MinMin's Diary
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2月3日
日本は節分ですねぇ。
台湾はもうすぐお正月です。
それにしても寒いです。
この寒さは子供時代に過ごした武蔵野の寒さを思い出します。
「寒さ」にも色んな種類があって、
「あ、この寒さは、あの時のどこそこの寒さ...」
みたいに思い出すのです。
なぜだか解りませんが、だんだん寒くなってくる季節の思い出の方が鮮明です。
お正月に向かってどんどん、その年がカウントダウンしているようで、それと一緒に、どんどん周囲の景色も寂しくなり、気温も下がり、吹き付ける風も寒く感じられるようになる。
冬眠している動物とは正反対に、この季節の意識がやけに鮮明なのです。
そして春が来ると、意識がだんだんとぼやけてきます。
あ〜〜〜、解った。
これは冬の妖怪と同じ...。
風の又三郎やら、雪んこやら、雪女。
この人?達は春が訪れると共に眠りにつくようなもんですものね。
それにしても、これだけ「寒さ」を時代と場所で認識しているのも面白いもんだなぁと思います。
「あ、これは隣町の中学校から帰ってくる田んぼの脇の道で感じた寒さ」
だの
「あ、これは高校に行く時の朝にあの橋から下った時に感じた寒さ」
だの...。
「暑さ」は一様に「暑さ」でしかないんですね...。
2月を越えると寒さが緩み始め、冬の妖怪達が眠りに帰ることになるでしょう。
でも、それまでちょっと間があります。
明日はいつの時代のどこの寒さを感じることになるでしょうか。
2月5日
立春を過ぎ、暦の上では春なんですね。
でも、台湾はこれからが正月気分。
あ〜、鍋地獄が待っている...(^^;;;
最近、台湾では「新台湾人」って言葉が流行ってます。
これって先の選挙で李総統が使った言葉なんですよね。
それはそれでいいと思います。
新しい言葉にすぐ飛びつくのは、どこの国でも同じでしょう。
それならね、私の友達で数年前に「中華民国籍」を取得した人なんて、正真正銘の「新台湾人」じゃないのかなぁ。
彼女は華僑です。
でも華僑第5代という彼女は、当然のことながら、台湾に来た当初はどの中国語もできませんでした。
「どの中国語」というのは、中国語という概念は「日本語」というように見るよりも「ラテン語」という風に見た方が体感的に似ているからです。
つまり「中国語」は「北京語」をベースにする普通語(台湾では国語)だけではなく、各地に点在する多くの中国語があり、彼女の先祖が住んでいた福建の言語も台湾の国語とは全く違う発音や文法を持つ「中国語」です。この差はフランス語とスペイン語以上のものだと言われていますし、実際にそう思えます。
彼女はいかなる中国語も、住んでいた土地の政策を受け、もともとはできませんでした。
でも、現在は流暢に北京語を話します。
台湾の公用語は現在、北京語をベースにした「国語」に定まっています。
それに対して反対する人はいますが、事実は事実として「公用語」となっており、外国人がここでコミュニケーションをはかるにあたって使用する言語を学ぼうとすれば、それは「公用語」を学ぶことになります。また、私はそれでいいと思います。
私が台湾語を勉強しているのは必要に迫られているからです。
家族の中に台湾語しかできない人がいるからです。
某雑誌にて「新台湾人は台湾語ができなければ遅れている」といった言葉が書いてありました。
そこには「新台湾人」として台北市長に当選した人の写真が出ていました。現市長は母語に台湾語を持たない人です。でも、台湾語を選挙中は話していました。
この雑誌の中の言葉、なんか変じゃないかな...。そう思いました。
どうして社会が言語を強制するのでしょうか?
どうして台湾語が喋れなければ新台湾人になれないのですか?
言語が社会にて人の立場を左右するほどの要因を持つのですか?
言語に政治性や社会性を持たせていいのですか?
言語はコミュニケーションツールではないのですか?
話している相手によって切り替えるくらいの融通性が必要でしょう。
言語は環境に付随しているものなのだから、同じ土地に暮していても、その環境に身を置いていなければ喋れないのは当然でしょう。
いずれの言語を使用していても、一番大事なのは「語っている私」であって、「使っている言語」ではないでしょう?
「何語で語るか」ではなく、「何を語るか」が大事なのでしょう?
多文化を有する土地においては、公用語+αのコミュニティ語があるのが必然でしょう。
カリフォルニアには多くのスペイン語が定着しているように。
でも、公用語が既に定まっておきながら、なぜ更に「新台湾人は台湾語を喋れなければいけない」なんて言い出すのでしょうか???
