MinMin's Diary
震災後、多くのNG0などが台湾にやって来てくれている。
それはそれでありがたいと思う。
でも、問題は大体が通訳を現地調達としているところ。
現地に住んで通訳ボランティアをしていた人達も、今では日常生活に戻っている。
非常事態の段階は過ぎ、私達は普段の生活に戻っている。
そこに「通訳ボランティア頼む」と来られると、かなり苦しい。
もちろん、震災のための活動なのだから、できるだけ協力したい。
しかし、既に日々の生活は始まっている。
頼まれて、自分が出来ないにしても、誰かに聞いてみようということになる。
聞かれた相手も日々の生活が始まっている。
そして「ごめんね」と役に立てない自分に歯がゆい気持を抱きながら断る。
そういう時の情けない気持、申し訳ない気持たるや、なかなか上手く形容できない。
いらしていただけるのはありがたい。
そして、それらが100%の善意だけであることも解る。
でも、せめて日本から来る団体の中に一人でもいいから、通訳ボランティアがいてくれたら、どんなにありがたいことだろう。
言葉は大事な道具だ。
どんなに素晴らしい技術を持った、経験豊かな人が来てくれたにしても、言葉が介在しなければ、なかなかことは容易に運ばない。
震災の被害者は台湾人だけではない。
台湾には数多くの外国人労働者も存在する。
そこで、阪神大震災の時に行ったノウハウを活かして、多言語情報伝達を試みようというNGOが台湾にやってくる。
そして、彼らは台湾人の中に、自分達の国にいる外国人達の言語ができる人達がほとんど存在しないことを知って愕然と来たらしい。
日本には外語大卒業生などの中に、必ずタイ語、マレー・インドネシア語、ベトナム語、フィリピン語を操れる人がいる。
ところが、ここでは「そういった下等な言語」を学ぼうとする人は稀だ。
「そういった下等な言語」とは私が言ったのではない。
かつて自分がインドネシア語を勉強していた時に台湾人が「あなたは日本人で英語もできるし中国語もできる。なのにどうしてそんな役立たずで下等な言語を学ぶ必要があるんですか」と真顔で言ったのである。
椅子から転げ落ちそうになった。
もちろん、台湾に多く存在する華僑達は東南アジア言語と中国語を話せたりするので、そういう人達に手伝ってもらえばいいかもしれない。
しかし、彼らも言語を使って仕事をしたり、ボランティアをしている余裕があまりない。
そこで外語大あたりで東南アジア言語を勉強している学生がいればいいと思うのだが、まず、間違っても東南アジア言語のある大学はないだろう。
そこで、そのニュースレターを発行する団体は、すっかり頭を抱えているらしい。
この活動のノウハウを台湾人に伝授して引き揚げようとしても、基本となる「東南アジア言語ができる現地人」が見つからないのだ。
これを見ても、いかに台湾の「国際的観点」が英語圏、日本語圏に傾いているかがよく解る。
使用人の言語なんて覚える必要がない。
自分達が使用人にしてもらえる国の言語を覚えればいい。
そんな風に考えているのって聞きたくなる。
そんなこんなで不機嫌だったところに、もっと不愉快なことが起こった。
NGOのために電話している日本人女性に対して、ずっと台湾語しか喋らないメディアがあるのだ。そこはどうも「台湾共和国」を名乗っている団体らしい。
台湾共和国を名乗るのは御自由にしていただきたいが、問題は喋る相手を見て言語を使ってほしいと思う。
台湾語が台湾共和国の公用語なら、それは「台湾共和国」内で使えばいい。
少なくとも私は「台湾共和国」に生きてないので、私相手にそこの公用語を使われても困るだけだ。
たとえば、フランスのバスク地方にいるからって、バスク語は解らないけれど、フランス語ができる外国人相手にバスク語を喋り捲るのは妙だと思う。
言語には政治性も宗教性もない。
あるのは「コミュニケーションツール」としての役割だけだ。
日本語が出来ない人相手に「日本の公用語は日本語だから」といって日本語だけで押し通し、まったくコミュニケーションができないというのはどうだろうか。
本当は英語もできるのに、「ここは日本だ」ってことで英語をまったく喋りもせず、ずっと日本語で押し通したら、相手に何かを伝えるという一番大事な部分がすっぽりと落ちていってしまうだろう。
台湾共和国を名乗るのは勝手だし、そこの公用語を台湾語にするのも自由だ。
