ずっと確信されたものが欲しかった。そんなこと、無理だとわかっているけれど。
それでも儚い夢を追わずにはいられなかった。
「どうしよおっかなぁ、コレ……」
目の前の綺麗にラッピングされたそれを見て、空を仰ぐ。
買ってみたのはいいものの、手にした瞬間いきなり後悔してしまった。周りを行く人々が、その目立つ風貌に振り返るが、そんなものは目に入ってない。
バッカだなぁ俺。受け取ってくれるわけねえってのに。……しかもなんの祝いだよ。イベント事もねえのに、突然こんなもん渡しても無気味なだけだろ。
苦笑して息をつく。
思い立ってすぐ、ほとんど勢いで花屋に行った。
両手で抱えるくらいの大きな花束。かすかに漂う柔らかい香り。優し気に咲く、白い花々。
……花に顔をうずめるあいつが見たい、なんて。何故、突然そんなことを思ってしまったのか。
しかも、絶対に白い花だ!と妙な確信まで持って。純白に彩色の髪が映えるのを想像して、ひとりで胸を高鳴らせた。
……しかし。
「あーあ! ほんっとに何考えてんだ、俺」
持って行ったところで、怪訝な顔で突き返されるに決まってる。それこそ『何を考えてるんだ、お前は』『気でもふれたか』『自分への冥土の餞のつもりか?』『馬鹿もここまでくれば病気だな』『その白い花が紫炎に舞う前にとっとと持って帰れ』等々、散々言われるのが目に見えてる。
それに、会う約束などしていない。今どこにいるのかもわからず、どうやって渡すというのか。しかもそんなに日持ちするものでもない。
「考えなし……か」
道路脇をどこへともなく歩きながら、すぐ肩の前にある花に意識を向ける。よくこれだけ買ったもんだ、と我ながら呆れてしまうほどの量。金額も気にせず、言われた額を何の迷いもなく払ったが、記憶の片隅で、紙幣が数枚飛んだ覚えがある。そのときは、早くあいつに見せたいと、それしか頭になかったから気にも止めなかったが。
すれ違う女の子達が、『わあ…』と感嘆の声を上げる。背格好のよい青年が大きな花束を片手で抱えているのは、異様なまでに目を引く。
流石に目立つので、やや居心地が悪くなってきた。この花束を見せたいのはただひとりであって、他でもない。
どうしようかと思慮を巡らせていた時、背後から聞き慣れた声が届いた。
「京!」
小走りに駆けてくるのを振り返り、僅かに顔を歪める。
「……紅丸」
ヤな奴に会っちまった、と京は内心毒づいた。
「なんだよ、会っていきなりその嫌そうな顔は」
相手も同じように眉間にシワを寄せる。
今、紅丸に会うと――真吾の場合でも同じだが――ややこしいことになるのは分かり切っていた。だからできるだけ会わないよう、気がついても無視しようと決めていたのに。
こういうときに限って会ってしまう、偶然とは恐ろしい。いや、花のせいで必要以上に目を引くのは仕方のないことだった。よって、普段よりも見つけられる可能性は高いのだが。
「別にぃ。…なんか用か?」
諦めの入った表情で紅丸に向き直る。
休日にデートの待ち合わせにでも行く途中なのか、いつもと同じく気合いの入った服装で、ブロンドの長髪は下ろされていた。金髪碧眼の美形と、花束を持った同じく美形の青年二人に、増々周囲の視線が集まる。京は早く人通りの少ないところに行きたい気持ちを押さえて、極力周りを気にしないよう努めた。
「いや、たまたま通りかかっただけだけど……すげえな、その花束。ユキちゃんにプレゼントか?」
――ほら来た。
予想を裏切らない問いに、ハァ、と内心大きくため息をつく。
だから会いたくなかったんだよあーもーかったりィ最悪だとっととデートにでも何でも行ってこいよこんなとこで道草くってたら遅れるぜ紅丸。
言いたい台詞を頭の中に巡らせるが、口には出さない。
今ここで『ああそうだ』と言えば、後になって『あの花束どうしたの?』ってなことをユキに訊くに違いないし、真正直に『八神にやる』なんて口が裂けても言えるわけがない。思いっきり不審に思われるに決まってる。
「あ――…っと、いや、おふくろの誕生日でさ、たまにはこんなもんあげてもいいかなーと」
短時間に絞り出して考えたわりには上手いこと言えた。これなら――。
「静さんに? じゃあ俺も何かプレゼントしようかな。色々と世話になってるし」
