MinMin's Diary
日本の若い女性に、「どういう時に恥ずかしいと思う」と質問したところ、「友達と一緒にいる時、他の子の携帯が何度も鳴るのに自分の携帯が一度も鳴らない時」という答えが1位を占めたという。
もちろん、統計を取った場所にもよるのだろうけれど、これを聞いていて「自意識過剰」で「他人によって自分の価値を計る」という人達の姿が薄らぼんやりと浮かんできた。
ずっと前にもバスの中で大声で騒いでいる女子高生達に出会った。
誰も彼らの会話を聞いたりしていないのに、懸命に大声でしゃべっている。
それはあたかも自分達の存在を必死にアピールしているようにすら聞こえた。
ブレーキがかけられた時、後方の座席の方から彼女達の悲鳴が聞こえた。
何が起こったのかと数人の人達が視線を後方に投げかけた。
すると、少女達は嬉々とした声をあげ、「やっだ〜!だっせ〜!私達、超目立ちってかんじぃ?」と言っている。
そこには恥じらいといった感情よりも、むしろ、やっと車内の注目を体感できた喜びが感じられた。
自意識過剰でいながら、他人と同じで安心したいという脅迫概念にとりつかれ、そうでいながら目立ちたいという矛盾する感情に支配されている。
他人に目を留めてもらえることで、自分の存在意義を計るといったような曖昧かつ漠然とした自己認識。
何もこれは女子高生に限ったことではない。
自分の夫や恋人の会社名を嬉々としてあげる女性にしても、その行為は件の女子高生達と何ら変わらない。
「目立ちたがり」と思われたらバッシングされる。
だから表立って目立つ行動は取らない。
しかし、目立ちたいからありとあらゆる回りくどい手段を用いて「自分は他とは違う」ということをさりげなくアピールしたい。
そして、目立つことによって「他者に認識された」という安心感を覚え、「自分はこの世に存在している」という認識を反芻する。
最近、私の周囲でマークス寿子女史がすこぶる不評である。
英国人男性のサー・マークスと離婚した後も英国の日本人社会で「レディ・マークス」を名乗り、自らを英国貴族の夫人だったと位置付けている。
しかし、その存在は常に「日本人社会」に属している。
日本人が羨むような(ここがポイント)「英国社会におけるステータス」を肩書きとして、日本人の視線を常に意識した行動を取ることで、自分の存在意義を確かめていると批判する友人も多い。
英国人と結婚した日本女性であるカズコ・ホーキやオノ・ヨーコと違い、その発言は常にパンピー日本人向けのものであり、非常にドメスティックな域を越えていないものだ。
確かに国を離れれば、自分の国を憂える気持も一入だろう。
それは私もよく解る。
しかし、そこに「自分の住む社会である英国」が上だという意識が微かに嗅ぎ取れる時、「虎の威を借る狐」にも似た姿を感じ取ってしまうという人がいた。
よく、国際結婚をフェアリーテイルのように考えている日本女性に出会う。
英国貴族と結婚したレディ・マークス寿子さんは、まさにフェアリーテイルを成功させた女性であるかのようにも見える。
離婚後も英国に住み、英国社会を満喫し、ハイソなお話をなさる彼女は英国に憧れる日本女性からしたら、お手本にしたい存在だろう。
しかし、彼女の住む英国社会において、彼女はどのように認識されるのであろうか。
フェアリーテイルの魔女がかけてくれた魔法が解けた時、そこには何が残るのだろう。
外国人男性と結婚したある日本女性がつぶやいた言葉が忘れられない。
「外国人男性と結婚することで、違う自分になりたいという他力本願の日本女性が多いんです。違う自分になるには自分自身の力しかないのに、フェアリーテイルよろしく、王子様が登場して違う自分になれてめでたしめでたしって。私、そういう人と同じに見られるの、嫌です」
彼女の気持は解る。
実際にそういう国際結婚願望の日本女性に出会っているだけに、そのうんざりとした気持は理解できる。
彼女がどれだけ相手の男性を愛していても、それは「きゃ〜、国際結婚?すてき」という嬌声のうちにかき消されてしまうかもしれないからだ。
でも、国際結婚はフェアリーテイルなんかじゃない。
