MinMin's Diary
歴史というものについて、また色々と考えている。
歴史とは、色々な見方があり、色々な立場によってひとつの事象が全く違う風に評価されるのだ。
「これが歴史」という風に決定打を出せる人はいないだろう。
今も日本では様々な歴史に関する見解が飛び出していて、かなり揺れているような気がする。
しかし、考えることはいいことだ。
自国のことに向かい合おうというのは前向きな姿勢として見ることはできる。
しかし、自国の過去を洗い出すのに、他国を利用する手法はあまり誉められたものではない。
よく、台湾を日本の植民地政策の成功例のように言う人がいる。
それはどうなのだろうか。
在日台湾人が「日本の植民地支配は台湾にとっても利があった」と言うのを聞き、「そうだろう、そうだろう」とご満悦でうなずくのはどうだろうか。
「在日」は「日本で生きていく現実」がある。
そこで生きていくためにはローカライゼーションをする必要性にも迫られる。
また、どうしても「物分りのいい」「親日」のような物言いに聞こえる発言もある。
それは日本人のために言うのではなく、その社会で生きている自分達の生きる道を守るためでもある。
下手をすると「同胞」から不当な差別を受け、同胞が自分達の住む土地を否定的に見つづける限り、彼らには「どちら」にも生きる場所がなくなる。
自分達が肯定していくことで、双方をつなげねばならない、誤解を解かねばならないという必死さが感じられることがある。
そうでないと自分の生きている社会で生きづらい。
彼らの言っている言葉に嘘はなくても、それを利用しようとする側に問題がある。
確かに結果的には台湾の近代化の役に立ったかもしれない。
しかし、それはあくまでも結果論であり、他人の土地に踏み込み、自分達の利になることをしていたには他ならない。
台湾人側が「日本のおかげで近代化も進んだ」と言うのは、「台湾自らの歴史を肯定して見ていく」という姿勢からなされたものである。
だからといって、日本人が一緒になって「そうだ、だから日本の植民地支配にもいいところはあった」と開き直ってはいけない。
確かに当時の感覚では植民地支配は悪いことではない。
だから、当時の人を責めるのはお門違いだろう。
しかし、今の世の中の価値観から見たら、英国だろうがフランスだろうが、どこの国のものであっても植民地支配で誉められたものはどこにもない。
みんな自国の利益のためだけに動いただけだ。
かつての植民地の人達に「日本の植民地時代も決して悪いことばかりではありませんでした」と言われても、それはあくまでも「された」方が言う言葉であり、「した」方が言わせる言葉ではない。
そう言われたことで満足するのでは、甚だ見当違いだ。
本当ならば、
「しかし、そうではあってもそれは植民地支配の形態であった。だから、それが良かった悪かったというのではなく、そういった結果は結果としてお互いに尊重しつつ、未来に向って歩こう」
とするに留めるべきだろう。
どのみち、左も右も過去に拘り過ぎなのではないか。
過去は過去の事実としてとらえ、未来に視線を向けて欲しい。
かつて戦争で散っていった青年達が「この春に散る自分だが、日本の未来には幾度も幾度も春は訪れる」と信じていったように視線を未来に向けてほしい。
しかし、現在、「アジア」を口にする日本人はやたら増え、その言葉の裏に「強い日本」というか、「対アメリカカード」というかの臭いがふんぷんとしているような気になってくる。
「アジア賛歌」をしているようなふりをして、「アジアって可愛いとこあるんだ」みたいな相手を一段下に見たような発想しか出来ない人達。
私は何が嫌いかって変形左翼も嫌いだけど、変形右翼は最も嫌悪し、蔑んでいる。
彼らは「そうとしか生きられなかった時代」を必死で生きた戦時中の若者を食い物にしているように見える。
日本が外敵に食われるか否かという時代に生きていた彼らと、日本が自滅するか否かという自国内の問題で揺れている時代である今を生きている私達とでは、アプローチの仕方も全て違うはずだ。
装甲車に乗って共産党の前で叫んだりとか、北方領土返せ〜とかやっているエンタテイメント系右翼(と言っていいのかどうか...でも見ていて面白い)はまだOKだ。
取り敢えずは国内問題に終始しているから。
一番の問題は「知識分子ぶりっこ系」の変形右翼だろう。
右翼的見解で世界を見ようとする馬鹿者達。
彼らの一番の根底には「アメリカとの対決」という意識が潜み、それを完遂するために美辞麗句を並べて「強いニッポン」とか「ニッポンの文化」とか言い出す。
それはそれでまだ許せるけど、旧植民地や支配地を持ち出し、そこでも「肯定すべきものはある」と言い切ってしまえる無神経さ。
