」という自信過剰の表われだという悪意に満ちた評価も登場する。

アルバム・ジャケットで、自由の女神に自分の顔を埋め込んだのも、悪効果だった。後にクーパーが語ったところでは、このデザインは、コロンビアのデザイン部のジョン・バーグのアイディアで、タイトル曲からヒントを得たものである。クーパー自身は、自由の女神というアメリカの象徴に自分が埋まっている状況を「腹の皮がよじれるほど面白い」ジョークだと思って、承諾したようだ。確かに彼はヴェトナム戦争に兵士として送り込まれるところを、ドラッグ中毒を装って回避した人間で、自己意識としても、アメリカを代表する存在になるわけがなかった。しかし、マスコミにはこのデザインにもまた、クーパーの奢りを読み込むコメントが登場した。

むしろ制作時のクーパーのホンネは、アルバム裏に印刷された、彼の詩に込められている。言葉遊びをふんだんに使ったこの詩の中で、彼は音楽を書く理由について、こう表現している。

「僕は書かなきゃならない/だって、何もしないと無限に悲しいままだから/そして、無限に悲しければ、絶対何もしやしない/僕が発表するものは、生産的な生き方とは正反対さ/それを枠にはめてから封をして/それが終ったら、僕はまた本当にひとりぼっちさ・・・」

「ひとりぼっちっていう意味は君に分かるかい?/君は本当の意味でひとりぼっちじゃないからね/生き物でない物が執拗に迫ってくる感じ/鏡、いつまでもこっちを見つめている管/黒く広がった管の先/灯りがちらつくトイレの狂気、くすくす笑うかみそり/狂った椅子、マックスじいさんの腕のような肘掛付きの/腿には復讐の鋲(=税金)が打ち込まれる/かばんのようにぶらさがった耳の奥に、風がささやくのは/ノイローゼっぽい狂った詩」


クーパーにしてみれば、67年当時の彼を襲ったこの強烈な孤独感、そこから生まれた何とか曲を書こうという気持、そんな感覚をこのアルバムのタイトルに忍ばせていたことになる。もちろん、時代はそこまで理解しなかった。彼は、このアルバム以来、世間の目にさらされるのを意識的に避けるようになったと語っている。70年代以降の彼は、プロデュースをはじめとする裏方仕事を増やし、多くのソロ作品も世に送り出しながらも、派手に目立つスタイルは決してとらなかった。それは彼の60年代の華々しい活躍ぶりとは対照的だったが、逆に70年代のラヴソングに潜ませたどこか人目を避けるような憂いもまた、70年代以降彼が新たなファンを獲得し続けた一つの隠れた理由になったのである。

自信を持って送り出されたソロ2枚目

彼のシンガーソングライター時代はこうして始まった。69年夏に録音された2作目『孤独な世界』(70年)(写真)では前作に比べて実験性は減ったが、逆にそれは一つ一つの曲がきちんとまとまったポップソングとして、よく仕上がっている事実の裏返しでもある。バックにはチャック・レイニーバーナード・パーディーを含むニューヨークの一流セッションマンが参加し、演奏の厚みが増して、それがアルバム全体の一体感を生んだ。このバック陣を揃えたビッグ・バンドの陣容で、初のソロツアーも行っている。実際クーパー本人にとっても、このアルバムはかなりの自信作だったようだ。ビートルズとビーチ・ボーイズの影響を感じさせるタイトル曲「孤独な世界」をシングルカットしたが、本人の言によれば、この曲は彼が本気でヒットを狙った最後の作品になった。

Al Kooper / You Never Know Who Your Friends Are楽曲はシカゴ風のブラス・ロック(1曲目)、ビーチ・ボーイズ+フォー・シーズンズ(2曲目)、モータウン・カヴァー(3曲目、9曲目)、ブラス・ロック+「ダンシング・イン・ザ・ストリート」系モータウン(5曲目)、ガーシュウィン調(8曲目)、前作に続くニルソン・カヴァー(10曲目)と、彼お気に入りのアメリカン・ミュージックの王道を、ソウル感のあるバックに支えられて、極上のポップ・ソングに仕上げた感じだ。