そういうことで台湾語が喋れないニューカマー排斥にならないでしょうか?
現在、台湾において有名な「本省vs外省」という構図は消えつつあると思います。実際に多くの外省人も台湾語を理解します。
台湾語を理解できないのは外省人ではなく、本当の新台湾人、すなわち私の友達の華僑のような人種です。
ミンナン系が台湾語(ミンナン語)を話し、客家系が客家語を話す。
公用語を話す場所では国語を喋る。
それでいいのではないでしょうか。
「新台湾人」が「台湾語」をmustであると見なすなら、それは新しい民族主義と言語による差別主義を生み出すだけでしょう。
外国人や華僑は国語だけでも苦労しているのに、どうして更に台湾語を喋ることまで強要されるような風潮を生み出すのでしょう?
言語に政治性を持たせてはいけません。
言語は文化です。
望む望まないに関わらず、現在、台湾では公用語を「国語」と定めています。北京語をベースとするこの言語を公用語と定めたその日から、公用語という定義は守ってもらわないと困ります。
実際、望む望まないという意識すらない世代が普通に公用語として国語を話しています。
歴史とはそういうものなのです。民族の対立やら歴史的背景で望まなかった人達が存在しているにしても、実際に何のこだわりもなく公用語を話し、家では家族の言葉を話している世代が育っているのです。
公用語が新たに定まったとしても「家の言語」は簡単に滅びません。
実際に、それから何年も経っているけれど、ミンナン語も客家語も滅びませんでした。
私がこういうことを言うと、ある人はすぐに「それは独立派の人達がね...」ともっともらしく独立派のせいにしようとします。
でも、私はテレビで独立派の女性政治家が台湾語を話せと抗議する支持者に対して
「すみません、現在、台湾における公用語は今、私がしゃべっているこの言語です。多くの人に私の政見を理解してもらうためには『国語』をしゃべります」
と反論する姿を見ました。
一方、大陸との統一を訴えている党の議員達が台湾語を演説で使っているのを見ました。
これを見ていて、ますます「言語に政治的要因を持たせ始めている」と思いました。
台湾語さえ喋れば「仲間」になれるという風潮。
逆を言えば、台湾語が喋れなければ仲間内になれないという風潮。
ある台湾人の若者が、自分が悪いことをして、台湾人の女性に失礼なことをした時に、場をまとめようとして、彼女に対して国語の中に台湾語をはさんで何か言いました。
その場に外国人の私がいたからでしょう。
「ほれ、あいつには解らない台湾語が僕たちには解るじゃないか。身内だろ?」
彼の態度にはそういったところがありありと見えました。
さんざん、その女性に「中国語の中に日本語をまぜるなよな」なんて言ってたくせに。
彼女はきっと彼を見てこう言いました。
「すみません。私、台湾語が解らないんです。きちんと国語だけでお話し下さい」
「なんだよ、お前、台湾人だろ?」
「台湾人です。でも台湾語は解らないの。御解り?」
実際、彼女は解らないことはないのですが、得意ではないのです。
多くの台北育ちの若者は台湾語が得意ではありません。おまけに彼女は客家人です。
言語的センスのある彼女だからこそ台湾語を解したけれど、解らなくて当然ともいえる身の上なのです。
言語はコミュニケーションツールです。
でも、それは誰かや何かを排斥したり、政治的なものや社会的なものに利用する道具ではないはずです。
台湾人が台湾を知るために台湾語を学ぶというのは意味あることだと思います。
あまりにも多くの台湾の歴史が今まで顧みられなさすぎました。
多くの有能な文学者が言語の壁ゆえに筆を折りました。
世界選手権に出場したような人が忘れ去られてもいます。
多くの名もなき台湾人の刻み込んできた歴史が顧みられることなく、時間の中に置き去りにされてきました。
それを知るために台湾語を学ぶのは大事なことだと思います。
でも、それは決して「新台湾人」だのといった肩書きを得るためではありません。
むしろ「旧台湾人」を知るためのものだと言えるでしょう。
この「台湾」が歩んできた道のりを知るためでしょう。
だから「台湾語が喋れる=台湾との関わりが深い」という思い込みはやめてほしいです。
関わり方によって、必要とする言語も違ってきます。
山地に踏み込めば先住民族の言語を覚えた方が彼らの文化をよく理解できるでしょう。
言語は文化です。
言語はコミュニケーションツールです。
でも、決して、決して政治的なものでも、社会的なものでもないのです。
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minmin@geocities.co.jp