「肯定すべきものはある」と言うのは、旧植民地側の人間であり、決して日本側が言ってはいけない言葉だと思う。
それを認める認めないは相手の国家の問題であり、こちら側が言うような問題ではないのだから。
こういう救いようのない論理展開をする人をネット上で何度か見かけたことがある。
不思議なことに、そのうちの複数がアメリカ留学経験者だったりした。
あのアグレッシブなアメリカ社会で疎外感を味わい、挫折した日本人は「アジアな私」に目覚め、「アジア回帰」を叫びだしがちだ。
それは今でも日本がアジアにあっては経済的に一歩優位に立っているに他ならないからだろう。
「劣等感の双子の兄弟は優越感だ」という。
今になって「アジア」を云々言う人は、そのどこかに「非アジア圏で劣等感を味わった」可能性が高いと思うのは考えすぎだろうか。
アメリカの競争社会についていけず、LOSERとなった日本人がアジア、特に台湾に目をつけるのはよくあることだ。
それも「台湾の悲哀」かもしれない。
アメリカでLOSERとなった日本人は「劣等感の双子のきょうだい」を探し求めてアジアにやってくる。
そして、「劣等感」を克服するために、その双子のきょうだい「優越感」をかみしめたいと思い始める。
「アメリカが何だ。これからはアジアの時代だ」なんて思おうとする。
そして「自分達日本人こそアジアのリーダーなのだ」と思い込みたいという衝動に駆られる。
この「アジアのリーダー」願望の裏に「強いアメリカ」への対抗意識があるのは間違いない。
これは、まさに戦前の「大東亜共栄圏」の発想に他ならない。
なぜ、人は歴史から学べないのだろうか。
自分自身はまるで新しいことをしているように思っているニュー変形右翼だが、やっていることは戦前のものと何も変わりない。
変形右翼だけではない。
よく聞く「アジア大好き」という言葉にも、胡散臭さを感じる。
日本人の「アジア好き」は自分達をワンランク上のアジア人と見ているのに起因しているような気がする。
旅行はしても住む気はしない。
住んだにしても溶け込む気はしない。
たとえ住んでも「その土地ではワンランク上なわたし」。
そんな臭いを嗅ぎ取ってしまう。
きれいな言葉や耳障りのいい言葉を使っているけれど、結局は「いい人」ぶって「理解者」ぶっているだけ。
相手を一段下に見ながらも「なんてリベラルで正義派で賢い私」とうっとりしている自己満足。
そうすることで、歴史上行ってしまった様々なことを帳消しにしてもらえると思っている日本人。
一緒になって日本の軍国主義時代を否定することで、自分は正義派だとアピールしたがる日本人。
気まずいものからは逃げることばかり考えている日本人。
自分の手が血に染まっていると思いたくない日本人。
正義の味方であり続けたい日本人。
馬鹿げている...。
私の思想(えらそうな言い方...)だが、自分の体の中に流れる血の中に、一滴も殺人経験者の血が入ってない人間なんて、この世にいない。
だって、戦国時代のような時代にも私の先祖はいたのだから。
原始時代から今に到る過程で、「私」という人に行きつくまでに、いったいどれだけ多くの人がいるのだろう。
その中には、本人が好きでしたわけでなくても、生きていくために人を殺めた祖先もいただろう。
こういう意識はキリスト教で言えば「原罪」になるのかもしれない(私はクリスチャンではないが)。
しかし、100%無垢で穢れのない存在でいたいという身勝手な人が日本には多いような気がする。
だが、本当にそんな無垢で穢れのない人間など存在するのだろうか。
また、そういう風に思っていて、次の一歩が出せるのだろうか。
ずっと「本当のこと」に触れるのが恐くて、そこから動けなくなり、流れは止められ、水はよどむだけだろう。
私の好きな歌に「Amazing Grace」という歌がある。
よくゴスペルでも歌われている。
この歌の作詞者は奴隷船の船長だったという。
ある時、嵐に遭い、奴隷達が溺れ死んだというのに自分は生き残ってしまった。
その時、彼は自分のこれまでの生き方に嫌気がさし、牧師の道を進む決意をした。
そういう訳ありの歌だとは知らなかったが、なんだか知らないけれども初めて聞いた時から大好きになった。
というか、魂に響いてくるメロディと歌詞だなぁと思った。
その歌詞は...
Amazing grace! how sweet the sound
That saved a wretch like me!
I once was lost, but now am found
Was blind, but now I see.
