written by たねり
街を歩いていて、わたしはしばしばかわいい少女に目 を打たれることがある。ロリコンといわれればそれまで だが、たしかに年齢をかさねた女性にかわいい、という 感情をもつことは少ない。せいぜい、高校生くらいまで である。成熟した女にはうつくしさを感じることはある が、かわいい、という言葉はにあわない。 また、しかし、少女ならなんでもかわいいか、という とそんなこともないのである。やはり、かわいいと感じ る少女は限られる。とすればこの感情は選択がはたらい ており、恋愛にも近いものであろう。 ある少女をかわいい、と想い、べつの少女をかわいく ない、と感じるのはまず、顔かたちである。心などは知 るすべもないわけで、一期一会のふれあいは顔かたちに つきる。とすれば、それは少女自身のちからでも意思で もなんでもなく、たまたま、そういう顔かたちで生まれ ついた、というだけの話になる。 たまたまそういう顔かたちを与えられて生まれた少女 を、たまたま街ですれちがったわたしが「ああ、かわい いな」と思う。それだけの話なのだが、わたしは前々か ら、このかわいい、という感覚について不思議に思って いたのである。なにを根拠にして、そういう感覚がわた しの内部に生まれてくるのだろうか。 たとえば成熟したいい女をみて、そそられるのは説明 がしやすい。セックスをして子供を孕ませるところまで を無意識に考えるから、「かわいい。食べてしまいたい 」と思うのであろう。モチーフが現実の結果に結びつく。 しかし、5歳とか6歳の少女に子供を孕ませることはで きない。いくらかわいい、と思っても、それは成就しな い恋愛である。もちろん、幼女姦というのがあるからセ ックスをする男もいるのだろうが、これはビョーキの範 疇だからここでは思慮の外とする。 12歳とか13歳だともう古代日本では結婚年齢であ ったから、これはいまの倫理ではあぶなくはあるがビョ ーキとはいえない。(ちなみに、ウラジミール・ナボコ フの「ロリータ」はたしかこの年齢の少女だったはず。 だから、べつに異常性愛でもないのである)15歳、つ まり女子高生ならばもうリッパにエッチの対象になる。 法律的には否定されているだけで、生理的には女だから である。また、じっさいに彼女たちのバージンへのこだ わりは消滅しつつあるようだが、これは時代が進んだの ではない。明治以前の状態に先祖帰りをしたのだ、とわ たしには見える。このことをモラルの崩壊なんて嘆くむ きもあるようだが、それは当たっていない。明治から昭 和までの輸入キリスト教的なモラルがメッキだったので あり、そのメッキが剥落して日本人本来の面目である「 いろごのみ」がおもてにでてきた、ということなのであ る。 少女をかわいい、と思うのは物理的ないろごのみでは ない。少女は女ではないからである。もっと正確にいう と、女として使えないからである。とすれば、形而下で ないのだから、形而上のことがらになるにちがいない。 では、「かわいい」という言葉の正確な意味はどうな っているのだろう。新明解ではこうである。 〔「かははゆし」から来た「かはゆい」の変化。原義 は、ほうっておけば悪い事態になるのをそのまま見過ご せない、の意〕自分より弱い立場にある者に対して保護 の手を伸べ、望ましい状態に持って行ってやりたい感じ だ。 そうだろうか。この説明には当たっている部分もある のだが、わたしの感覚のすべてをいいつくしてはいない と思われる。たとえば、すべての少女はわたしよりも弱 い立場にあるのだが、ある特定の少女のみに「かわいい 」という感覚が発動されるのである。あるいは猫でもい い。やはり、かわいいと感じる猫はすべてではない。そ こにはなんらかの選別がはたらいている。どの存在も同 じく弱い立場にある少女や猫にたいして、なぜ「かわい い」と感じたり、感じなかったりするのであろう。いや、 もっと端的な例がある。わたしは赤ん坊を見て、かわ いい、と感じることがないのである。赤ん坊ほど弱く、 庇護を求めている立場の存在もないわけだから、かわい い、と感じてもいいはずなのだが、そうならない。とい うことは、新明解の説明は「かわいい」という言葉のあ る断面についてのもので、その全体ではない、というこ とになるであろう。 その語源であるとされる←ははゆし」は、岩波古語 辞典では「顔、映ゆし」であるという。「恥ずかしさな どで顔がほてる感じだ」という意味である。これは対象 (かわいい、というのはじぶんから相手を見たときのあ りさまだから)についての言葉ではなく、じぶんの状態 をいっていることになる。 これが、「かはゆし」に転じると、その意味にくわえ て、「見るに忍びない。見るに耐えない」「かわいそう で見ていられない。不憫だ」「つらい」「可憐だ。かわ いい」と広がってくる。