「ちょっ、待て! それはダメだっ!!」
反射的に叫ぶ。驚きの混じった、きょとんとした顔で紅丸がこちらを覗きこんだ。
「なんで?」
「なんでって……」
余計なことをして、詮索好きの母親に色々聞かれては困る。しかもユキとは家族ぐるみのつき合いだから、すぐに伝わってしまうに違いない。
あああああ。全くなんでこんなことにぃぃぃ。
そんな、頭を抱えて座り込みたい京の気持ちを読み取ってか、変にカンのいい紅丸がニヤけて小刻みに頷いた。
「あ〜、わかった。別の女の子にあげるんだろ。お前なー、折角ユキちゃんという可愛い彼女がいるってのに。……まあ、あんなに長くつきあってたら、他の子と遊びたくなる気持ちもわかるけどさぁ」
「ばっ、お前と一緒にすんじゃねえよ! そうじゃなくてこれは八神に――」
――はっ。
しん、と一瞬空気が凍った――気がした。
しまった……と表情が固まったがもう遅い。勢いで名前がしっかり口から出た。あまりに大きな声で叫んでしまったため、紅丸の聞き違えに望みを託すのも、到底無理なことだった。
ぽかんとした表情の紅丸が、思ったままの言葉を口に乗せる。
「八神ぃ? 八神にこれやんの?……なんで」
えーっと、あー…。
内心かなり焦っている京の頭の中で、何かがフラッシュバックしたかのように即座に閃く。
「ぁ――あいつのバンドのファンの女の子がさ、あ、その子俺の友達なんだけど、あいつに渡してほしい、って。この前いいライブ見せてもらったから、ってさ。だから」
八神にこれを。
「…………」
額に見える冷や汗は何のためか、紅丸はあまり気にしないようにし、京と花束を交互に見遣る。
「お前から八神に? まぁーた酷なこと頼む友達だなぁ。お前らの不仲さ知ってんのか、そのコ」
不仲どころじゃないけどさー。
以前のように、互いがイガミ合ってる状況とは少し変わってきているのを知らない紅丸に、ははは、と京はカラ笑いで取り繕う。
「ったくそうなんだよ。俺が持っていったところで、あいつが受け取るわけねえっての」
自分で言いながらチクリと胸が痛む。――全くその通りだ。何やってんだろ、俺。
「なんなら俺が代わりに八神んとこに持ってってやろうか? アパートの住所知ってるし」
親切心でそう問いかけた紅丸に、京はくってかかった。
「なんでお前が知ってんだよ!?」
すごい剣幕に、多少驚いて後ろにひきつつも、あれ?と小首を傾げる。
「え、お前知らないの?」
「知るかよ。なんでお前が知ってんだ?」
当然知っていたものと思って驚いたのか、意外そうに紅丸がぽりぽりと頬を掻く。
「八神のバンドのメンバー……ギターやってる奴だけど、そいつと友達なんだよ、俺」
だから話の途中で住所訊いたことあるってわけ。結構いいとこ住んでるぜ? あいつ。
説明を聞いて眉間にしわを寄せる京に、紅丸も表情に疑問符を浮かべる。
「どうやって渡すつもりだったんだ? 今日はライブの日じゃないから、ライブハウスにはいないと思うぜ」
……う。
言葉に詰まる。
「だから……困ってたとこなんだけど」
ボソボソと頼り無気に呟く。
っていうか、なーんか妙に詳しいよなぁ。なんでライブの日取りなんか知ってんだ? こいつ。
京のイマイチ納得いかない心中を察して、紅丸がカラカラと笑う。
「あはは。実は俺もあいつのバンド好きなんだ。ギターの奴と知り合いになったのも、こっちが声かけたからで」
と、年下の親友に白状する。へえ、と妙に京は関心した。
こいつが男に声かけるなんて珍しい。それほど気に入ってる、ってことか。
庵のライブなら京も見に行ったことはある。庵が嫌がるだろうから、バレないように後ろの方で覗き込むように、だが。
赤や青の薄暗く鈍い照明の中、自分が見たことのない庵がそこにいた。あんまり本腰を入れてないらしいが、演奏するのが好きなんだろうな、というのが十分に見て取れた。ライブ中、ぴくりとも笑わなかったが、楽しんでやってるのは明瞭だった。なんとも言えない腹立たしさと嫉妬と悔しさと、いろんな感情にしばらくもやもやと悩まされた記憶がある。
それにしても紅丸がねぇ……。
「なんで黙ってたんだ? 八神のバンド好きなの」
すねたように上目遣いで自分を見る京に、紅丸は苦笑する。
