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第一話

「記憶焼失」

 

 寝心地の悪さに思わず身を捩る。瞳を焼く光にそっと瞼を開けると、いつもとは違う天井が映った。

 どうやらソファーに寝ていたらしく、少し寝違えてしまった首を何とか捻る。

 そうだ、昨日は…

 次々と甦る昨日の出来事に慌てて身を起こし、恐る恐る自分が本来寝ている筈の場所へと近づいた。

 小さくノックし、僅かに開けた隙間から中を覗き見る。

 薄いカーテンから漏れ入った陽光が部屋を白く染め、ベッドから上半身を起こしたまま窓の光を見つめる庵の姿があった。

 意を決し、大きくドアを引く。

「よぉ、体…何ともないか?」

 京に視線を移した庵は、昨日と同じ感情のない眼差しでただ見ている。

「別にお前が倒れたから連れて来てやっただけだからな。何ともねーなら出てくなりなんなり勝手にしろよ!」

 怪我人かもしれない相手にこんな事を言いたくはなかったが、相手が相手だけにまともな言葉を口に出せなかった。

「…」

 そんな言葉にさえ反応の色を見せない庵に、不意に自分のやっていることへの間抜けさが襲う。

「お、俺とは口きくのも嫌なんだろ、別に礼なんていいから…」

「誰だ?」

「へ?」

 憎悪を欠片も感じさせない瞳が真っ直ぐに京を見つめた。

 

「記憶喪失…」

 テレビや漫画ではよくある話だが、まさかそれを目の当たりにするとは思わなかった。それも、あろうことかあの八神庵。

 庵は京のことどころか自分のことでさえ何一つ覚えてはいないらしく、現に宿敵である筈の京を前にしてもいつもの気迫の影も見せない。それどころか…。

「すまない…」

 動揺を隠せない京に、その顔を曇らせるのである。

 それとなく警戒していた京であったが、いつもの緊張感を感じぬ為、すっかり毒気を抜かれてしまったように表情を緩めた。殺意しか向けられた覚えのない所為で、今の庵にはどうも調子を狂わされる。

 ふと庵は自分の衣服を眺めた。

「ん?ああ…連れて来た時から服はそのままだけど、気持ち悪いか?」

 もしかしたら行方知れずになった時の服のままだったのだろうか。しかしこれといって汚れた様子はない。

「体、何ともないなら取り敢えず家にでも帰るか?」

「家…」

 俯き黙り込んでしまった姿に、彼が何も覚えていない事を思い出す。

「じゃあ病院か警察にでもいけばきっと…」

“だめよ…”

 不意に庵の頭の中に流れ込んだ甘く窘めるような女の声、

「だめだ!」

 声が意識に流れ込むままに、自らの唇も同じ言葉を紡ぐ。

 突然の叫び声に京は言葉を詰まらせた。

 不自然な沈黙。自分の言葉に理由を見付けられずにいる庵の背を押すように、女の声が再度響く。

“ここに…”

「ここに…少しの間でいい、居させてくれ…。思い出すまでで良い」

 突拍子もない申し出に驚きの色を隠しきれないらしく、呆然と見詰め返す京に庵はさらに続けた。

「嫌なら…別に構わない」

 俯き、押し黙った庵を暫く見詰めていた京は、小さく息を吐くと庵の肩を叩いた。

「分かった。どうせ一人暮らしだし、気にすんなって」

 それを聞くとすっかり安心したのか倒れるように身を横たえる。

「もう一度、俺の名前を教えてくれないか?」

 優しい響きに、相手が誰であったかを忘れてしまいそうになっていた。

「八神、庵」

「いおり…。お前の名は?」

「…京」

 そう言えば、何故庵は初対面のとき自分の名前を知っていたのだろう。京は95年の大会が始まるまでその名を知らなかった。

「きょう…」

 その響きを胸に刻むように目を伏せる。

 そうだ、と、何を思い付いたか押し入れを探り出し、寝間着を見付けると庵へと投げて寄越した。

「その格好じゃあ寝苦しいだろ、風呂ついでに着替えろよ」

 ああと喉の奥で返事を返す庵を余所に、浴室の戸に手を掛ける。

 そんな彼を目で追い、庵は先程の出来事を反芻していた。

 何も覚えてはいない自分、女の声、京。

 空虚な頭に流れ込んだ数々の出来事。今頼る事が出来るのは京、彼一人な気がして、だから自分はあんな事を?

 入り乱れた思考に困惑する。既に彼の中に先程の女の声は残っていなかった。

 

「こっちがシャワーでこっちが普通に出るトコな。で、これが温度調節で…」

 説明を繰り返す京を、頷いてはいるものの不安げに庵は見詰めた。

「あーもうしゃーねぇな、病み上りだろうし、背中ぐらいは洗ってやるよ」

 衣服を脱ぎ始めた庵に思わず目を留める。背に大きな火傷の痕があるのだ。

「八神、それ…」

 近くにあった鏡に映して見せてやる。

 食い入るように見つめていた庵の口が、小さく開かれた。

「これは…」

 背を斜めに走る痛々しい傷痕。しかしそれは随分と時を経ているのか、色の変わった皮膚が少し盛り上がっているだけだ。

「これは…炎を知るために、焼かれた痕だ」

「思い出したのか!?」

 しかし庵は静かに首を横に振る。

「いや、それだけ…この火傷の事だけ思い出した」

 その答えに、京は少し残念であり、安堵もあった。

 …彼が自分のことを思い出してしまったら…?

「お湯被って浸かってろよ。お前の服、洗濯してくるわ」

 浴室を出ると、脱ぎ捨てたものを放り込んでおいた篭を覗く。

「あれ?」

 入っている筈の庵の服は何所にも無く、篭の一部が焦げついていた。

 不可思議な出来事に首を傾げながらも、気に留めず浴室へ戻る。

 

 湯船に浸かりぼんやりと空を見詰める。

 庵の脳裏に、鮮やかな炎の残像があった。青い、何もかもを無常に焼き払う炎。火傷を見た瞬間に脳に焼き付いていった。

「俺は、お前にとってどういう人間だった?」

 戸を開け入って来た京に視線を向けないまま呟いた。

 流石にこの質問には答えかねない。

 以前の庵は死ねだの殺すだの殺意剥き出しで、良い感情を持った覚えなどなかった。

「ごめんな、あまり親しくなかったんだ」

 繕うように笑うと、以前のような感情の消え失せた瞳が向けられた。

 改めて考える、自分と八神庵の関係を。

 自分は彼に闘い以外を望んだ事はない。その他は鬱陶しいから無視し続けていた。八神だとか、草薙だとか、まして命を賭けた闘いなど。

 だがそれは、“庵”自身も無視していた事になる。

 彼の事情、彼の感情、何も知ろうとした覚えは無い。熱くなれればそんなもの、必要無かったから。

 そのくせ自分の日常を壊す彼に怒りを覚えていた。自分は“庵”一個人を無視し続けていたというのに…。

 痛々しい火傷の痕を刺激しないよう、そっと背を流す。日は過ぎている為、もう痛みはないとわかっているが、そうしなければいけない気がした。

 彼にも、壊されたくない日常があるだろうし、命を賭けるにはそれなりの理由があったのだろう。

 彼がこうして自分の前にいなければ、こんな事さえ考える事は無かった。

 闘う最中はあんなに強く思えた手足が、意外に細い事にやっと気付いた。


続く…