「アンナ・リー」は曲調も題名も、ザ・バンドの影響をもろに受けている。とはいえ、1968年に「ローリング・ストーン」誌でザ・バンドのデビュー作をいち早く絶賛したのは、当時プロデューサー業とともに、音楽批評もはじめたクーパーその人だったのだから(原文はこちら)、彼にはザ・バンドを取り上げる資格は十分備わっていたと言っていいだろう。

アルバム最後の「ネヴァー・ゴナ・レット・ユー・ダウン」は、クーパー本人によれば、ダスティ・スプリングフィールドに歌ってもらうことを念頭に書いたとのことだ。「アイ・スタンド・アローン」に繋がる系統の曲だ。弱々しいとも評されるクーパーの頼りない歌声は、むしろこういう曲では強みに転化する。間奏の力強いトランペットソロは、セッションマンとして活躍するマーヴィン・スタムによるもの。曲の終わりで、女性コーラスがメロディーに乗せて「これでアルバムは終わり(This is the end of the album)」と繰り返すのは、愛嬌がある(日本盤CDの歌詞は間違い)。

このさりげなく笑いや毒気を忍び込ませるクーパーらしい遊びは、他の曲の歌詞にも表われている。これまたザ・バンド的な「ファースト・タイム・アラウンド」は、初心者のセックスのうぶな感じを暗に歌った曲である。「じきに俺の中の男がぐっともたげてきて/助けを求めたい気分になったが、もう手遅れ/灯台の灯りみたいに目を見開いて/それでもとりつくろうと頑張った/でも彼女はこらえきれずに笑い出した/目の光り方が純粋じゃないって言って」(これまた日本盤の歌詞の和訳はおよそ不正確)。

そして、1曲目の「マジック・イン・マイ・ソックス」は、歌詞に注目すれば、後にクーパー自身が種明かししたように、自分のペニスに話しかける男のセリフである。曲想のヒントは、当時彼が耽読していたヘンリー・ミラー(歌詞にも登場する)の小説と、69年にベストセラーになったフィリップ・ロスの赤裸々な小説「ポートノイの不満」ということだ。曲の歌詞の後の謝辞には、主人公ポートノイの名前が登場する。

もう一つ謝辞に列記されたのはCTA、シカゴ・トランジット・オーソリティー、つまりデビュー当時のシカゴである。シカゴと言えば、クーパーが結成したBSTのライヴァルのように思われるが、実はクーパーはシカゴには多大な敬意を払っている。このことからも、彼がBSTの1枚目でやろうとしたこととシカゴの違いは、間接的に明らかになる。クーパーはシカゴよりも、自分が脱退した後のBSTにこそ手厳しい。つまり、彼の理解では、あのファンキー・ロック的なパワフルなブラス・ロックは、シカゴの独創で、2枚目以降のBSTはそのコピーになってしまったということなのだろう。

コロンビア時代の多産なソロ活動

Al Kooper / Easy Does It (1970)『孤独な世界』は必ずしも評価の高くないアルバムだが、ここではクーパーのソロの音作りの基本がほぼ出来上がっていた。一方で、彼は時代の最新の音に対する嗅覚が鋭く、いち早く新しいサウンドを自分の作曲に取り込む。このソロ2作目で言えば、ビートルズ、ビーチ・ボーイズ、ザ・バンドなどの影響は、これらのグループの当時最新のサウンドを意識している。彼が一時期新しいイギリス物を好んで取り入れたのも、その傾向の一環だ。他方で彼は、アメリカン・ポップスの王道の影響も濃厚に受けている。50年代辺りの感覚をそのまま持ち込むこともあれば、その流れを汲む60年代以降のポピュラー・ソングを参考にすることも多い。