言うなればジャングルブック...サバイバルストーリーだ。
右も左も解らない密林に放り込まれ、その中でいかに生き抜くか。
どれだけ自分の生存本能が強いのか。
それを確かめるサバイバルゲームにも似ている。
自分の体の中にある羅針盤だけを頼りに歩くこともあるだろう。
そんな時に、魔女の魔法もカボチャもガラスの靴も毒リンゴも役には立たない。
ガラスの靴なんて履いて歩いたら足が痛くなるだけだ。
最初は無我夢中で、時には泣きたくなったり、気が狂いそうになることもあるだろう。
でも、そのうちに慣れてくれば、ジャングルの景色や彩りを楽しむだけの余裕も生まれてくるだろう。
そうして、密林を抜けたところに自分自身が根をおろす土地を見つけるのだろう。
その時、自分の装いがどんなものであるかなんて、気にする人はいない。
他人が自分をどう見ているかなんてことを意識するのも忘れてしまう。
虚飾に満ちた言葉で飾り立てても、それがサバイバルゲームでは足枷にこそなれ、助けにはならないということを知っていく。
しかし、私はフェアリーテイルを語る人達は、その人達なりの理由があると思う。
彼女達は自分の身にまとわせている美しい言葉を支えにサバイバルをしているのだ。
美しいガラスの靴を履くことで、その中ではガラスの硬さで踵に豆を作り、血を流していても、そのガラスの靴を他人に見てもらうことで必死に自分を鼓舞し、支えていこうとしているのだろう。
他人の目によって判断されることが自己認識の唯一の方法となってしまった人達にとって、なりふり構わぬジャングルブックな国際結婚なんてのは死んでもしたくないことだろう。
美しい赤い靴を履いて踊り続けた少女が、どんなに疲れ、どんなに泣きたくても赤い靴を履き続ける限りは踊らなければならなかったように、彼女達はサバイバルストーリーをフェアリーテイルとして演じ続けるのだろう。
赤い靴の赤い色が実は血の色であることを必死で他人に隠しながら、彼女達は懸命に艶然と微笑み、他者と違う自分を強烈にアピールし続ける。
足から血を流し、疲労困憊で心身共にぼろぼろになっても、他人に見られているという思いだけが彼女達を支え、踊り続ける原動力となる。
それはそれで幸せなのだろう。
しかし、見ていて痛々しい。
魔法が解けることにビクビクし、魔法のからくりが他者によって暴かれることに脅え、もろい基盤の上に築かれたお城の中に暮す不安。
魔法が解けて「沢山の中の一人」に戻ってしまうことへの恐怖。
そんなものを抱えているのに、他人の賛美の声だけを頼りに強気な姿勢を貫き通す。
そうとしか生きられない哀しさを、レディ・マークスの路線から感じてしまうのだ。
そして、その痛々しさや哀しさに気づくことなく、「国際結婚は素敵」「国際結婚はお洒落」と囃し立てるメディアの無責任さに、日本の国はどうなってしまうのだろうという危惧を抱くようになった次第。
国際結婚は素敵なんだということを演じ続けている女性も、ある意味では自意識過剰でありながらも、一人だけ目立ってバッシングされるほどの勇気はなく、何か他者によって目立たせてもらい、それによって自己認識を計りたいという今の若い女子高生と何ら変わらないような気になってしまう。
どうしたら、日本人が自己認識を他者の目からでなく、自らの目で行えるようになるんだろうか。
レディ・マークスが「ふわふわした」と日本の若者を非難したけれど、そうおっしゃっている自分自身も非常に不安定な状態にあるのではないだろうかと思ってしまった。
一気に読み上げてしまいました。
「だからあなたも生きぬいて」(大平光代著・講談社)です。
年の頃も私とほとんど同じ。
くだらないきっかけで始まったいじめも同じ。
ただ、彼女の受けたいじめのひどさの度合いと、私の方が「いじめ」られ慣れていたという点が少し違うぐらい。
彼女の方が他人に対する猜疑心が少なかったぐらい。
8歳にして人間は多勢に流れるもんだとさめた目を持ってしまった私に比べ、彼女は純粋だったと思います。
それゆえに誰かを信じたいという一心だったと思うのです。
