退屈な授業を久し振りに受けた。
ここ数週間何所か心が抜けてしまったようでまともに学校へも来てはいなかった。
が、今は違う。
完全に安定したとは言い難いが、以前よりマシではあった。
「草薙さん!」
校門を出ようとした背に投掛けられた声。
迫って来た荒い息遣いに振り向く事も無く相手の言葉を待つ。
「待って下さいよ、昼の技、あと一回でいいから見せて下さい!!」
頭を下げているのは見なくても分かる。だが今は構っている暇など無い。
「真吾、土曜教えた技、覚えてるか」
「ま、待って下さい」
懐から生徒手帳を取り出し、奇麗に定規で区切られた文字を辿る。
「な、七拾九式ッスね!」
「そうだ、要はアレを跳んで出しゃいいワケだ」
一言で済ませられてしまった説明に真吾の頭は豆腐で埋め尽くされていく。
「そーゆう事。じゃーな、努力しろよ」
片手を軽く上げ、思考を停止させた彼を置き去りに家路を急ぐ。
…今日こそ彼は答えをくれるだろうか。
その事を考えただけで思考が停止する。
答えをくれるのは彼しかいない。
「ただいま」
返る筈の無い返事を期待した自分を叱咤しながら上着を脱ぐ。
自分以外誰も居ないかのような静寂。
いつも通りの床、机、窓。
だが自分は、自分にだけはその息を殺そうとも感じとれる。
自分と同じく古き血の宿命に縛られた存在。
「なあ、何故逃げたんだ?」
奥の部屋にいるであろう彼に問い掛ける。
「聞こえてるだろ?」
開いたドアの奥、男の一人暮らしには不似合いな光景。
天井から、商品ディスプレイのように円錐形に張られた緋色の布。
その中央、まるでそれが炎のように取り巻く人影が小さく身じろいだ。
「何か、消えたか?」
思う様込めた揶揄の言葉。
布を避けてその中を覗き見る。
中の人物は視線だけ向けると、流れ落ちる前髪の間から布の纏められた天井を仰いだ。
否、それくらいしか出来ぬ程度に縛められているのだ。
「なあ八神、何処か変だと思わなかったか?」
哀れな自分の姿を見ても笑ったままの京に溜息を吐く。
彼をこうした張本人だ、当たり前である。
「おかしいのは貴様自身だろう」
どう思考を回らせてもそうとしか思えぬ京の行動。
ただ大人しく捕われたのには訳がある。
"逃げた"…のだ。
「逃げるから、悪いんだぜ…お前が」
京が本当に言いたいことが何であるか、容易に察しはついていた。
もっとも、当の本人は気付いていないようではあるが。
そして言う必要さえもない。
互いが側にいることが当たり前になってしまったのはいつからか。
頻りに自分を構う京を嫌だとは思わなかった。
その状況に甘んじてしまっていた。
「そんなことでいいのかしら」
女が笑う。
「お前がいなくなって、どうにかなりそうだった」
眇めた瞳と声の震えが言葉に重みを加える。
掴まれた布の一筋が燃え上った。
「今【憎悪】を焼いた」
何を言われたのか分からない。
「お前が俺を拒むのは、"八神"の"草薙"に対する憎しみの所為なら…」
握り締められた指の隙間から灰が舞う。
「無くなってしまえばいい」
草薙に伝わる呪いの一種であった。
布を【焔】、中に入れる人物を【燃料】に見立て、その布一筋一筋に割り当てられた数々の【感情】を、緩慢に焦がして行く。
最後まで燃えてしまえば形の無い死が訪れるのだ。
ゆっくりと自分を組み敷く京をただみつめていた。
庵はただ何処とも無く、頭の向く方向を眺めていた。
横たわる庵のはだけられた胸に頬を当てる。
伝わる温もりと鼓動。
「何が消えた…【興味】?【羞恥】?」
返事など期待していない、ただ定期的な呼吸。
温かさを感じる為に置いていた手を滑らせる。
色の無い肌に口付けると、熱が増した。
息が喉に詰まる音が聞こえ、下腹の筋肉が強張る。
「庵…」
少しでも多くの感情の断片を探そうと何度かこうしていた。
だがただ生理的な反応に焦りを覚える。
予定よりも急速に庵の感情は炎にくべられていった。
当然そんなつもりは無かった。
ただの脅しのつもりだった。
「う…あ…あっ…」
庵の手が行き場無く伸ばされる。
ゆっくりと手を握ってやると、弱々しく握り返してきた。
それだけの反応だけでも…よかった。
カーテンを締め切った部屋の中、ふと目を覚ます。
嫌な夢を見た。
横を見下ろせば小さく寝息を立てる庵。
頬を撫でる、髪を掬う。
何故自分はこんな事をしてしまったのか。
布は殆ど燃え尽きている。
自分たちの周囲に積もる、二人分の感情の燃え滓。
「ああ、そうか」
呟き、庵の体の上に自分を重ね、目を伏せる。
どうやら此処に長く居すぎたらしい。
終