静かな夜だった。
夜気に誘われ、その日はマンションから少しばかり離れた、アルコール類を扱っているコンビニエンスストアまで車を出した。
無口な店員に迎えられ自動ドアを潜ると、適当に腹の足しになりそうな物をかごへと放り、足早に店を後にする。
車の前まで来てやっと自分がキーをつけたままであった事に気づき、ポケットを探っていた手で扉を引いた。弾みで付けっぱなしになっていた鍵が涼しげに音を立て、よく盗られなかったものだと苦笑する。
カーナビゲーションの表示を手早く切り替え、久し振りにどこかうろついてみようかと思案した。
「そのまま、まっすぐ行って高速上がれよ」
声と同時に首筋へと当てられた冷たい感触。
動きを封じられた為、仕方なくバックミラー越しに相手を確認する。…確認せずとも誰かは承知の上であったが。
写る姿を凝視したまま、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
「久し振りじゃねえか八神。今からドライブでもどうだ?」
喉元を離れた刃物に小さく息を吐く。
後部座席から身を乗り出し、笑えない冗談を口走るのは紛れもなく草薙京。
「…気分じゃない」
淡白な反応を返してはみるが、かすかな違和感は確実に京から滲み出し、車内にゆっくりと満ちていく。
無理矢理に助手席へと乗り込んできた彼は、シートの間に沈んでいたMDラックを物色し、見つけ出したディスクのラベルを確かめた。
いつもの能天気な態度とは明らかに違う、どこか重い色を含んだ瞳が細められる。
何かがおかしい。
どこか適当な店でも見つけて京を降ろしてしまおうと、小さな画面の蛍光色に光る文字の羅列を目で追った。
「降りないぜ、まっすぐ行けよ」
手に取った物を挿入口へと押し込みながら、嫌なほどに落ち着き払った声で考えを読まれ、はじめて京を真正面から見る。
「何を考えている」
やがてスピーカーから流れ出した恐いくらいに静かなメロディー。
透明な声で歌われた、残酷な詩。
「へぇ…八神こういうの聴くんだ」
「答えろ」
遮るような庵の言葉に京はケラケラと笑い、ラベルへと注がれていた視線が上げられた。
「八神が、いつまで経っても俺をわかってくれないから、まず俺が理解してやろうと思ってさ。それに、わかってないのはお前だけじゃないから…」
京の張り付いたような笑みに背筋が凍りつく。
「逃げるんだ、二人で…何もかもから」
代わり映えのない景色の中、目的地も無く車は走る。
何度流れたかさえ分からなくなり始めた歌を口ずさみ、これは駆け落ちだ、と京は言った。
「オロチなんてもう沢山だ、神楽のヤツも煩いし」
「一体どこへ逃げるつもりだ、馬鹿馬鹿しい」
ハンドルに身を預けるように脱力する庵に、京は少しだけ穏やかな表情を見せた。
「…京?」
不思議なものを見るように顔を上げた庵に、彼は前方を見るように促す。
ゆっくりと流れてくる標識には三キロ先のドライブウェイの表示。
「喉乾いたな、ちょっと休もうぜ」
元に戻ってしまった京の横顔を視界の端に置いたまま、追越車線へとハンドルを切る。どうしたらこの状況から離脱出来るのか、これといって良い案も出せないままに車はパーキングへと滑り込んだ。
「八神も降りろよ」
強制力のある言葉はいつものことだが、当然それとはワケが違う。
掴まれた肩に食い込む指が、痛い。
自販機コーナーを通りすぎて行こうとする庵を京が軽く咎めるように引き止めた。
「…言わせるな」
向かう先を確認し、ごめんと呟く彼に溜息をつく。
沢山の鏡に囲まれた手洗いを通り、個室のドアへとかけようとしていた腕が捕らえられる。
「ついていってやるよ…」
腕の中へと引き込まれ、そのまま個室の中へと押し込められた。
背を包む熱の生々しさに抜け出そうと体を捻るが、片腕で体を固定され、空いた腕が服の上から胸元を探り始める。
「貴様っ…、悪ふざけにも限度がある!」
京は答えない。項に熱い息が落ち、肩を竦めた際にそらされた首筋を唇が這う。
「やめろ…やめろっ」
必死に暴れ叫ぶと、ピタリと京の愛撫が止んだ。驚いて抵抗することも忘れてしまった庵の体をあっさりと開放する。
振り返った京の表情は苦しげに歪んでいた。
「冗談、だよ」
呟きと同時にゆっくりと扉が閉じられ、足音が遠ざかっていく。
ふいに緊張がとけ、壁へと体重を預け体を抱いた。
どうして大人しく戻って来てしまったのだろうか。
自分よりも先に帰っていた車中の京を眺め、そんなことを思ってしまう。
一方京はというと、虚ろに宙を見つめ、機械的にジュースを口へと運んでいた。が、庵の姿を認めるやいなや、しつこいほどに瞬きした。
ウインドウが下がり、隙間から京が顔を出す。
「電話とか、しなかったのか?」
顔いっぱいに書かれた「喜」の文字に、何だか全てが馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「したら困るのだろう?」
車に乗り込み、エンジンをかける。
頭の中で繰り返される京の行動、考えないでいようとしてもその意味を考えてしまう。
「で、どこへいくつもりだ?」
「どこか、遠くに」
高速を走る最中、少しづつ車が混み合いだした。
車の連なる先を見つめていた京は、眠そうに目を擦るとシートを倒し目を伏せる。
「ちょっと眠るからな。渋滞抜けたら教えてくれよ」
言うなり寝息を立て始めた横顔を少し恨めしそうに見つめ、のろのろと牛歩を続ける車の群れを見渡した。
「…!」
検問だ。
この近くで何かがあったらしく、念入りにトランクを調べている。
何故か、サイドシートを振り返った。
京は穏やかに眠り続けている。
今なら、逃げられる。
少し、言うだけで。
ハンドルを握る手がめずらしく汗ばんでいくのが分かった。
もうすぐ、順番がまわって来る。
「ん〜…」
ダルそうに身を起こした京は、暗く沈んだ道を車が順調に走っている事に気付き、不満げな眼差しを庵に向けた。
「渋滞抜けたら起こせって言ってただろ?」
怒る京に、庵はただ気のない返事を返した。
山道を下り、おかしなほどの曲がりくねった道を行く。
ただドライブでもするようにどこか、遠くへ。
眼下には無限に続いて行きそうな木々が並んでいる。
「これは駆け落ちなんだぜ?八神」
「一体どこへ逃げるつもりだ、車で行くには限界がある」
以前のような得体の知れない恐怖はもう感じない。そしてドライブインでのようなこともない。
束の間の…平和?
