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 吐息が染まり、改めて季節を感じた。落ちていく陽に急かされるように家路を急ぐ。ブーツの中の指先は既に凍えて痛みを感じるが、駅から家までの距離はまだ長かった。
 肩からずり落ちたケースを直し、また白い息を吐く。何故こんなに憂鬱なのか自分でも理解出来ないまま空を見上げる。
 暗い色を優しく滲ませる空は胸がすくように美しい。
 こんな気持ちで見上げたことがあっただろうか?それこそ空を眺める余裕があっただろうか…?
 夜空に意識を注ぐ耳に、バイクを引く音が届いた。振り返れば見慣れた笑顔が馬鹿みたいに手を振っている。
 「早いな、もう帰りかよ?」
 バイクを車道側に回し横に並んだ彼は、白い吐息を弾ませ砕けた笑顔を向けた。
 急いで後を追って来たのであろう姿に、知らず笑みが浮かぶ。
 「お前そんなカッコで良く寒くねーな!」 
 言う彼は厚手のジャケットに手袋にマフラーと完全装備だ。比べて自分は服の上から羽織ったコートが唯一の防寒手段である。
 いかにも暖かそうなのが悔しくて、別に平気だと返すと、冷血動物そうだもんなと笑いながら肩を叩かれた。
 「そういえば、格闘大会とやらに出るそうだな」
 バイクを押していた手がふと止まる。苦笑いを浮かべながら頭を掻いた。
 「やっぱバレてたか…お前も出れば良いのに」
 彼が純粋に格闘を楽しんでいるのは知っている。しかし自分は理由のない殴り合いが好きではなかった。相手も勿論それを知っている、こうして今お互いの進む道が違うのが良い証明だ。
 「あ、ちょっと待ってくれよ」
 暗くなった道を自販機の灯りが照らす中、バイクを電柱に預けた彼は、自販機に硬貨を投入した。
 「コーヒーで良いか?」
 返事を返す前に音を立てて落ちた缶を投げて寄越す。白く冷えていた掌に熱が沁みていった。自分はコーンスープを拾い上げ、歩道の淵に腰を掛ける。同じように腰を掛けプルタブを引くと、吐く息と混じるように湯気が上がった。
 ふと嬉しそうに缶を振る彼の横顔を見る。…こんな風に彼を見たことがあっただろうか?
 「一緒に出るのは諦めるからさ、頑張れって言ってくれよ」
 言葉の内容に思わずコーヒーを噴き出しそうになるが、彼は相変わらずの無邪気な笑顔で押した。
 暫く視線を漂わせ、下方に下げる。
 「…頑張れ」
 慣れない台詞に耳まで赤くなった姿に声を立てて笑う。

 なんて…自分に不似合いな穏やかさ…。

 「庵…?」
 急に沈んでしまった自分に伺うような声がかかる。…彼が自分のことを名前で呼んだことは、ただの一度もなかった…。
 顔を上げれば、すぐ傍に京の顔がある。
 「…随分な悪夢だ…」
 声が震えているのが自分でもわかった。わかっているのに、感情が流れ出すのを抑えられない。
 「貴様と俺に、こんな甘い関係など有得る筈もないというのに…」
 因縁も確執も何もなく、ただの人と人であるなんて。
 指先で確かめるように頬に触れた。精巧な幻に触れる。
 「…八神」
 呟く声は、聞き慣れた響き。
 「そうだ…」
 触れていた手に京の手が重なる。その手は、温かい。
 「最後に我侭をきいてくれるか?」
 応えが返る前に唇を重ねた。優しく触れるだけに止まり、黒い瞳を見つめる。京も黙ってそれを受け入れた。
 「夢なのだから、これぐらい良いだろう…?」
 もう一度、口付ける。
 やがて、冷えた体を包むように腕が回り、目を伏せた京の顔が近付いた。

 暖かな…暖かな、幻。


 目を覚ませば、何もない病室が広がっていた。
 身を起こす気力もなく、腕で顔を覆った。


 「良かった…!」
 母親が顔をくしゃくしゃにして抱き付いてきた。状況が飲み込めず、辺りを見回せば病室であるということがわかる。
 「ずっと眠ったままだったのよ…」
 涙に濡れたまま笑顔を作る彼女を黙って見つめる。
 「…夢…!?」
 驚いたように呟いた彼を不思議そうに見る。
 「どうしたの?嫌な夢でも見たの?」
 彼は力なく首を振り、苦笑いを浮かべた。
 「どうしてだろうな…悪夢ってわけじゃない筈なのに…」

 どうしてこんなに苦しいのだろう…?


  
END


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