「お前んトコのゴミ、少ないんだよ」
我物顔で上り込んだ京の奇妙な台詞。
眉を寄せ、意味が分からないと無言で訴える庵に笑う。
「一日一食、食うか食わないかじゃ倒れるって言ってんだ」
それきり黙って箸を口に運ぶ姿に、自分の前に並ぶ物の意味を知る。
三週程前、偶然出掛けに出くわしてしまって以来、彼は度々部屋を訪れるようになった。
当初は直ぐに追い返されていたのだが、ある日から彼は土産持参でやってくるようになったのだ。
「親父の土産の神戸牛!」
「じいちゃんが作った長葱と、庭で育てた地鶏だぜ」
「松坂黒毛和牛とすきやきセット」
土産は何故かいつも食料品で、殆どが庵の好みをついていた。
追い返す言葉の見付からない庵の脇を堂々と抜け、余り使用した試しのない台所で勝手に料理を作りだす。
庵は多少躊躇いがちに肉じゃがを口に運ぶと小さく何か呟いた。
「ん?」
「余計なお世話だ、と言ったんだ」
言葉と声の調子が噛み合っていないのに苦笑する。
「ただ飯食えると思えばいいだろ。どうせならベストな状態のお前とやりあいたいし」
箸を止めた庵の表情が変る、とはいえ普通の人間ならわからないぐらいの微少なものだが。
「…片付けたら帰れ」
意外と律義な庵が、半分も食べないうちに席を立つのは初めてだった。
「どうした、どっか具合悪いのか?」
覗き込んだ表情は何処か物憂げで、熱でもあるのかと手を伸ばした。
瞬間、払われた手に痛みが走る。
「これ以上俺に構うな…!」
力任せに閉められた奥の戸を暫く呆然と眺めていたが、重い食器を片付け、早々に帰る準備を整えにかかる。
自分は彼を刺激しに来た訳ではないのだから。
「…分かった。肉じゃが余ってっから、温め直して食べろよ」
だが彼は、その存在自身が彼を追いつめていることに気付いてはいなかった。
片付ける際の音、足音、微かな溜息、戸を閉めても彼の存在は消えない。
戸のすぐ側で背を向け、音が無くなるのを待つ。
次第に遠ざかっていく足音に邪気の無い笑顔を思い出し、何故か痛む胸を押さえた。
蹲っても、呼吸をしても引く事の無い痛み。
まるで取り残されたような時計の音だけが響いていた。
無遠慮なノックはいつも同じリズムを刻む。
だがここ一週間程そのノックに応えていない。
あと数分もしたらその音も止むだろう。
暇つぶしにやっと溜まったゴミを袋に集める。
少し、臭うか。
口を素早く縛り、煙草を2、3本吸ってからドアに手を掛けた。
ほんの少しドアを開いた所でその隙間に手を掛けられ、そのまま力任せに開かれてしまう。
「やっぱり食ってねぇだろ、肉じゃが腐ってるぞ」
あからさまに不機嫌を訴える眼差しに自分が起こそうとしていた行動を忘れてしまい、ゴミを持つ腕ごと外へと引き摺り出された。
乱暴に足でドアを閉めた京は、庵の手から袋を奪い取る。
「捨ててやるよ」
マンションの柵から徐に身を乗り出し、袋を突き出す。
「おい、ここは七階…」
狙いを定め、放り投げられた先にはゴミ回収の車があり、回収員の頭を直撃する。
「命中!」
驚きに声も出せない。
何とか言葉を絞り出そうとした庵の腕を掴んだまま、伏せるように京がしゃがみ込むので、必然的に引かれるまましゃがみ込む。
「き、貴様」
虹彩の細部まで確認出来そうな程間近で、人差し指を唇に当てた京が沈黙を促す。
柵の遮るストライプの間、回収員は不思議そうに辺りを見回すと、投げつけられたゴミをトラックに投げ込んだ。
心底面白そうにその様を見る京を唯呆然と見守る。
遠ざかる青いトラックを見送り、一頻り笑った京は突如表情を硬化させ、まだ掴んだままでいる手に力を込めた。
「京…?」
遠慮なくドアを開け、脱いだ靴を揃える事なくテレビの前の座椅子に陣取る。
開け放たれたままのドアを閉め、靴を簡単に揃える庵を見る眼は据わっていた。
「この間、駅前で逢ったよな」
視線を落としたまま、庵は応える気配を見せない。
「俺と正反対の方向に態々歩いて、いや…競歩並みに小走りで行ったよな」
「あっち方向の用事を思い出しただけだ」
座椅子にかけた重みに小さくパイプが鳴く。