この顔に弱いよなぁ、と白旗を立てざるを得ない、いつもの表情。自分で分かってないんだろうな、こいつ、などと思いつつ。
「お前に言ったら怒るだろうなと思って。なんであいつのライブなんか行ってんだ、ってな。でも、友達が勧めるんで行ってみたら、これがまたいいんだよ。あ、八神とは関係なしに、ただあのバンドが好きなだけだからな、俺は」
ぱたぱたと片手を胸の前で振ってみせる。
ほんとか? そう問い正したい気持ちを押さえて、わかってるよ、と頷く。
「それよりおまえ、こんなとこで道草くってていいのかよ。どうせまた、女と約束してあんだろ」
花越しに時計に目を遣る。なんとも中途半端な時間だ。
「あー、いいのいいの。俺、女の子待たせるの大っキライだから、いつも1時間前には待ち合わせ場所に着いてんだ。ちょっとくらい道草くっても全然オッケー」
い、1時間前……。
くらりと軽い目眩に襲われる。いや、こいつならこれが当たり前なんだろうが……今更思い知らされる紅丸の性格。プレイボーイもここまでくれば立派なもんだ、とも思う。
「だってさぁ、行く途中で買ってあげたいものとか見つけたとき、時間なかったら困るだろ? デートには余裕を持たなくっちゃ。じゃあ、そろそろ行くわ」
庵のアパートの場所を言い残して、紅丸は待ち合わせ場所へと遠ざかっていった。
……フゥ。
後ろ姿を見送って、京はほっと息をつく。ややこしいことにならずに済んだ安堵に、肩の力が抜けた。
……さて。聞いてしまったからには、やはり行くしかないか。
無数の白の中の一輪に一瞥して虚を仰ぐ。
幸か不幸か、ここからそのアパートまでさほど遠くはない。
場所はわかったが、部屋番号までは紅丸も知らないらしい。仕方ない、着いてから一部屋ずつ表札見てまわるか。
どうなるかはそんとき次第だ。
「受け取って……くれんのかなー」
まぶしいほどの花束を抱え直して、京は雑踏の中、くるりと背を向けた。
『どんなに去勢張ってても、何かに怯えてんのはわかってるんだぜ?』
耳に残る京の声が響く。
あれはいつだったか。珍しく売り言葉に買い言葉で、互いに怒鳴りあうように言葉を交わしていた。普段は冷めた会話しかしないのに、そのときばかりは自分でも驚くほど感情的になっていた。
ひどく侮辱された気がして、はらわたが煮えたぎる。その一方で心の一部を傷つけられた気もした。――何かを壊すように。それは必要なものなのか邪魔なものなのか、そのときの自分には分からなかった。ただ、不安で……怖かった。今在るものが壊されたとき、自分はどうなるのだろう。
「独りで全部背負い込むんじゃねえよ。言いたいことがあんなら言っちまえ。いつものお前の台詞はちっとも本心じゃねえ!」
満天の星空だった。少しそれに後押しされたのを覚えてる。
「うるさい! わかったような口をきくな。貴様に俺の何がわかるというんだ!」
「わかんねえよ! わかんねえから訊いてんだろ!」
星空のせいでこんなに口がゆるくなってしまったのだろうか。昔よく来た浜辺。そして目の前にいるのは、その頃度々一緒に遊んだ少年の、成長した姿。
自分を閉じ込めていた硝子の壁が、幼い頃と同じ環境のために亀裂を生じていたのかもしれない。
「貴様に話すことなど……理解してもらうものなど何もない!」
「なら、なんであんなマネすんだよ!!」
京が今まで、戦闘に対峙しているときにも見せたことのない形相で、庵を怒鳴り付けた。
「なんなんだよ! 何がどうなってんだよ、お前ん中で!」
「貴様には関係ないことだ! 人の心の中までえぐり出そうとするな!」
「仕方ねえだろ! 見ちまったらもう、今までみたいにシカトできねえんだよ!」
―――気になって。
幼い頃遊んだ庵と、数年ぶりに再び出会った庵はがらりと変わっていた。
血の宿縁だとかで命を狙ってくるようになり、もうあの頃のことは過去の過ちだ、と言わんばかりに吐き捨てる。心のどこかに幼い頃の思い出が引っ掛かっていた京は、真剣に戦うことを避けていた。できるだけ関わらないよう軽くあしらって――当然、決着なんてつく筈がなかった。そのうち段々と、うざったい存在にしか思えなくなって……いや、無理にでもそう思おうと、自分の心をこじつけていたのだが。
