繁華街から少しばかり奥へ踏み入ると、まるで陽に陰ったように生活感が消え失せる。面白いように喧騒の止んだ路地を脳裏から消えぬ姿を探し、さ迷った。
“あいつ”を探すにはこんな場所がいい。
人の造った物でありながら、人の匂いの薄い場所。
群れるのを嫌がる奴だから。
鮮烈な匂いに、路上をさ迷わせていた視線を上げる。その視線を予想したかのように散らばるごみを辿ると、転がるごみ箱、その先に、八神…庵。
間違えようのない後ろ姿に目を見開いた。
以前は鬱陶しささえ感じていた筈の彼ではあるが、今こうして見付けることが出来た事に安堵する。
オロチの血は彼を狂わせていた。
行方を晦ませた後、自分の知らない場所で息絶えてしまったらと思っていた。
何事もなさそうな姿を反芻し、覚えた違和感に再度視線を下げた。
背を向けたままの彼が手にしているのは痛々しい傷を晒した同じ学校の生徒。
驚きに音をたてて息を飲む。その音に反応したのか、彼はやけに緩慢に振り返った。
生気の感じられない表情に寒気を覚える。
血の通わないような色をした唇から対照的に生々しい血がつうと伝った。
「キョオオオオオッ」
見開かれた目と目が合った途端、庵は喉の奥から絞り出されたような声を発すると、掴んでいた学生を壁へと叩き付けた。
そして気付く。
「…そいつは俺じゃない」
鈍い音をたてて潰れた肉片を尚も引き裂く。
京へは目もくれず、泣き叫ぶような声を上げて。
「俺を探していたんだろ…?」
蒼い炎がズタズタになったそれを包んだ。
「俺はここだ!」
叫び、肩を掴んだ手を跳ね除けられた。
その表情を染めていたのは紛れもない恐怖。
初めての、拒絶。
『足』
ゆっくりと片足を縛めた。
作業が終わり、気を失っている庵を見下ろす。
「ごめんな、こうしないとまたどこかへ行っちまうし、仕方ないだろ」
力の抜けた腕を取り、頬を寄せた。
…冷たい。
横たわる庵は気味が悪い程痩せ細り、服はそこかしこが破れ、汚れていた。そして、無数の傷、痣。それは全て、京がつけたもの。
消毒液を含ませた脱脂綿をそっと傷口に這わせた。低いうめきが洩れるその顔を悄然と眺める。
「もう大丈夫だからな、八神」
消毒液に濡れ光る傷痕に唇を押し当てた。舌先に染み入るアルコールの奇妙な味に目を細める。
「ここなら…誰もお前を追い詰めたりしない」
つ、と舌先を傷口に滑らせた。
拭うように、癒すように。
ぴくりとその体が身じろいだ。構わず夢中で舌を這わせていく。
「ハァッ…」
かすかに甘い溜息が漏れた。巻きかけの包帯がゆっくりと解けていく。
「俺が…守ってやるよ…」
『腕』
思ったよりも暴走した庵は大人しかった。しかし正気に返る兆しは少しも見えない。ただ、大型犬用の檻の中で、虚空を見つめている。
ギリと歯を噛締める音が聞こえた。
「う…うっ…」
歯をガチガチと噛み合わせ、庵は体を掻き毟った。耐え兼ねた皮膚が裂け、血がじわりと滲む。
京は必死でその手を押さえた。しかし庵は、その行為を咎めるように眉を寄せ、胸苦しさに喘ぐように息を吐く。
「痛いだろ…?」
押さえている京の腕にも爪が食い込んだ。しかし少しも構わず何とか押さえ込む。
暫くして力尽きたのか、すぅとその力が抜けた。
庵が小さく何かを呟いたのを聞き、口元に耳を寄せる。
「…きょ…う…」
無意識ではあったが名を呼ばれ、京は悲壮に顔を歪めた。
「大丈夫だ…俺はずっと傍にいる」
血に濡れた指先に口付け、その体を抱き寄せる。
彼の傷は癒えることを知らない。同じ部分をまたその爪で掻き毟るからである。
だから。
「俺が、守ってやるから」
その両腕を後ろ手に戒めた。
『口』
手も足も戒められ、庵は呆然と空を見つめていた。
「…ッ!」
鮮やかな血液がその唇から次々と溢れ、顎を伝い落ちていく。
「舌を!?」
慌てて指で口を抉じ開ける。
偶然か、それとも…無意識の抵抗か?
考えを振り払うように首を振る。今はそれよりも庵の手当てが必要だ。
その身がどれだけ抵抗していたとしても、その瞳が…救いを求めているように見えるのだ。
例えそれが、自分の幻想から来たものだとしても、庵を放っておくことは出来ない。
血に塗れた口中を舌で拭う。
「う…ふっ…」
念入りに探っていると、くぐもった喘ぎが漏れた。それに触発され、深く貪る。
幾度となく味わった庵の血液に狂わされたのだろうか…?
また舌を噛んでは危険なので、ベルトを噛ませることにした。そっと革のベルトを噛ませ、その上からまた飽くことなく口付ける。
彼を元に戻す糸口は依然として見つからない。
死んだように穏やかな寝顔を眺め、以前から幾度となく可能性として考えていたことを今一度思う。
「やっぱ、モトを絶つしかねぇな…」
今の自分にはそれぐらいしか出来ないと、誰にともなく呟いた。
『心』
神楽の声がやけに遠くで聞こえた。
不思議と痛みは少なく、ただ苦しかった。
「草薙…っ、やはり無茶だった、まだ闘うべきではなかったわ…。八神が…神器が揃っていなかったもの」
駆け寄って来たちづるが、嗚咽に喉を詰まらせながら止めど無く涙を溢れさせる。
何言ってんだ、勝ったじゃないか。
俺はオロチを倒した。
やっと、自由だ。
「あいつ、八神が待って…」
口の辺りが水っぽく、詰まったようで喋りづらい。
「もういいわ!喋らないで…」
何かが喉から溢れ出すのを感じた。
それからの言葉は妙な水音で、何故かを問おうとしたが、意識は闇に飲まれていた。
静かな闇の中で庵は目を覚ました。
意識は冴え冴えとしている。暴走していたときの記憶も、確かに彼の中に存在していた。
そして、彼の心は限りなく穏やかだった。
目の前を遮る格子を覗くと、隙間から手を伸ばせば届く距離で、鍵が冷たい光を放っている。
手を伸ばし、それを手に取る。思った通り、この檻を閉ざすもの。
庵は暫し黙って鍵を見つめていた。そして、手を振り上げると格子の隙間から窓へと投げた。
瞳を閉ざし、鍵が落ちるのを待つ。暫くしてそれはキン、と音を立てた。
…この鍵を開ける者はただ一人。
「京…」
庵は硬い金属の格子に頬を寄せ、その心を束縛する唯一の名を愛しげに呟いた。