PLASTICS INTERVIEW before DEBUT 3
![]() Takemi Shima |
彼の音楽体験は、ラジオでアメリカン・ポップスを聞き、フォークを噛り、ウェスト・コーストのロックやシンガー・ソングライターに熱中し、数年前からはパンクやイーノに関心を持っているといったものだ。ぼく自身もそれに近い体験をしている。それだけに、彼らがリズム・ボックスを選びとるにあたっては、ある種の決断があったのではないかとぼくなどは想像してしまうのである。 Sバクのように音楽を聞いているんで、歌謡曲とロックを分けることは気持ちの中でしていないんです。でも、その人のイメージって、出来上っちゃうことが多いでしょう。たとえばぼくは今歌謡曲の作詞をしているから歌謡曲の人ということになっちゃう。そうなるともう、その人がどんな趣味を持っていようとどんな本を読んでいようと、一般の人には関係なくなっちゃうわけです。歌には電気と関係ないようなイメージがあると思うんです。そのぼくが最も歪んだ楽器をやってるわけで、やっぱり、地球をぐるっと回って背中を向いたらリズム・ボックスがいたということなんでしょうかね。 理由は説明の好きな人がいろいろつけてくれるだろうし........。ひき語りのスナックの必需品というイメージから開放して、みんなが思っているよりもリズム・ボックスってお利口なのねと。ぼくらのステージを見に来た人が、ドラムらしき音だけ聞こえるのに、ドラム・セットは見えないで驚く。手品みたいな、時間差攻撃みたいなものですね。 でも、やってて後ろめたさもあるんですね。たとえばボーカルの人は自分の声を出して伝えようとする。ギターの人にしてもシンセサイザーの人にしても、いちおう弾いてる。ところがぼくはオペレーターなんですよ。本当に音を作ってるわけでもないし、何でもないから、ぼくがいないとはじまらないといってみても、やってることはチンケなことなんですよね。ライヴでこざかしいほどに忙しく操作していてもそう感じちゃう。 Mリズム・ボックスをテープに置きかえるのとはちがう。一人そこについてて、スイッチを押してると、一緒に演奏してるという感じがする。たとえば自宅で一人で練習する時に、テープにあわせて演奏しようとすると、追いかけちゃう。プラスチックスもライヴの方が乗りがいい。本当は同じはずなのに、面白いね。心理的なものかもしれないけど、人がついてると追いかけるふうにならずに一緒にやってる感覚がある。 |
![]() Toshi & Chica |
Sドンデン返しの面白さってあるでしょ。ぼくがバンドでドラムやってると言ったら、みんなウソでしょうとコケにする。ぼくは何もできない人というイメージがあるから。それをひっくり返して、驚きが生まれるみたいな。よく考えてみると、プラスチックスのメンバーが不安を持ってるんじゃないかと思うんですよね、ぼくに。よく間違えるから。でもそういう不安感をバンドや見ている人にも与え続けたいという気はありますね。 Hライヴやってる時は、クールでも無機的でも乗りはあるわけ。乗りの問題を無視できないね。ふつう生身の人間がドラムを叩いてて、コンマ1秒のズレとかが乗りにつながってくるわけでしょう。そういう意味ではぼくらは乗ってないわけ。というか、乗り狂ってるというか、まったく狂いがないわけだから、そこらへんで考え込んじゃうけどね。最初は簡単にするためにリズム・ボックスを使ってたけど、今はシークエンサーだシンセサイザーだボリューム・ペダルだといろいろ付属物が多くて、コンセントが1個抜けたら、ぼくらの音楽はハイおしまいというひ弱な軟弱なものになっちゃってるわけ。そのひ弱さをなんとかしなくちゃなと。ドラム・セットと人間のほうが融通がきいてシンプルになるかなとか。今の形が完成されたものだとは思ってないから。 Tリズム・ボックスに乗ってるってのがおそろしいね。リズム・ボックスで「恋の終列車」を乗り狂ってプラスチックスが演奏している世界、客もそれを乗って聞いてたりするのがおそろしいね。 H,Sドラム・ソロなんかもやりたいね。シマチャン、なんて声がかかれば、キャスターでリズム・ボックスがスーッと舞台の真中に出てきて、激しいソロをやる。盛り上って客席から拍手がワーッとくるまでやってね。 ああ、また話がどんどん過激なほうへと行ってしまう。 彼らは「COPY」と「TOO MUCH INFORMATION」のレコーディングを終えて、現在、発売元のレコード会社を探しているところである。この号(注:'79年7月号)が出る頃にはそれも決定しているはずである。 |
デジタルの国でプラスチックスと交信する 「ミュージック・マガジン」1979年7月号掲載 著者:北中正和 |