そんなことは私には関係ない。
でも、だからといって、台湾語の出来ない外国人にも遠慮会釈なく台湾語で話してくるのはルール違反だ。
こちらはそれでなくても苦労して国語を話しているんだ。
こちらが一方的に苦労しているのに、自分だけが余裕こいて母語を話しているのはどんなもんだろうか。
私の友人が関わっているNGOにしたって、台湾という土地を住み易い土地にしようという意識で無償で援助しようとしているんだよ。
たとえ、それがマイノリティ相手の活動であっても、それを行うことが台湾の将来を明るくするのに。
そんなことも解らない人間が新しい国を建てようとしているのかと思うと情けなくなってしまう。
マイノリティだって台湾で生活している立派な社会の構成員。
金出して使っているんだから、ケアしてやる必要ないって言うなら、その段階で台湾は国としての誇りを失ったことになる。
なんかもう、地震がらみで嫌なことが多い。
秋田犬の目つきの悪い番犬よろしく、NGOの人達にくっついて「台湾共和国」の領土内に行ってきた。
一応、「台湾共和国」領土内にある、その集団の首領は私達が台湾内で現在「国語」として認識しているマンダリンを使って話をしてくれた。
ここでの体験で私はまたしても、あらためて、「台湾共和国」を声高に語る人達への印象を超悪いものにした。
連中は口では「自由、平等、博愛」と、まるで「ベルサイユのバラ」でオスカル様がおっしゃったような言葉を言ってるが、本当に、本当に、そうなんだろうかって思わせる、実質的な多数派の傲慢を感じてしまった。
口で言うのなら、誰だって出来る。
でも、態度が醸し出すものって正直かもしれない。
やたら先住民族との連帯を強調するのも超怪しい。
先住民族は、言うなれば漢民族が表舞台から追いやった相手だ。
「台湾人の主流」と自負している漢人系本省人にしてみれば、ウィークポイントである。
だからこそ、「名誉」を与えて取り込み、上手に自分達の政策に利用していかねばならないものだ。
先住民族はいつの時代も統治者に利用された。
「サヨンの鐘」で有名な先住民の少女サヨンは「愛国少女」として日本統治下でもてはやされ、映画にまでなり、記念碑まで建った。
ところが中華民国政府がやってくると、石碑はガリガリに字を削られ、見る影も無くなっている。少女が行ったのは、心の優しい少女として、ごくごく普通の行為であったのに、それが日本の愛国政策に利用されたがために、少女の善意までもがガリガリに削り取られてしまった。
霧社事件の立役者である頭目モーナルーダオは中華民国政府の統治下で「抗日英雄」となっている。今でも霧社に行けば「抗日英雄」の記念碑を見ることが出来る。
しかし、モーナルーダオが日本人相手に戦ったのは、抗日という考えではなく、彼らの村や文化を脅かす外敵と戦うといった考えだったのではないだろうか。彼らは霧社の勇者としての誇りを持って、自分達の文化を否定し、自分達を不当に扱う敵と戦ったまでだろう。
勇猛果敢な先住民の戦士の姿が「抗日英雄」とされているのが、なんとなく不自然だ。
相手が日本人だろうが、漢人だろうが、はたまた別の先住民部族の者であろうが、彼は同じように戦っただろう。
そして、今に到るまで人々が政治的に台湾先住民を利用しているような印象を覚える。
この、訪ねた「台湾共和国」領土内の集団も、やたら先住民を意識していた。
「ほら、うちはマイノリティにも意識を向けているの」
そう言って指し示すものの先には「台湾原住民」という字が踊る。
「ほら、客家人に関するプログラムもあるの」と広東語系の本省人のことも持ち出す。
「外省人のだってある」と外省系独立派のことも持ち出す。
ははは、やっぱりあんた達は自分が主流派だって思っているんだね。
まぁ、主旨だけ見ていると、なんとなくご立派かもしれない。
だけど、首領のとなりに座っていた男性の態度で、私は彼らの正体を見たような気がした。
マンダリンで話しかける私と友人に対し、彼は一貫して英語で返事をする。
返事をするのだから、彼はマンダリンを理解している。
帰国華僑でもないのだから、恐らくは学校教育をマンダリンで受けているはずだ。
幸い、私も友人も彼の英語を理解できたからよかったが、マンダリンを話す外国人の全員が英語を理解するとも限らない。
お前は「外国語」としてもマンダリンを口に出来ないのか!