ここで気がつくのは、「つらい」 という意味をのぞいては、じぶんの状態から、対象に かかわる言葉に変化していることである。 いちばん最後の用例が現代のわたしたちにも通じる意 味であるが、「見るに忍びない」というのと「可憐だ」 というのでは、ほぼ裏返しになっている。「つらい」か ら「可憐だ」に意味がわたる間に、何か大きな溝がある、 という印象だが、どういう言語的なメタモルフォーゼ が起きたのかはわからない。ただ、言葉というのは生き 物で、場合によっては変容をくりかえすものだから、 「かはゆし」の意味の落差も驚くことではないだろう。 語源からの探索はここでゆきづまった。それで「脳内 リゾート」のほうににっちもさっちもいきません、とい うメッセージをあげたわけであるが、グラウコンさんの ほうから、こんなメッセージをいただいた。 >たねりさん かわいいとは。子どもを育てることは種の保存に都合がいいので、子ども 的なものに可愛いと感じるようになっているのでしょう。まるい、やわらか い、ちいさい、目が大きい、など。いろいろ可愛さってのがありますが、基 本的には赤ん坊や小さい子どもの特性ですね。他の動物やもっと年上の女の 子にもその性質があれば、可愛さを感じる、というわけです。こういう話を どこかで読んだことがあります。 そうすると猫がかわいいのは人間にすがって生きるた めの戦略なのだろうか、というちゃちゃはやめておくが、 たしかにそういう側面もあるにはちがいない。ただ、 わたしの場合は赤ん坊にはむしろ醜悪さをかんじるし、 くりかえしになるが3〜6歳くらいの少女でもかわいい、 と感じる子供は限られる。かわいいから庇護して、育 てたい、と思うにしても、どうも普遍的な感情ではない のである。個人的で特殊な選択がはたらいている。「本 能(それは壊れている、というのがわたしの立場だが、 仮にあるとしたら)」的なものから来ているとしたら、 そういう対象にたいするでこぼこで恣意的な評価がある のはおかしい。一律に、どんな赤ん坊や子供もかわいい、 庇護したい、と感じなければいけないはずである。 わたしはフジテレビの卓越したお子様番組ポンキッキ ーズをよく見るのだが、かつては安室ナミエと鈴木ラン ランという二人のうさぎちゃんが看板になっていた。 (いまや、安室は大スターになって多忙をきわめ、残念 ながら番組を降りてしまったのだが。そして、この4月 からは山田邦子とランランというペアに堕してしまった。 ああ、山田邦子のうさぎちゃんなんてかんべんしてくれ) それで、ナミエとランランの場合、わたしはナミエを食 べてしまいたいくらいかわいい、と感じるのに、ランラ ンのほうは反吐がでるほど嫌いだったのである。つまり、 これはナミエとはエッチをして子供を孕ませてもいいが、 ランランとエッチをするのはおぞましい、という無意識 の性衝動のなせるわざ、といってもまあ、いいであろう。 ただ、わたしが不思議に想い、知りたくもあるのは、そ の選択の由来である。世間的には同じくらいにかわいい、 といわれているナミエとランランであるにもかかわらず、 わたしの中でこれだけ評価の差が出るのはなぜか。もち ろん、世間にはランランのほうこそかわいい、食べてし まいたい、という男も存在するのである。たとえばタレ ントの勝俣州和(だったかな)は、ランランに首ったけ であるらしい。わたしからするとあんなションベン臭い コムスメのどこがいいのか、と信じられない感覚なのだ が、「たで食う虫も好き好き」ということなのであろう。 そう、美意識は人それぞれなのである。いや、いかん。 こんな陳腐な結論を出すためにこの文章を書きたかった わけではない。 今回も結論はないのである。なぜ、わたしはわたしな りの美意識というモノサシを持っているのか。それはい つ、どこで、どのようにして獲得したものなのか。生き てきた時間と空間、であった人間や文化やものがたり、 それらの総体がいまのわたしであり、「かわいい」とい う判断のでてくる背景にもなっているのだろう、とは検 討はつくのだが、それではあまりにも漠然としていて納 得がいかない。中途半端のままで終わるが、このところ 座右の本となっている野口三千三さんの「野口体操・か らだに貞く」(柏樹社)のつぎの言葉はわたしにとって 慰めである。 〔「からだ」や「コトバ」のことは、すべての人間が人 類絶滅のその日まで、全力を尽くして研究しても、分か り切ることのできるものではない。・・・私の考え方の 一つに「人間中途半端説」というのがある。中途半端で あることが人間の宿命である、と私のからだの神は私に 教えてくれる。私は安心して中途半端な今の私の姿を曝 すのである。〕
© 1996 たねり
NQG63965@pcvan.or.jp
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