そして、この新旧のスタイルの混合したポップス路線に、ひっそりと斬新な実験を忍び込ませる。見た目は完全なポップスでも、あまり目立たないように実験性を入れるのは、彼の得意技だ。このやり方は、歌詞にも発揮されている。歌詞をよくみると、きっちり王道のラヴソングになっていながら、ときどき鋭いウィットが差し込まれている。こうしてソロとしてのアル・クーパーの独特の世界が創られていった。

彼は72年まで所属したコロンビアに、後4枚のソロアルバム、合計6枚のスタジオ盤と、ベスト盤を1枚残している。なかでも『イージー・ダズ・イット』(70年)(上の写真)『紐育市(お前は女さ)』(71年)、『赤心の歌』(72年)の3枚は、シンガーソングライターとしてのクーパーを高く評価するファンには、たまらない作品群だろう。『イージー…』は、彼がハル・アシュビー監督の映画「ランドロード」のサントラを作曲して、映画音楽の世界に初進出した直後のアルバムで、後にステープル・シンガーズがカヴァーする「ブランド・ニュー・デイ」など、サントラをもとにした数曲も入れたLP2枚組だ。

『紐育市』(下の写真)はロンドンとロサンジェルスの2カ所で録音されている。ロンドンのトライデント・スタジオを使ったのは、ひとえにエルトン・ジョンの影響だ。エルトン・ジョンは70年、2枚目のアルバムで初めてアメリカ・デビューを果たし、この『エルトン・ジョン』(70年)は、当時クーパーのかなりのお気に入りだったらしい。同じ年の8月に初の訪米を果たしたエルトン・ジョンは、10月末から再度訪米してツアーを行う。このときツアー初日の10月29日のボストンでのライヴを、クーパーは見に行った。

Al Kooper / New York City (You're a Woman) (1971)クーパーが楽屋を訪れてすぐ意気投合した2人は、翌日は一緒に、車で観光し交友を深める。このときまもなく発売される予定だったエルトン・ジョンの3枚目を聞かされて、クーパーはさっそく収録曲の「おくれないでいらっしゃい」をカヴァーすることに決めた。特に彼はくっきりと際立つベース音に惹かれて、エルトン・ジョンからベーシストのハービー・フラワーズを紹介してもらう。フラワーズを加えたバンドで、さっそく翌月には「おくれないでいらっしゃい」を収録し、さらに翌月の70年12月にはロンドンに飛んで、トライデント・スタジオで3曲を録音した。

その中の一曲が、タイトル曲で、クーパーの代表曲の一つにもなった「紐育市(お前は女さ)」だ。自分が生まれ育ったニューヨーク市を気まぐれな女性に喩えたこの歌は、数々のニューヨーク賛歌の中でも一二を争う、表現力豊かで、心のこもった作品だ。「ニューヨーク市、お前は女さ/心の冷たいあばずれって呼ばれて当然さ/お前は誰もちゃんと愛したことなんかない/でも、僕は炎に群がる蛾のように、お前に惹かれてしまうんだ」

2曲目の「洗礼者ヨハネ」はまたもザ・バンド調、この曲以下、ロサンジェルス録音に参加したバックの面々は、基本的にデニー・コーデルに集めてもらった人材だ。コーデルはジョー・コッカーのマネジャーとして渡米して、70年からはリオン・ラッセルとシェルター・レコーズを設立していた。だから、全般にジョー・コッカーのマッド・ドッグズ、あるいはラッセルのシェルター・ピープルのようなスワンプ・ロック調が入り込んでくる。特にリタ・クーリッジ本人を含むコーラスのゴスペル的な雰囲気はクーパー流のスワンプ・ロックとも言えるだろう。

Al Kooper / A Possible Projection of the Future (1972)この後、『赤心の歌』の前に挟まれたアルバムが『早すぎた自叙伝』(72年)(写真)だが、これもほとんどは71年のロンドン録音だ。全般にはソウル色が強まり、カーティス・メイフィールドスモーキー・ロビンソンアン・ピーブルズの曲を取り上げたほか、自作曲にもソウルっぽい感じがみられる。クーパーにしては割とストレートな感じの作りだが、いつもの新物好きの側面も消えていない。まだ売れる寸前のレゲエ・アイドル、ジミー・クリフの曲を取り上げたのは、ロンドン訪問の成果であると同時に、クーパー独特の嗅覚がまたも発揮されたところだ。また、「愛の炎が燃えた時」などは、ニール・ヤング『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』(70年)を思わせる。