それだけに裏切られた辛さも半端じゃなかったでしょう。
彼女の心の中を渦巻く感情にシンクロしてくる自分の感情。
涙がだらだらと溢れてきました。
でも、それは傷つけられて出てくる涙ではないのです。
強さを生み出す涙です。
「いつか見返してやる」という言葉だけを胸に抱いて生きていた時に流した涙を思い出しました。
こんなヤツらに負けるか。
いつか見返してやる。
いつか絶対に見返してやる。
いったい何べん、この言葉を唱えたでしょう。
こんなヤツらにつぶされるような私じゃない。
絶対に見返してやる。
体制側について安穏として、多勢の中の一人として安全な場所に居座り、もがき苦しむ一人の人間を見て見ぬふりするようなあんた達。
調子のいい時だけ仲間面して、分が悪くなればさっさと裏切って寝返るあんた達。
あんた達が、何時の日か、私に向かってお愛想笑いするのを見てやる。
微笑み返しながら、なんて卑小な人間と心の中で唱えてやる。
...。
十代の頃に抱いていたそんな感情が一気に蘇りました。
今でこそ、そんなぎらぎらした思いを剥き出しにすることはありません。
でも、彼女の本を読んだら、そんな感情が蘇ってしまったのです。
けらけら笑いながらも心の奥底にぎらぎら光る抜き身の刀を持っていた、そんな十代の自分を思い出してしまいました。
同じ匂いが嗅ぎ取れるような友達にだけ懐き、でも自分の心の奥にある思いを注意深く隠していた高校時代。
ちゃらちゃらと適当にヤンキーぶりっこしたり、不良ぶりっこしている連中が馬鹿に見えてしょうがなかった時。
先生の目を盗んで、親の目をごまかして、適当に不良ごっこしているだけの甘ちゃんだって思っていました。
こういう連中が、面白半分にイジメをして、そこらにいる猫をかまうぐらいのつもりで相手の心臓を突き刺すような言葉を平然と放つのです。
「あなたがそんなに傷ついているとは思わなかったわ」
ひどい言葉を浴びせておきながら、後で平然とそう言い放つ優等生。
そう言われた女性は「私の神経は鋼鉄製かい?」と言っていました。
大平さんも本書の中で「いじめたことすら忘れているであろう」とそういう人達のことを言っています。
だけど、いじめられた方は一生忘れないのです。
心の奥底にまで到達する傷を受け、それをどう克服していくか。
克服しきれずに転落する人だっているのです。
多様性を認めない社会で、一度転落すると這い上がるのは容易なことではありません。
それを知っていた醒めた子供だった私は転落するのではなく上昇する道を常に目指していました。
「いつか見返してやる」
そのマイナスのエネルギーを原動力にして十代の私は生きていたのです。
だから、見返す相手を私は間違えないようにしています。
見返す相手は社会全体ではありません。
あの時、私の髪の毛に粘土をべったりとつけたようなヤツです。
可哀想だなと思いつつも、助けきれなかった人相手ではありません。
おそらく、大平さんはそんな気持すら通り過ぎ、いまや自分に何かした人間にうんぬんという気持はないでしょう。
でも、自分に何かした人と同じような人によって、自分と同じような道に行く可能性のある子供達へと視線を向けているのでしょう。
私はいつも「人には3回チャンスを与える」ということを言います。
人間は愚かですから過ちを犯します。
でも、それに気づいてやり直す可能性もあります。
なぜなら人間は卑劣にもなれるけれど崇高にもなれるからです。
自分がはたと目覚めた時に、チャンスを全く与えられないというシチュエーションは避けたいです。
あの時、「見返してやる」と思って思い描いていた多くの顔にしても、何年も経って出会えば、どこかしら変わっているかもしれません。
でも、やっぱり主犯格だった人間は許せないかもしれないな。
私は人間が出来ていないから。
そんなこんなを色々と考えさせられ、かつ、なんだか生きる元気を蘇らせてくれる本でした。
十代のあの頃の強さ、ひたむきさ、プライドなどなどを目の前にあらためて突きつけられたようです。
私も頑張らねばならぬなぁと深く考えてしまいました。
minmin@geocities.co.jp