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 まるで夢の様に咲く花たち

 ミルク色の苺の小さな花

 苺畑に沿った小道は楽園へと続いているよう

 振り返れば遥か眼下に暗みかけの海が見えた

 「僕たちだけでこんなに遠くに来たんだ」

 少年は感嘆の声を漏らす

 海に深く浸かっていく夕日が少年の髪を薄く照らした

 「もっと向こうまで行ってみようか」

 もう一人の少年がさらに奥へと続く道を見つけ、指差す

 「だめだよ、もう暗くなるし」

 ホラ、と視線を向けた海には、滲んだオレンジが薄暗い空に飲まれていた

 夕日はすでに形もない

 「道に迷ったって言えばいいじゃん」

 ぷうと頬を膨らませる顔に思わず笑う

 「もう少しだけ…いようか」


 遠く潮騒が耳を撫でた。
 鳶が円を描き、独特の声で鳴く。
 そして絶え間ない蝉の声。
 小さな民宿の一室、やけに低い窓枠に腰掛け、庵はぼんやりと外を眺めていた。
 障子とガラス戸で二重になった窓を静かに閉めると、蒸し暑さと静けさに包まれる。
 筈であったが。
 「やったぜ八神!薪割り荷運びでタダ泊りOKだってよ」
 嬉々として入って来た京は手に持った缶ジュースを投げて寄越した。
 受け止めた手に冷たさがしみた。
 「八神はよせ、庵でいい」
 さらっと告げられた一言に京は思わず手に持った缶を取り落しそうになったが、わたわたと持ち直した。
 その様子に庵も後になって自分の言った事にテレを感じたのか、俯いてプルタブを開ける。
 微かに開いた障子の向こう、鴎の集まる岩場が見えた。
 「随分遠くまで来ちまったなぁ」
 庵越しに海を眺める京の視線を辿り、同じ景色を確かめる。
 「ああ」
 いつか見た海と似て、戻らない日々が頭を過ぎった。
 「後悔してるか?」
 微かに表情の陰った庵に気付いたのか、視線を外したまま呟く。
 だが即座に庵は首を振った。
 「もしそうなら今直ぐにでもお前を海に沈めて帰っている」
 返事の内容に苦笑いしながらも庵に顔を寄せる。
 黙って受け止める庵に穏やかな幸せを感じた。
 二人で運命に背を向けて早三日が経とうとしていた。
 行き場も無く逃げ出した。
 二人にはそれしか方法が無かった。
 運命の重みを受け入れるには二人はまだ若すぎた。
 京は正直庵が一緒に来てくれるとは思っていなかった。
 だが庵も疲れていたのだ。
 「海へ行かないか」
 瞳孔がよく見える距離での呟き。
 頷き、もう一度口付ける。
 静かな波音、この数瞬だけでも幸せでいたい。


 焼けた砂の中に足が沈む。
 溜まった海草を踏まないように飛び跳ね、降りた衝撃で深く沈んだ靴に砂が入り込む。
 自分がこんな状態なのだから庵はどんなものだと振り返ると、相変わらずの涼やかな表情で器用に後をついてきた。
 「冷たそーだな」
 自分の靴をおもむろに脱ぐと、弾く水がズボンを濡らすのもそのままに浅瀬を走った。
 「お前と初めて会ったのはこの浜辺だった」
 振り返った顔は見るからに覚えてないと言いた気で、余りの間抜けさに笑む。
 「俺も、お前も両親と春先に此処へ来ていた」
 その頃は草薙だとか八神だとか関係なく、旅先で暇を持て余していた子供同士が仲良くなったに過ぎない。
 幸い両親は互いの存在に気付かず、滞在中は近くの海や山で遊んだ。
 お互い初めての土地なので何もかもが新鮮で、本当に楽しかった。
 「庵も来いよ」
 手招きに靴のまま水に踏み出す。
 「小さい頃よく海に行ったけど、その度に」
 京がタイドプールを指差し中を覗くよう指示した。
 中には小さな巻き貝と磯巾着が口を開けているのが見える。
 「こーいう事してたな」
 言って摘まんだ巻き貝を磯巾着の口の中へと落とした。
 うにうにと呑み込まれていく様を二人で見守る。
 「以前はここらで足の届く範囲の磯巾着全部にしていた」
 そうだったかなと首を捻るが、忘れている事に怒った様子も見せず海水に手を浸した。
 「そろそろ戻るか、潮も満ちてきたし」
 先に岩場を降りた京は視線で庵を促した。
 だが庵は脱いでいる京と違い、ブーツのままであった為、海草の滑りに足を取られる。
 後方に倒れまいと踏ん張ったおかげで京へと倒れ込むかたちになってしまった。
 が、京にとっても不意打ちであり、二人して浅瀬へと倒れ込み、すっかり水浸しになってしまった。
 「つっめてえ!」
 言いながらもしっかり腕の中に庵を抱き止め、暫くの間そのままでいた。
 濡れたズボンの纏わりつく足を砂の上に投げ出し、水分を吸収させる。
 「やっぱあちぃ…」
 テトラポッドに囲まれた間に座り、夕焼けに空が溶けるのを見た。
 まぶしそうに目を細める庵に手を伸ばす。
 夕焼けに染められたような髪と瞳、綺麗だな、と思った。
 「後であの灯台の辺りに行きたい」
 近づけた顔を遮る手を片手で捕らえ頷くと、庵は何処か安心したように瞳を閉じた。