「なんでそんな辛そうな顔してんだよ!」
「……!」
ザザン、と静かに波が音を立てた。ふたりの他には誰もいない。少し離れたところにある街灯が、両の横顔を照らしていた。
「いつもそうだ。嘲笑してるつもりかもしれねえけどな、俺には思いっきり辛そうに見えんだよ! そんな奴と真剣に戦えってか!? 無理に決まってんだろ!」
庵の胸に、ズキン、と鈍い痛みが走る。
「本当に戦うことに躊躇してんのはてめえの方だろうが!」
やめろ。それ以上言うな。
「でなきゃ海に飛び込んで死のうとすることもねえんだよ!!」
「やめろ!!!」
出せる限りの声で怒鳴る。庵はこの上なく不安定な状態でそこに立ち尽くした。
……ただの気の迷いだった。
KOFのためにとられた宿が偶然、昔よく来た海の近くで。懐かしさに目眩を覚えそうな気持ちで、浜辺へと歩を進める。あちこち舗装されていたが、昔の面影は今も残っていた。
あの頃は良かった。何も考えないでいられた。ぼんやりとそんな想いを巡らせる。
『いおり! 見ろよ、ここから見るのが一番きれいだぜ』
そう言って彼が教えてくれた場所はテトラポッドの端の高みになっているところだった。辿り着くと真下からずっと先まで海が広がり、夕日が空と海面を染める。波が立つ度に朱い光がゆらゆら揺れた。その瞬間、なんて自分達がちっぽけに思えたことか。
庵はゆっくりとテトラポッドに登り、その場所へと近付いていった。眼前に広がる、昔と変わらない碧を見渡すと、何とも言えない想いが胸を締め付ける。
静かにその場に腰をおろし、心地よい浜風に身を任せた。
目を閉じると、潮の香りと波の音に吸い込まれそうな感覚に襲われる。満天の星空も自分を優しく包み込んでいた。
ぐ、と身を乗り出して真下を覗き込む。静かな闇。だが全く怖いとは思わなかった。それは自分にとって、ただただ懐かしい場所でしかなかった。
――帰りたい。
周りのすべてのものに包まれていく。
――昔に帰りたい。
意識が白濁していき、波がそれをいざなう。このまま吸い込まれてしまえば戻れるだろうか。
……あの日に。
上半身が大きくせり出して、手がコンクリートを押し退けようとした――刹那。
「八神!!」
耳元で自分の名を叫んだ声と、ガッ!と両肩を掴まれた衝撃に、庵は意識を引き戻された。
「死にたかったわけじゃない」
顔を背けて息を吐くように呟く。京の真直ぐな瞳を見たら自分自身何を言ってしまうかわからなかった。
「でも俺が止めなかったら、あのまま飛び込んでたんじゃねえのか」
いつも真正面から投げ掛けてくる挑むような視線が、今は伏せられてよく見えない。京は苛立つ気持ちを押さえて拳を握り締めた。
「俺が何度呼んでも無反応だっただろ」
「聞こえなかったんだ!」
キッと京を振り返り、睨み付ける。
「だからといってどうだというんだ! 貴様に何の関係がある? もし俺が本当に海に身を投げていたところで、返ってメリットがあるというものだろう!」
「ばっ……!」
ざわっと京の周りの空気が殺気立ったのを感じたが、構わず続ける。
「それとも自分の手で殺したかったのか? 貴様にできるのか。いつも逃げてばかりで真剣にやりあおうともしなかった臆病者が!」
「逃げてたのはお前じゃねえかよ!」
ギリ、と奥歯を噛み締めて、京は力任せに手を振り下ろし、空を薙ぐ。
「殺すだの死ねだの散々言ってるくせに、いつになったら俺を殺すんだよ? 本気出してねえのはてめえの方じゃねえか!」
その言葉に反論しきれない庵が息を詰まらせる。ふたりの間にしばしの沈黙が流れた。
「……海見ながら何考えてた?」
静かに庵を見据える。
「ここは昔よく遊んだ海だよな。覚えてるぜ」
庵の肩越しに懐かしい場所を眺める。
「お前がさっき登ってた、あのテトラポッドも――」
「うるさい!」
言いかけた言葉を遮る庵に、ムッとした京が怒鳴り返す。
「昔の話すんのがそんなに嫌なのかよ!」
京の感情のままに発せられる、今までずっと彼自身胸の奥にとどめていたであろう言葉が、どこか遠くで――だが脳に直接届くかのように庵の耳を打つ。
それ以上言うな。
ともすると震えそうになる片腕を抱く。今の自分が壊れてしまいそうで、とてつもなく怖かった。ずっとこんな会話は避けてきたはず――なのに、何のために気持ちを押し殺してここまで来たのか、一瞬忘れそうになる。