別にお前に「国語」としてマンダリンを話せとは要求していない。
しかしな、外国人である私達が「外国語」としてマンダリンを話しているんだ。
コミュニケーションツールとして、お前も「外国語」としてマンダリンを口にしても罰は当たらないだろう!
非英語圏の人間同士で英語をコミュニケーションツールとして話すことはままある。
非仏語圏の人間同士でフランス語をコミュニケーションツールとして話すこともある。
そんなら非マンダリン語圏の人間同士でマンダリンをコミュニケーションツールとして話すことがなぜ出来ないのじゃ。
そういう根性の狭さだから信用出来ない。
もちろん、「台湾共和国」を目指す人の中には、もっと立派な理念を持っている人がいるのも知っている。私の周辺にも言葉には出さなくても「台湾共和国」を心意気で目指している人達がいるからだ。そういう人達の心意気は応援したいと思う。
しかし、「台湾共和国」という標語を掲げることで、自分達の野心を美辞麗句でコーティングし、台湾を本当に良いところにしようと思っている人達を騙すような行為は認めたくない。
言語に政治性を持たせるような了見の狭い人間に、真の「自由、平等、博愛」は理解できないだろう。
そんな感覚の中には「共和」という意識は感じられない。
目付きの悪い秋田犬の番犬のように黙ってじっと横に控えながら、私はそんなことを考えていた。
私は台湾の政治的闘争には興味ない。
あるのは現実社会を如何に良くしていけるかという極めて実質的な興味だけ。
政府批判をしたからって「民主運動の旗手」という時代は終わっている。
口で言うなら簡単だ。
本当に「台湾共和国」を目指すなら、字面を並べるだけでなく、態度で示してごらん。
共和とは何かを排斥するのではなく、共に和して生きていくという意味じゃないのかな?
心の中で台湾共和国を目指す私の友人だって、私に対してはマンダリンを話してくれる。
あまつさえ、私のいるところで誰かが台湾語を話したら「彼女がいるんだから、ここでは国語を話そう」とすら言ってくれた。
台湾にやって来て、台湾に住んでいる全ての人達...血統に関わらず、現実に台湾に生きている人達が共に和して生きられる国の立国を望んでいるのなら、「何か」を排斥するような行為には出ないはずなのだが...。
あんた達が先住民を支援してようが、マンダリンを喋らないというのなら、台湾に住む一部住民にはマンダリンしか出来ない人もいるんだから、本当に台湾全体の協調と調和を願っているとはいえないねと心の中で思っていたのである。
気がつけば11月も半ばを過ぎておりました。(^^;
扁桃腺を腫らしているうちに...。
近所の赤ちゃんが昼となく夜となく泣いています。
赤ちゃんは泣くぐらいしか訴える術がないから可哀相。
そして「漠然とした恐怖」に対しても思索することで乗り越えることができない。
そして時間という概念がないんだろうな。
点と点で生きている。
「今」しかないんだろうな。
だから待てないのかもしれない。
だから先が読めずに恐れるのかもしれない。
そう思っていて、はたと気付いた。
赤ちゃんじゃない人でも同じことをしているって。
赤ちゃんじゃなければ、声をあげて泣くことはしないだろうけれど。
声をあげて泣かない代わり、逆にその恐怖がうちにこもり、疑心暗鬼にかられたりしないだろうか。
その疑心暗鬼が健全な思索を阻み、どんどん事実と違う方に行ってしまわないだろうか。
赤ちゃんのように漠然とした恐怖に泣いているだけなら楽だろうなと思う。
赤ちゃんのように自分の周囲のことだけで行動を決められたら楽だろうなと思う。
話が変わって...。
毎度のことだが私をうんざりさせる選挙戦。
それがそろそろ始まる。
政治に「善玉」「悪玉」を持ち込むことはナンセンスだ。
どこの国でも思うのだが、政争の原因って結局は「義よりも利」。
だから「義と利」、この部分に観点を置いて見た方がいいと思う。
国家が独裁体制でないのなら、個人に「英雄」を求めるのは危険だろう。
世の中、虎の威を借る狐も多い。
狐達が虎の回りをうろうろして、虎の判断を誤らせるかもしれない。
あるいは狐達と虎が結託して、他の動物を虐げるかもしれない。
そんなことを考えていると、つくづく政治家って因果なものだと思う。
今回の選挙は総統選だから、いつも私が使う手である「現実」からは判断しにくい。
だから黙って見学させていただくことにしようと思う。
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