台所に置いてあったコップに水道水を注ぎ、何時の間にか干上がっていた口内を潤す。
沈黙は続かず、座椅子の背もたれに顎をかけた姿勢のまま、不満気に呟く。
「声掛けてんだ、返事の一つや二つ、いいだろ」
「草薙…!」
呼び方の変化に気付いた京は片眉を上げる。
「俺は八神で貴様は草薙だ」
確かめるように一音ごとにはっきりと呟かれた両家の名。
「本来このように馴れ合ってはいけない」
その言葉は京に向けているようで、その実違う相手に向けられているような響き。
「じゃあ」
京が立ち上がり、背をむけたこちらに歩いて来るのがわかる。
「何でそんな顔してんだよ」
京は硝子越しに、庵を見つめた。
相変わらずの無表情が、今にも泣きそうな顔に見えた。
以前から胸に蟠っていた不確かな感情が再発しているのがわかる。
他虐的に見えて、自虐的な彼の行動の不安定さに魅き込まれていた自分。
放って置けない、そう、単純に思ってしまっていた。
ふと、硝子に映った自分の表情に気付いた庵が顔をそらす。
伸ばした手で庵の肩に触れた瞬間、不確かな感情が形容する言葉を見付ける。
引き寄せるまま後から抱きしめた。
大きく揺れた肩に顔を埋める。
「放せ」
声が震えていた。
冷え切っていた庵の体に自分の熱を移せるほど、抱く腕を強める。
「お前と…俺は違う」
細行にさえ心を奪われていた。
差し伸べられた手の意味は分かっていた筈だった。
「お前は優しいだけなんだ」
それだけで、よかったはずなのに。
それ以上のものを、愛情が、欲しいなどと…。
「どうして、こんな思いをしなければならない?」
独り言のように呟かれた言葉。
その言葉への返事を必死で探すが、思うように纏まらず、腕に込めた。
「お前は…俺の事など思ってはいないのに」
伝わらない思いが歯痒くて、体を此方へ向けさせる。
眉を寄せた表情とまともにぶつかり、頭の何処かが吹っ切れた気がした。
「俺だけがっ…」
背に回した腕を引き、唇を塞いだ。
驚きに目を見開く庵を見詰める。
突然の事に拒む腕ごと庵を抱き締めた。
自分の心臓の音が相手に伝えられたら。
だが庵の首は力無く左右に揺れるだけで、現状を必死に拒もうとしていた。
「お前は、誰にでも優しいのに」
喘ぐように呟くと、宙を見詰める瞳から涙が零れる。
上着に手を掛けた、何故自分がこんな事をしているのか分からない。
首筋に唇を寄せると、耳が赤く染まっている事に気付く。
思わず触れると、小さく喉が鳴った。
涙の伝った痕を手の甲で拭ってやり、再度口付ける。
今度は庵が目を閉じるのを確かめてから自分も視界を伏せた。
視界と引き換えに得られる存在感。
震えている庵を宥めるように額を撫でる。
呼吸の仕方を忘れそうなキス。
命の巡りとは違う空気が欲しい。
後戻りの効かない状況に後悔など砕片も残っていなかった。
触れる度に温度が上昇していくようで、冷たかった体は京以上に熱くなっているかのようだった。
「や、やめろ…」
次第に下へと降りてきた手に気付いた庵が京の体を押しのけるように腕を突っ張る。
京はただ首を左右に振る。
「いや…だ…」
愉悦に潤ませた瞳を見せたくないのか、顔を背けた。
もう今更抵抗してもこの状況から抜けられないと観念したらしく、されるがままに下肢を晒される。
「あっ…」
噛み殺しきれない声が度々漏れる。
京はさしてこういう行為に馴れていた訳ではなく、京が触れている、という事に体が反応していた。
「庵…」
今迄に見た事のない虚ろな瞳を見下ろす。
衝動のままに腰を上げさせた。
「いっ…うあっ」
押え付けた腕が痛みに暴れる。
耳に響く庵の声に昂ぶる体。
「庵」
応えは返らない。
意識があるかもわからない。
「…好きだ」
ずっと庵が思い悩んでいた事を払う為告げる。
瞳が、京のそれに合わせられる。
呼吸の合間に何度も呟く言葉。
「好きだ…」
見開かれた瞳から痛みの為か分からない雫が流れる。
そしてゆっくりと首が左右に振られる…認めてしまってはいけないのだと。
想いは満たされた筈なのに、何故
伝えてはいけなかった
届いてはいけなかった片想い…
終