tomb & sabil kuttab of ghawriスルタングーリーの墓
16世紀初頭のマムルーク朝のスルタングーリーの墓及び学校。この後エジプトはオスマントルコに征服されたため、 マムルーク時代最後の重要な建築物となった。
グーリーは実質的にマムルーク朝最後のスルタンある。当時、イスラムの2大国、オスマントルコとサファビ朝ペルシャ がメソポタミアの支配権を巡り対立し、オスマントルコが勝利を得た。エジプトは伝統的に領有してきたシリアの地で オスマントルコ軍に破れこの後19世紀までその支配地となった。

マムルーク朝は13世紀〜16世紀にかけてイスラム時代のエジプトの黄金期を担った。シリア、パレスチナやメッカ地方を 領有し、聖地メッカを管理し名目上であるがカリフを擁立した。

マムルークとは忠誠で勇猛と名高かったトルコ系の軍人奴隷である。もともとは誘拐されたり金で買われて来たが、軍人である マスターによって正式に教育を受け後に自由人となり有能なものは大臣にまで登った。
当時無敵で恐れられたモンゴル軍をシリアでの戦いで破り、さらなる西進を阻んだのもマムルーク軍であった。 彼らは恐らく当時世界最強の戦士であった。
マムルーク朝は彼らがクーデターにより興した王朝である。

カイロ市アズハル