こんな風にしか生きれない――生きてはいけない運命だというのに。どんなに願ったところで昔になんて戻れるはずはないのに。
「あの頃思い出してあそこに登ってたんじゃねえのか!」
「―――黙れ!!」
庵の声が空気を裂いた。一変して声色が変わる。
「……お前に何がわかる?」
怒りや悲しみ、自嘲とも取れる表情で、弱々しく目の前の相手に視線をあわせる。けれど京の顔なんて見えなかった。嫌になるほどわかってしまうのは今の自分の感情。すべてを晒け出してしまいそうな、不安定で危うい自分自身の状況だけが、必要以上に感じ取れる。
駄目だ。もう止まらない。
「何も知らずにぬくぬくと生きてきたくせに偉そうな口を叩くな!」
感情が高ぶり、胸中で何かが沸き起こっていた。それは全身を駆け巡る。
「俺のことがわかったところでどうするつもりだ? お前には何もできない」
お前がお前という存在である以上。
「――――これ以上俺を苦しめるな!!」
心の底から吐き出された想いに、声が途切れた刹那。
ハッ――…。
京が目を見開いて息を飲んだ。
つ、と庵の頬を伝って雫が落ちる。
「―――…!」
自分が泣いていることに気付いた瞬間、沸き上がる嗚咽を漏らさないように掌を口にあてる。
な……。
自分でも混乱して収集のつかない感情を持て余す。ただわかるのは、これ以上醜態を晒したくないという思い。とっさに庵はきびすを返してその場から走り出した。
「八神!!」
自分を呼ぶ京の声など届いてなかった。――ただ羞恥に脳が煮えそうだった。自分の最も弱い部分を、最も見られたくない人物に見られてしまうなんて。
「待てよ!」
走り寄った京に、強引に腕を掴まれ振り向かされた。ボロボロな状態を見られたくなくて顔を思いっきり背け、振りほどこうと腕を払う。
「はな……っ!」
嗚咽に弱々しく声がかすれる。
「俺の顔を見ろ!」
暴れる庵の両肩を、京はしっかりと力を込めて掴み、落ち着かせようと揺さぶる。
「八神!!」
「嫌だ!」
激しく抵抗し足を絡ませた庵の両膝が、ガクンと砂に埋もれた。
「やが――」
「放せっっ!!」
尚も嫌がる庵に、チッと舌打ちして京は強引に口づけた。
「―――!」
庵の涙に覆われた目が驚きに見開かれる。
何が起こったのか理解できなかった。ただ、庵の動きがぴたっと止められる。
強引だが、優しいキス。荒らぶった感情が次第に静められていく。トクン、トクンと鼓動が胸を打つ音だけが耳に響いた。庵の不安をすべて吸い取るように、京は優しく唇を重ねる。
ふ、と庵は目を閉じた。あふれ出す雫が顎から離れ、地面に砂の珠をつくる。
波の音に包まれた、一瞬とも永遠とも思える時間。
京はそっと唇を離すと、そのまま首に両腕をまわして庵を抱き締めた。顔を苦痛に歪め、辛そうな表情で目を閉じる。
「もっと……ほんとのこと言えよ」
庵の顔が見えない状態のまま、ぎゅう、と凭れ掛かるように腕に力を込める。
「心ん中で押し殺すなよ」
京の腕の中で庵は微動だにしない。今、どんな表情をしてるのかもわからない――けど。
無表情の裏に、微かに垣間見える哀しさを知っている。いつも、どんな場面でも本当は気付いてたはずなのに。
「俺もお前も、見なきゃいけないこと、ずっと必死で見ないようにして……ほんとはすげえ痛いのに、そういうの隠して強がって」
素直になれない――気持ちの上だけでなく、立場さえも本音を言うことを許してくれなくて。
「けど……自分自身より、そんなお前見てる方がもっと辛いんだよ」
痛みを堪えて噎び泣くような悲鳴を、時折感じてしまうから。
京の声を聞きながら、庵はやんわりと落ち着いていく自分の感情を読み取っていた。
地面にだらりと投げ出された両手が、ゆっくりと京の服を掴む。そのまま伏せた目を肩にうずめた。
痛かった。胸が今までで一番痛かった。けれどそれは……。
気が遠くなりそうな、安堵が混じったなんともいえない不思議な感覚に包まれながら、遠くで波の音を感じていた。それは幼い頃、一緒に遊んだ少年と共に聞いた音。
京が自分を構うようになったのはこの時からだった。
