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 それは誰もが目を疑うような月の夜の出来事だった。
 俺は数分前に電話口で聞いた部屋番号を、忘れないように何度も呟き、踵の当りが良いホテルの廊下を歩いていた。
 正直、気が重い。
 向かう先は…あの八神の部屋。
 突然の呼び出しは、いつものように人気のない野外ではなく屋内…つまり今回は決闘の類ではないらしい。…だからこそ、得も知れない不安がある。
 電話で聞いた声色からは何も予測できそうにない。
 『817号室にいる、来い』
 頭の中で反響する低い声音。聞くだけであの狂気的な眼差しが浮かんだ。
 並ぶドアを追っていた目が動きを止める。
 来てしまった。
 多少歩幅を縮めていたつもりだったが、歩いている以上いずれ目的地へ行きついてしまう。
 「入れ」
 瞬間、ドア越しに待ち構えたような声がする。
 まだドアノブに触れてもいない手は、迷いながらも半開きのままであったドアを引いた。
 飛び込んだのは赤い月。
 思わず立ち尽くした俺に八神が笑う。
 「恐ろしいのか?たかが空気の歪みが生んだ錯覚だ」
 声の場所へと踏み出せば、ベッドに腰を掛け、煙草を吹かす八神がいた。
 「随分と遅いな、努力嫌いが訓練がてらに非常階段から来たのかと思ったぞ…」
 喉の奥で殺された笑いは、明らかに俺の心中を察している。
 「で?一体何の用なんだよ」
 八神は唇だけを歪めて笑うと、組んでいた足を組替えた。
 「貴様と話がしたい、それでは駄目か…?」
 俺の逸らしがちな視線を捕えるかのように蟲惑的な笑みを崩さず、いつもとは違うやけに甘さを意識した声音で囁く。そして俺の答えを待つようにまたゆっくりと煙草を吹かした。
 「お前はゆっくり話すなんてタチじゃねぇだろ?こっちの話なんて聞いた試しがねぇだろが!」
 「だから…今日は話がしたいと言っているだろう?」
 こちらの好戦的な態度をものともせず、同じ調子で続ける。
 「貴様がいつまでたっても下らん理性を持っているから、こちらは迷惑している」
 言っている意味がわからず、俺は黙って次の言葉を待った。そんな様子でさえも楽しんでいるように八神は笑みを強くする。
 「いつまでも人の皮を被っているようでは決着も侭ならんと言っているのだ」
 「人の皮!?それじゃまるで俺がバケモノみたいじゃねぇか!!」
 突拍子もない内容に思わず大きな声を上げてしまう。
 「違うか?少なくとも炎を扱える時点で常人ではないと思うが?」
 「…まぁそうだけどよ…」
 納得いかないと顔で訴える俺を子供扱いするような八神の態度に、内心腹がたってくる。
 「そしてそんな貴様を畏れ、忌む者も少なくはない筈だ」
 確かに八神の言っている事に心当たりはある。自分たちに無い力を疎ましがられ、幼い頃はいじめのタネになったものだ…当然俺はやり返したが。
 「格闘大会などという下らん遊びはもう飽きた…そういう訳だ。己の汚物さえも見ずに育ったような顔をした奴等と肩を並べて楽しいか、草薙」
 八神の手が緩慢な動きで俺の方へと伸びる。それは俺の片腕を捕え、ゆっくりと引かれていく。引力のままに八神へと近づいていき、残された八神の片腕が首へと回された。
 「…それで満足か?」
 耳元で囁かれると背筋が震えた。熱くなっていく体とは裏腹に、悪夢を見ているような気分に襲われる。
 腕を引いていた手も合わせ、首に回った手が引き寄せられた。目を伏せた八神の顔が近付き、柔らかな唇が触れる。
 「俺が望んでいるのは貴様だけだ…他はいらん」
 俺が言葉を返すのを待たず、再び八神は口付けた。俺は何故かそれを拒むどころか、八神の体をベッドへと押し付け、唇を貪っていた…。
 「そうだ京、所詮貴様も同じ…」


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