そして、何といっても、シンセサイザーを導入したのが、このときの彼の最新の実験だろう。とはいえ、このシンセ音は今聞くと時代がかったチープさが耳に残るのは否めない。それでも、このシンセは単に音楽技術の進歩ということだけでなく、アルバムのイメージからもある程度必然的だったとも言える。

アルバム・タイトルの原題は「将来の予測」だが、この表現の具体的なイメージはタイトル曲の歌詞に描かれている。主人公は、50年後のアル・クーパー本人だ。

「昨日の夜で、金はなくなった/俺の女は、今日出て行った/で、俺が今歌っている曲になんか、誰も見向きもしない/だから一層、思い出すのは辛いんだが/俺はほとんど一生をかけて精一杯音楽を作ってきた/でも誰が本当の友達だったのか、それが分かるのは/奴らがもう俺を訪ねてこなくなったときさ」

「今じゃ俺は、50年分の思い出を抱えたただの老いぼれ/ブルース・プロジェクトから始めて/ブラッド・スウェット&ティアーズで一時活動して/俺の人生は音楽ばかりだった/心の中は音で一杯だった/君たちが古い映画をみれば、バックに俺の歌が流れているのが聞こえるかもしれないよ」


何とも物悲しいロックスターの老後というイメージは、アルバムのデザインでも使われ、ここには特殊メイクで老け込んだクーパー自身の写真が登場する。この近未来的な曲想には、今思えば、SF的なシンセ音を使ったのもそれほど不思議ではない。

私生活の苦しみ、そして『赤心の歌』

アルバム『早すぎた自叙伝』でも、クーパーはそれまでの彼らしさを大きく外れたわけではない。しかし、比較的シンプルな楽曲といい、あるいはタイトル曲のようなそれまでよりは少し深まった寂寥感といい、『アイ・スタンド・アローン』から3年目を経過して、ある程度のスタイルの変化を感じないわけにはいかない。その背後では、時代の音楽がシンガーソングライター全盛期に推移したということと同時に、彼自身の私生活の推移も影響していたのかもしれない。

それまで波風の絶えなかったクーパーの結婚生活は、71年頃、ついに終止符を迎えた。ツアーや録音であちこちを転々とするクーパーの音楽家生活に、妻はついに愛想をつかしたのだ。特に70年暮から71年は、彼は繰り返しロンドンに赴いて、アルバムを録音していたから、二人のすれ違いは深まっていた。こうしてクーパーの2度目の結婚は終わった。この後、彼はしばらく人生最悪の経験をすることになる。

ドラッグからはすでに60年代後半に足を洗っていたが、代わりにこのとき彼は、パーコダンという鎮痛薬の中毒になってしまう。この錠剤はアヘンと似た中毒性のある合法的な薬で、クーパーは一時一日10粒も飲んで、日中に突然睡魔に襲われるような危険な健康状態を続けた。行きずりの女性関係を繰り返し鎮痛薬の効果に溺れる毎日の悪夢を絶つために、彼はあるとき決心して錠剤をすべてトイレに流す。ところが、その後約1週間の間、中毒の後遺症に悩まされて、食事はおよそできず、激しい痛みと悪寒に襲われる形容しがたい苦しみを味わったという。

Al Kooper / Naked Songs (1972)こんな生活を乗り越えて生まれたソロ6枚目が『赤心の歌』(72年)(写真)だった。いつになくマイナー系の多い曲調、印象的に使われる生ピアノ、そして何といってもストレートな愛を歌い綴った歌詞・・・ここには、最もシンガーソングライター的なアル・クーパーが登場する。アメリカではそれほど人気もなく、ついぞCD化もされていない一枚だが、日本ではかなり評価の高い作品だ。彼のキャリア全体を見渡したときに典型的とは言い難いが、それでもクーパーの私生活の変化も影響して、彼の持つある一面が表に引き出された美しい作品であるのは間違いない。