さあ…っと微風が頬を撫でる。落ちかけた陽が色どる空と、それに伴って光が変わる瞬間を庵は気に入っていた。ベッドに腰掛け、疲れた身体を窓際へ寄り掛からせて、紅茶の入ったカップを口にあてる。こくりと喉が上下すると、ゆっくり息をついて目を閉じる。
この時間はできるだけ出掛けないようにしている。毎日のこのひとときだけが庵を落ち着かせていた。一日の終わり。だが庵にとっては終わりでも始まりでもない。ただ移り変わる時間の途中にある、切り抜かれた特別な空間。幼い頃、よく遊んだ夕焼けの海が脳裏に焼き付いて離れず、静かに甦らせてくれる。
未だに放たれず、過去にしがみついて生きているこんな自分に苦笑さえするが。
本当は誰よりも昔を恋しがっていることに――何よりも思い出を大切に抱いていることに、あの日ようやく気付いた。自分に嘘をつき続けて生きていくのをやめることなんてもうできないけれど、たったひとつくらい許してもいいんじゃないか。感情を押し殺して生きていく方が楽で、そうでもしないと立ってさえいられなくなる――そんな自分に一度くらいは素直になってみたかった。
あの日から、京の自分への対応は明らかに変わってきている。だが、互いの気持ちを知ったからといって、すぐ態度を変えられるほど庵は器用ではなかった。所詮は過去への慈しみ――そう思っていたかった。
『いおりー!』
幼い少年の元気に走り回る姿が、時折脳裏を掠める。自分の手を引いて色んなところに連れていってくれた、あのかすり傷の絶えない無垢な笑顔。思い出すたび、きゅう、と抱き締めたくなる、愛しい思い出。
大好きだった。ずっと一緒にいられたら――どんなにいいだろう、といつも思っていた。その願いは叶わなかったけれど――でも。
頬を撫でる風が優しい。自分と比べ、風だけはあの頃となんら変わっていない。そのことに多少羨ましく感じながら、それでも昔のままであることに安堵する。きっとあの場所も変わっていないのだろう。記憶の中の幼い少年が駆け回る、懐かしき夕暮れの海。
いつかまた行けるだろうか、あの浜辺へ。
何も知らなくても許されたあの頃へ。
「あった……」
ドア横の表札には小さくだがしっかりと『八神』の文字。
食い入るように何度もその名前を確認した京は、花束を抱える腕に力を込め、ゴクリと喉を鳴らした。
紅丸の言った通り、八神のアパートはいい感じだった。駅からもそう遠くなく、だが静かな場所に建てられている。有名な建築家が設計したのだろうか、さり気ないところがお洒落なアパートだった。
とりあえず当初の予定通り、ひとつひとつ表札を調べた。途中、アパートの住人に訝し気な顔でじろじろと見られたが、気にしていたらキリがないので、無視して黙々と見て回る。一階を調べ、二階も調べ、マジでここに住んでんのかぁ?と思いつつ三階をうろうろしていると――あった。一番奥が庵の部屋。
ここが八神の……そう思うと不思議な感じがした。あいつから生活感という言葉がかけ離れていて、今まで想像もつかなかったのに。だがここに紛れもなく庵が住んでいる。一体どんな暮らしをしているのだろう。
知りたい。――しかし。
「やっぱ…やめとこっかな……」
手に持った白い花束に目を這わせる。う〜〜〜〜〜ん、とひとしきり唸って決心を固めた。
「いや、折角ここまできたんだ。男は度胸だぜ! ――よし」
覚悟を決めてインターホンを押す。
「…………」
沈黙。もう一度押してみる。
が……返事はない。
一瞬にして、どっと気が抜ける。我ながら運のなさに呆れてため息をついた。
「もしかして出掛けてんのか? 最悪だな、おい」
言いながらなんとなしにノブに手を回してみる。――すると。
「あれ」
カチャリ、と音を立ててあっさりドアが開いた。
オートロックじゃないのか、なんてトボけたことをぼんやり思いながら、怖ず怖ずとゆっくりドアを開き、中を伺う。
「おーい、八神ぃー……」
無意識に遠慮がちな声色で呼び掛ける。
「いねえのかぁー」
返ってくるのは、しん、とした静寂だけ。物音も何も聞こえてはこない。
不用心だなー……ったく。
心中でぶつぶつ呟きながら中を覗き込む。