京が尿意を催したらしく、必死に車を止めろと暴れだした。
「まだ山中だ、我慢しろ」
「だめだって、もう我慢できねぇ!」
木々の間にかけていく後姿を見送り、何度ついたか分からない溜息をつく。
こんな子供じみた駆け落ちがいつまでもつのだろうか。その上自分の意思は無視されている…。だが逃げるチャンスはいくらでもあった。ドライブインでも、簡単に逃げられた筈だ。…京がわざと隙を作っていた時もあった。
…試しているのだろうか。それとも絶対の確信があるのだろうか。
ハンドルに伏したまま、取り止めのないことを考える。この頃の癖だ。
不意に窓をノックされ振り返る。警察官の制服に身を包んだ男が不審げな眼差しをむけていた。
見ればいつのまにか背後にパトカーが止められている。
「何かあったのですか?」
質問に思わず身を強張らせる。
この田舎のことだ、山中に死体でも埋めに来たとでも思われているのかもしれない。
「連れが…その、用を足しに」
返事の内容に思わず不明瞭な発音になってしまい、警官が片眉を上げる。
「ちょっといいかね」
外へ出ろ、と同じ意味を持つその言葉に大人しく従う。
彼は庵の全身をジロジロと見まわした。
「帰省かね?それにしてはやけに軽装に見えるが…」
こういう相手は苦手だった。やけに遅い京を気にし、質問に答えながら後ろを振り返る。
「ちゃんと話を聴かないか」
それが彼には気に食わないようで、庵の肩を掴み、無理矢理に自分の方へと向けようとした。
「触るな!」
思わず払いのけてしまい、その拍子にかすかな炎を呼んでしまった。突如目の前に現れた炎に、警官は血相を変えた。
「ば、化け物っ…」
叫び、逃げ出した先で赤い炎が揺らめいた。
「…きょう」
それは一気に燃え上がり、警官の全身を包み込む。その向こう側に立ち、京は再び狂気を孕んだ瞳で笑った。
「俺たち、共犯者だな」
庵の手を取り、自分の頬へと当て目を閉じる。
「これで、お前が人を殺した時の気持ちが分かった」
後は何を分かれば良い?
断末魔が鼓膜を叩き、赤い炎は消えず肉を焼く。
「なあ八神、結構お前の気持ち、理解出来てきただろ?」
頬に触れる京の手は熱い。
胸に引き寄せられても、その瞳は赤い炎に釘付けられたまま、寄せられた唇を拒む事もなく受ける。
赤い炎が揺れていた。
肉の焦げる匂いがした。
倒されたシートの上、濡れた吐息を漏らしながら庵は体をくねらせた。
快楽に浸っているように見えるが、何かを諦めきったような表情を時折見せる。
それに気付いた京が視線を上げた。
視線を合わせたまま京の指が庵自身へと絡む。滑りを借りて上下に動かされるたび、抑え切れない喘ぎがこぼれていく。
「やっああ…あっ」
ゆっくりと動き出した京に息を詰まらせ、痛みと快楽に咽た。
頭の中まで掻き乱されるようで意識が混濁して行く。
狂ったように名を呼ぶ京の声が、己の中で唯一確かなものに思え、返事のように首に回した腕を引き寄せた。
赤い炎が揺れていた。
木々が炎を上げていた。
「…警官一名、山火事に巻き込まれ死亡」
呟き、エンジンをふかす。
その音に目を覚ましたのか、助手席で眠っていた庵が瞼を上げた。
瞳はただ遠く燃え盛る山を映している。
「燃えている…」
「ああ…」
次第離れていく炎を目で追い、車はスピードを上げる。
「逃げる理由が増えちまったかもな。まあいいさ、どこまでだって逃げてやる」
「一体どこへ逃げるつもりだ…逃げ場所なんてどこにもない」
言って庵はかすかに笑んだ。それに応えるように京もまた笑う。
「あるだろきっと…神様だって追いつけない場所が」
終