自分の中にある罪を認め、そこから生きていこうとしている強い姿勢が出ている歌詞だ。
この歌は台湾では無差別殺人で台中のカラオケ店に放火し、死刑になった男の人の物語と一緒に有名になった。
その火事で無関係なのに亡くなった人の中に、一人の先住民の青年がいた。
彼の母と姉は、最初は何も悪いことをしていない弟がこんな目に遭ったことを嘆き悲しんだ。
だが、やがて、放火した男が「心の闇」の中に生きていると知り、彼を許し、彼を「息子」「きょうだい」として接するようになった。
自分達こそ、彼を心の闇から抜け出す手伝いをする者なのだという自覚を持ち、彼女達は放火犯に接する。
最終的に犯人は考えを改め、天国で待つ「弟」のところへ行くのだから死も恐くないという言葉を残して死刑に臨んだ。
その際に、彼はこの歌を歌ったという。
自分の罪を認めるというのは大変に勇気のいることだ。
しかし、それを行ってこそ、前に進むことができる。
潔白だ、きれいだと言っている人間ほど汚く醜いものはないかもしれない。
それは自らの中にある罪を認めていないから。
いや、認めたくないから、何が何でもそれを隠滅しようと必死になって、いざとなれば他人を陥れても自分をきれいなように見せようとするから。
私から見たら清廉潔白な人ほど、自分の中にある罪や醜さを認識しているように思える。
多かれ少なかれ、人間は罪を背負っているのだろう。
でも、その罪につぶされてはいけない。
つぶされないために、ある者は信仰に走るし、ある者は学問に走るかもしれない。
罪を認め、そこから前に進むことができた時、人はもうひとつ上のステップに足を乗せられるのかもしれない。
私は日本の歴史の中にある従軍慰安婦問題やら、南京大虐殺やらを認めろと言っているのではない。
そういう具体的な問題ではなく、人類は原始から今まで歩んでくる間に多くの罪を犯していることを認識し、「清廉潔白な日本のわたし」になろうとするような狡い真似はしないでほしいと言っているのだ。
「そうだよ、確かに植民地にしたよ。それはひとえに日本を強くするためさ。間違いないよ。だって当時はそういう趨勢にあったんだ。当事の発想ではそれは間違いではなかった。しかし、それは結果的に多くの国の人達の犠牲の上に成り立っていたんだ。それを解ったから、次の世ではそういうことが起こるのを止める側になろうと思う。同じ過ちを繰り返すのはいけない。日本だけじゃなく、全ての国が植民地主義などというよその国を抑え付けるようなことをしてはいけないと訴えていきたい」
そう考えて何が悪いのだろう?
どこがまずいのだろう?
しかし、自分が「正義の味方」でありたい人は、「違う時代」すら自分達の時代の価値観で切ろうとする。
自分の身体の中に流れている「罪」を認めたくないために、他者に罪を押し付ける。
「そうとしか生きられなかった時代」に生きた人の行いを、自分達の正当性を強調するために、ぼろぼろにけなす。
その一方で、「そうとしか生きられなかった時代」の人達を見当違いに祭り上げ、自分達の主義主張に利用しようとする馬鹿も登場する。
開き直り、「あれはそういう時代だったんだから、悪くない」とうそぶく。
確かに、あの時代の人達のことを「悪い」だの「間違っている」だのと言うのには私も同意しない。
だからといって、あの時代に生きてもいなかった現代の日本人が「だから自分達に罪はない」というのは誤りだろう。
私達が背負っているのは「あの時代」の十字架だけではない。
何も日本人だけではない。
世界中のどの人間も「血塗られた歴史」から免れた人はいない。
ピテカントロプスの時代から、人は殺し、殺されてきた。
自分のために他人を殺し、時には肉を食らった。
そういう血も、私達の身体には流れているのだ。
ちょいと見える程度の歴史の中で、自分の身内に「殺人者」がいないからといって、いい気になるのは止めた方がいい。
好きで人を殺した訳ではない人もたくさんいる。
そういう時代だったのだ。
今の時代の「むかついたから」「切れたから」という理由だけで人を殺す連中と、当時の青年達が銃を引いた理由や状況は全く違う。
大東亜共栄圏の理想を追い求め、本当にその土地に残った青年もいた。
それは日本人として「アジアのリーダー」になろうとしたのではなく、純粋な思いで飛び込んでいっただけだろう。
インドネシア独立の際に、多くの日本兵が残留してインドネシア軍に味方したという。
しかし、それは建国前夜だ。
今のアジアとはまったく状況が違う。
今のインドネシアの東チモールやらに日本人が入り込み、「一緒に独立闘争」なんてするのは見当違いもはなはだしい。
現在の変形右翼の中には「大東亜共栄圏の復活」を叫んで(なんという時代錯誤!)、「アジアとの友好的な共存共栄」などという、これまた時代錯誤もはなはだしいうえ、見当違いもはなはだしい、妙に上からの視線を飛ばしまくりの発言をするやつが多い。
戦後50年以上も経ち、それぞれの地域に国が成立し、それぞれのやり方で50年が過ぎてきた。
植民地だったアジアは今はもうない。
それなのに、夢よ、もう一度...という手合いが多いのだから困る。
台湾人相手に「国民党の一党独裁が今日をもって終わりを告げ、民主の時代がやってくる」なんて訓示を垂れる日本人もいるのだから困ったものだ。
こういうのを聞くと、君たち日本人は何者なんだ?と聞きたくなる。
こういう人は、1945年8月15日に戻り、「今日で日本による不平等な植民地統治が終わりを告げ、漢民族による自治の時代がやってくる」ぐらい言ってみたらいいもんなのにな。
きっと、それは「自分とは違う時代の日本人の誰か」がしていたことだから、自分の手は染まっていないと思っているのだろう。
美味しいとこ取りだけしたいなら、次の時代はやってこない。
水の流れはよどみだし、やがて腐り始めて腐敗臭を発し始める。
そうしているうちに、水はどんどんと汚染され、中に住む魚は死に絶える。
自分の周辺の時代にしか目を配れない人間は、さながら大河の流れを理解せずに、自分勝手に水をせき止めてしまい、結果的に大河全体の生態系に悪影響を及ぼすような人間と同じ役割を果たしているという訳だ。
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