かつてのシニカルさはこの1枚ではあまり表に出てこない。それは、歌詞に顕著だ。

「君の真心を愛してくれる女性がいるなら、彼女を大事にするんだ/だって、そんな女はめったにいないんだから/今の男はあちこち渡り歩いて、愛情の本当の価値を分からない奴が多い/男にはどんな女でも付いてくるわけじゃない/運よく愛にめぐまれたら、もう駆け引きはやめるんだよ」「自分自身でありなさい、素の自分で/他の人間のふりをするのはやめるんだ/素直に、素直に、素直に」
「自分自身でありなさい」


このアルバムには、2人の具体的な女性の名前が登場する。一人目が名曲「ジョリー」の主人公だ。モデルになったのは、クインシー・ジョーンズの長女ジョリー・ジョーンズである。クーパーが一度語ったところによれば、彼はこの頃短い間、ジョリーと付き合っていたようだ。君は年は若いけど、太陽のように輝いて僕を救ってくれた・・・実生活と重なりそうな内容の歌詞である。この曲のちょっとおしゃれで、ちょっと泣ける雰囲気には、日本でも長い間ファンが多く、90年代はフリーソウル系のDJも好んで取り上げた。最近ではソニーのCMにも使われたことがある。ソロ時代の彼の代表曲の一つと言っていい。

もう一人あまり知られていないのが、アネット・ピーコックとの出会いだ。5曲目の「ビーン・アンド・ゴーン」に作曲家としてクレジットされた彼女は、ポール・ブレイとの仕事でよく知られた先進的なジャズ・ヴォーカリストで、彼女もこの時期、しばらくアル・クーパーと交際したことがあるらしい。このアルバムの「ピーコック・レディ」は「孔雀の婦人」という抽象名ではなく、文字通りピーコックの名字をタイトルに冠したものだ。この曲でのピーコックは、クーパーのもとを離れていってしまう、いと惜しい相手だ。

「彼女の声をラジオで聞いた/交通費なんか気にしないさ/彼女の甘い歌声が聴けるなら」「可憐な彼女は今もどこかで演奏している/彼女はいつも飛んでいってしまう、立ち止まることはできないんだ/僕はピーコック・レディのことで頭がいっぱい/僕を中に入れてくれないか、優しく包み込んでほしい」


そして、アルバム最後の
「人生は不公平」も、ピーコックとの束の間の恋を嘆いた歌である。今は傍にいる彼女も、そのうち別の男のところに行ってしまう。その男が君のことをどれだけ愛しているかも分からない、けど君は僕のもとを離れてしまう・・・。クーパーはこのアルバムで、はじめて曲名と関係のないアルバム・タイトルを付け、「ネイキッド・ソングズ」(=赤心の歌)という名前を選んだ。25歳までに名声を築いた男は、30歳を目前にして人生の有難味と苦味を悟った、アルバムを貫くそんな素直さが、ファンの心を惹きつけている。

このアルバムは、アル・クーパーのコロンビア・レコーズでの最後のスタジオ盤になった。クーパーを常に高く評価し、彼の移籍を止めていたクライヴ・デイヴィスは、社内の権力闘争をきっかけに73年、辞職を余儀なくされ、コロンビアにはもはやクーパーを引き止める者もいなくなった。『赤心の歌』の一部は、南部のジョージア州アトランタで録音され、当時結成されたばかりのアトランタ・リズム・セクションが2曲でバックを務めている。彼らはもともとロイ・オービソンのバックバンドから発展したグループで、クーパーはその前身バンド時代からの知り合いだった。72年ツアーで3年ぶりにアトランタを訪れた彼は、アトランタ・リズム・セクションの面々の音楽的成長ぶりに感心し、さっそくソロアルバムの収録に起用したのだ。そして、この決断が、アル・クーパーを次の新たな音楽人生へと導く契機になったのである。

 

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