割と小綺麗に整頓された玄関が、そこにはあった。革靴が数足、スニーカーやブーツも見える。あいつもこんなの履くんだ、と多少意外に思い、更に視線を奥へやる。短い廊下の隣にバスルームやトイレとおぼしきドアが見え、突き当たりの同じデザインのドアが、僅かに隙間を開けていた。
あの向こうに自分の知らない庵の世界が存在している……そう思うともどかしくなり、顔を覗かせてそこにはいない部屋の持ち主に了承を得る。
「入っちまうぞー」
声をかけてしばらく待つが、やはり返答はない。沸き上がる好奇心が、京の足をドアの向こうへと誘う。
「……っじゃましまーす」
やや遠慮しつつ後ろ手にガチャンとドアを閉め、靴を脱いでひたひたと歩を進める。後ろめたい思いが歩き方に表れているのか、それとも閑散とした空気を潰すわけにはいかないと無意識に感じているのか、ずかずかと押し入ることはせず、あくまで静かに入っていった。右手に抱えた花束が壁に触れて小さく音を立てる。
長くもない廊下を終点まで行くと、正面の引き戸に手をかけ、ゆっくりとスライドさせた。
「―――――」
思わず声にならない感嘆の声があがる。
そこは柔らかい空間だった。落ち始めた陽の光が広めの部屋全体を琥珀色に照らし、優しい風が軽いカーテンを微かに揺らす。無造作に置かれた雑誌が、ページを途中にして開かれたまま床に転がり、テーブルの上には、飲みかけのカップと綺麗なままの灰皿が置かれていた。壁際には、スタンドに立て掛けられたベースとフォークギターが一本ずつ。散らかった様子は全くなく、想像に難いが掃除も欠かさずにやっているのか、居心地の良さげな程度に片付けられており、右隣にはキッチンも見える。
視線を彷徨わせ、ぴた、と一点で止められた瞬間、京の胸が鼓動を打った。
大きな窓のすぐ下にあるベッド――淡い色のシーツに身を委ねた庵が、静かに寝息を立てていた。
うっわ……。
京は呆然として立ち尽くした。
朱い髪が微風に揺れ、さらさらと流れる。伏せられた睫毛は長く、微かに開かれた唇から薄い吐息が規則正しく漏れていた。
邪気のない顔をして眠っている。こんな無防備な庵は見たことがない。
京はゆっくりとベッドの傍へ寄り、膝をついて庵の寝顔を覗き込んだ。
「……こんな表情もするんだな……こいつ」
素顔の庵。完全に気を許して無邪気な寝顔を晒していた。ここが唯一、彼の気の抜ける場所なのかもしれない。あまり飾りっ気のない、だが優し気なこの部屋へのさり気ない手の入れように、それは表れていた。
「八神……」
愛し気に名を呟いて髪を梳く。京は小さく笑って目を細めた。
「子供みてぇ」
眩しそうに、だがどこか懐かし気に庵を見つめる。
普段もこんなだったらいいんだけどな。そういうわけにもいかないか。
強がらなければならない理由を知っている。特に自分――草薙京という人物には、弱みなど見せること事体がひどい屈辱になることも。
「でも……俺はお前に苦しんで欲しくないんだぜ」
自分の存在そのものが苦しみに繋がると。
……知っているけれど。
「どうにかしてやりたい、って俺が思うのは悪いことなのか?」
普段の、憎まれ口を叩くかわざとおちゃらけて話す京の声とは違い、あくまで優しく囁かれる言葉。そんな京の本心を、庵が聞くこともそう滅多にない。
庵と同様、やはり京も素直になれないでいた。
性格上、仕方のないことだった。が、どうして互いにここまで屈折してしまったのか。環境によるもの――だけではなかった気もする。
腕に抱えていた揺らめく白い花々を枕元に寄せる。どんな色より優しさを帯びた純白が、朱い髪に掛かり、一層鮮やかに引き立たせる。
「……やっぱ綺麗だよな」
ん、似合う似合う、と満足気に頷いて見つめる。思った通り、白を選んだのは正解だったと納得する。見慣れない寝顔に早鐘を打つ心臓さえ、今の京は心地よく感じていた。
「……好きだよ……いおり」
小さい頃から――多分、今までずっと心の奥底にしまっていた想い。
幼い彼は触れると壊れそうで、でも引っ張りまわしたくて色んなところに連れていった。引き込まれていきそうな、屈託のない笑顔を見るのが好きだった。
過去に思いを馳せ、しばらく寝顔を眺めて憂愁に浸る。ほんっとこいつ肌キレイだよなぁ、なんて呟いて色白の頬にそっと手を触れたそのとき。
「ん……」
小さく呻いて庵が身じろいだ。
やべっ……!