 灯台までの道のりは段々畑の間の細い道を通っていく。
 「俺、来た事ある気がする」
 振り返り、眼下の水平線に見える烏賊釣り漁船の明かりを数えた。
 「脇一杯の白い花が綺麗でさ、こう、小さい花」
 「苺だ」
 指でその大きさを作って見せるが、即答されてしまった為笑いながら空を見上げる。
 「もうこんなに暗くなってんだな」
 正に吸い込まれるという表現の合う星空、都会では滅多に見れぬもの。
 余りに星が多すぎて星座の判別がつかないのが唯一の欠点だが。
 「此処に来たあの日、あの日を俺はいつまでも引き摺ったまま大人になっていた」
 小さく微笑む庵の、余りの力無い様に京の中に小さな不安が宿った。
 「後に草薙と知ってからも…」
 不意に激しく咳き込んだ庵の手指の隙間から鮮血が散る。
 「だが、それは俺だけだったらしい」
 掌に残された血痕を眺めながらの告白は、正に血を吐くようだった。
 「そんなこと…何言ってんだよ、今はこれからのこと考える時だろ」
 「死に場所くらいは選びたかった」
 再度激しく咳き込んだ庵の膝が折れ、慌てて支えた京に凭れ掛かるように倒れた。
 「静かな場所がよかった」
 小さくなった庵の声と入れ替わるように虫の声が辺りを包んだ。
 強い蝉の声、小さな鈴虫の声。
 必死に記憶の糸を辿る京の思考を埋め尽くさんとするように、沢山の虫の声が響いた。
 『もう暗いよ、帰ろうよ』
 虫の声に混じって、声が聞こえた気がした。
 途端、一斉に止んだ輪唱。
 目を見開いた京を怪訝そうに見上げる。
 「あの日、遠くまで来れたのは、俺がいたから…」
 呟き、繋がれた手は暖かい。
 「そうだろ?庵」
 京の言葉に目を伏せ、虫の音に耳を傾ける。
 次いで京も視界を閉ざす。
 命の終わりを訴える音と、己の存在を訴える音。
 数々の音に包まれた場所はとても静かとは言えず、ゆっくりと瞳を閉じてもいられなかった。
 「帰ろうぜ、もう遅いし」
 そっと庵を抱き起こした京が微笑む。
 不思議と苦痛は庵の中から消えていた…。

 都会とは違う街灯一つ無い為の暗闇。

 足元の石一つに気を配らねば転ぶに易い。

 「もう暗いよ、帰ろうよ」

 「明日、帰るんだ」

 振り向きもせず灯台へと続く小道を行く。

 「だから」

 「だけど、真っ暗で…お化けでもでそうだよ」

 もう一人の少年の手を掴み、向き直る。

 「僕が、ついてるだろ」

 そういわれて、一人ではないと、何故思えたのか。
 その日からずっと…その手をまた差し伸べてくれるのを待っていた気がする。


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