京は慌てて立ち上がり、玄関側のドアへと身を急がせた。引き戸をできるだけ音を立てないようにすばやく閉め、庵から見えないよう壁にぴたっと背をあわせる。ドキンドキンと身体が脈打つのがいやにわかった。なんでこんなに緊張してるのか、自分でもわからないほど。
そのままの姿勢で、しばらくじっと庵の反応を待つ。
流れる静寂。
「…………」
薄く瞼を開いた庵は、やや寝惚けてはっきりしない意識の中、重い瞼に逆らえずにもう一度目を伏せた。
ああ、いつの間にか眠ってたのか。
そうひとりごちて目を擦る。――と、かさりと手に何かが触れた。開ききっていない瞳が、それが何かと確認するために開かれる。
刹那、庵は小さく息を飲んだ。
目覚めた途端、眼前いっぱいに飛び込んできたのは白だった。なかなか定まらない焦点を合わせると、それが花だとようやく気付く。幾つもの一重花の中心から小さな黄色の花粉が顔を覗かせていた。清楚な白い花びらが幾重にも重なって、細く分かれた緑葉がそれを引き立たせる。
自分はまだ夢を見ているのだろうか。
一瞬、純白の花畑にいるような錯覚に捕らわれる。庵は上半身を起こし、枕元を埋め尽くす大きな花束をじっと見つめた。
透明なセロファンと半透明の淡い色の包装紙に包まれ、細く長いリボンが丁寧に弧を描いてそれらを纏めている。微かに漂うほのかな香り。こんな大きな花束なんて見たことがなかった。
一体誰がこんなものを……? 部屋を見渡してみても人の気配はない。
ドアの向こうでは、京が一歩も動けずにその場で息をひそめていた。期待と不安に胸を高鳴らせながら、ドア越しに庵の存在を大きく感じる。
窓から入ってくる優しいそよ風に、白い花びらがさわさわと揺れる。何よりも優しい色。
庵の空虚な心を、何かがさあっと撫でていった。
ぽつりと無意識にその名を呟く。
「…京……?」
あ―――。
ドアの向こうで京は唇をぎゅっと噛み締めた。
聞こえるか聞こえないかという微妙な声だったが、京の耳にはしっかりと届いた。一瞬瞳を見張り、瞬間、泣きたくなって――だが何とも言えない嬉しさが込み上げ、京は目を瞑ってコツンと壁に頭を預けた。
ん……ちゃんと届いてるよな。
俺の気持ちも、想いも。
唇の両端を微かに上げて、京は気付かれないようにそっと玄関から外に出た。アパートの階段を降りて後ろを振り向き、夕焼けに目を細め、ぅ〜んっ、と伸びをする。
「やっぱ買ってよかったな」
寝顔も見れたし。……それに……。
小さく笑って京は夕焼けに背を向けた。
風に揺れる白い花々は、遠い記憶を思い起こさせる。
『はい、これ!』
しっかりと守るように両手で包まれた小さな贈り物。
よほど際どい場所に咲いていたのか、身体中傷だらけで、だが満足気ににこっと笑って差し出された一輪の白い花。
『綺麗だろ? いおりに見せたかったんだ』
幼い頃の忘れかけていた断片。真っ白な花束がそれを思い出させてくれた。
「……あの馬鹿…」
小さく呟いて微笑み、瞳を閉じてそっと花に顔をうずめる。
窓から吹き込む柔らかい風が流れる中、自分を大きく包み込むそれは、今までかいだどんな花よりも優しい香りがした。
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☆どうやら続き物らしいです!これから二人がどうなるのか非常に楽しみですねー!
私はこういう微妙な関係のメンタルな話が大好きです☆