written by グラウコン
●面白いホームページはどこにある ホームページは退屈だ。面白いものなど千に三つもあるかどうかだ。結論 を言えば、そういうことだ。 一度だけ面白いなと強く感じたのは自分でホームページを作ったときだ。 www.oocities.org に場所を借りて、人工楽園の 1 号を掲示して、自分の 個人ページを作り、カウンタを付け、訪問客が書き込めるゲストブックを付 けた。そのあたりまでは夢中で作業をした。他のホームページを参考にする ために、多少なりとも研究をした。そのときは本当にホームページって面白 いなと感じた。 やはり浮かれていたのだろう。ホームページに日記を書くなどアホではな いかと思っていた自分が不覚にも日記を公開することにした。日記を公開と いっても最初からホームページに載せるつもりだったので、「仕込み」なの であるし、日ごろは日記など書かないので、為に書く日記だったのだが。 それもじきに飽きてしまい、書かなくなった。ホームページに日記を書く ことは、砂漠に水を撒く空しさもあったし、はっきり言ってしまえば、そう そう毎日書くことなどないのだった。 その後、 インターネットでチャットを行う IRC や TELNET を使って仮想 空間で英語の勉強をする schMOOze に手を出したりしたが、まあ、それはま た別の話だ。今回のテーマは、ホームページってつまらないじゃん、なので ある。 国内のホームページに限って言うと(外国のホームページはあまり内容がわ からないので除外する)、どうでもいい個人的な話題が多いのに辟易する。イ ンターネットプロバイダから、あなたに何 MB のディスク領域をあげます、 何を掲載してもかまいません、と言われても、それなりの内容のあるものを 提供できる人がそもそも少ない。あまり前といえば、当たり前だが、今まで にインターネットを始めた人はやはり新し物好きが多いのだろう。それじゃ、 自分も作ってみようかと、自己紹介に毛の生えた程度のものをでっち上げて ホームページに掲載することになる。 私の写真やら、私の経歴やら、私の妻やら、私の娘やら、私の猫やら、私 のケツの穴やら、なにもそんなものを世界に向けて発信しなくてもよさそう なものを、最先端のメディアだのなんだのと浮かれて、顔を上気させながら ついつい html で作り込んでしまう。 自己紹介だけでは情ないので、自分の趣味などを絡めてページを作るのだ が、いかせん表面的なもので終わってしまう。基本的に突っ込みが足りない、 ボリュームが不足している。最初から書かない方がいいのじゃないのか、と いう程度の中途半端で終わってしまう。 考えてもみてほしい。あるテーマで書籍一冊分の情報を提供できるなんて ことは滅多にあるものじゃない。個人でできることには限界があるし、よほ ど時間をつぎ込みでもしなければ、専門的なことがばっちりわかるホームペ ージを作れるなんてことはない。それこそ世界に発信するに足る内容を備え ることができるのは、ごくごくわずかのケースだろう。 最近では、 java だのなんだのと、新しいツールを使って何ならせっせと 作る人もいるようだが、見る必要もないものばかりだ。だからなんだ、とい う世界である。 なぜこういうものが大量に氾濫するのか。経験してみるとわかるが、ホー ムページを作ることそのものがなかなか面白いのだ。工作の楽しみみたいな ものがある。しかも、リンクを張ったりすると、世界につながっているよう な気になれるし(実際つながっているのだが、そのことと内容の質は無関係 だ)、これはこれでなかなかよくできた自己満足の世界なのだ。 実際に出来上がったものを審査されるわけでなし、つまらないからといっ て、閉鎖されるわけではない。そのホームページがつまらないからといって、 わざわざ電子メールを送って、「つまりませんよ」と言ってくるほど暇な人 もいない。歯止めのない自己満足の世界に一定以上の水準を求めることは無 理だ。 だいたいがそんな調子で作られるホームページが多くあるものだから、ネ ットサーフィンなんてものも、1 ヶ月もしないうちに飽きてしまう。ネット サーフィンには時間がかかるが、それは「あれも面白いこれも面白い」と時 間がたつのではなく、なんだこんなものか、他に面白いところはないかなあ、 と期待を抱いた放浪を続けていて時間が費やされていくのだ。サーフィンと いうよりも彷徨に近い。やけに消耗する旅である。 誰もが世界に発信できるメディアとしてホームページ(WWW)は注目され た。しかし、その「誰もが」ってところにそもそもの原因があるのだろうか。 どんなにつまらなくても、平気。どんなに没個性でも、平気。 そんなことお かまいなしに世界に発信した気になれる。確かに新しいメディアではあるが これほどまでに無節操なメディアはなかった。 なんで WEB なんてもの作ってしまったんだろうね。ま、編集を通さない無 制限の情報は退屈で無秩序な世界を作る。そういうことを知ったという意味 では、人間はいい経験をしたのかもしれない。 しかし、ゴミのようなホームページが多いからといって、審査を通せなど とは言えない。そのゴミの中からどんなものが出てくるかわからないし、こ ういう楽しみを奪う権利は今のところ誰にもない。ふるいにかける権威のあ る人間もインターネット上にはいないのだ。本当のところ面白くなくてはい けないという理由すらない。誰の役に立たなくてもなんら問題はないはずだ。 それはそれでいい。では、このアナーキーな情報インフレの状態をどうす るつもりだ。 ●ディレクトリーサービスの必要性 今後ますます重要になってくるのは、玉石混交(しかも石が圧倒的に多い) の膨大なホームページ群からどうやって面白いホームページを見つけるのか ってことだ。面白いホームページはどれなんだ、役に立つホームページはど れなんだ、という声に応えるホームページのディレクトリーサービスだ。 実際、WWW 上でも紙媒体の雑誌や書籍でもそういう企画が急に増えてきた。 でたらめにネットサーフィンしていてもゴミにしか当たらないことを多くの 人が知りはじめたからだ。紙媒体の限られた紙面による選択の必要性が選別 することの重要さを逆に教えてくれているのも皮肉な話だ。 ホームページの中にもディレクトリサービス、リンク集は増えてきている。 そういうページはたいがいアクセス数も高いようだ。膨大な数のホームペー ジをそろえた大きなディレクトリーでなくても、個人が運営してお気に入り のホームページを紹介しているところでもそれなりのアクセスがある。この ことは、ある程度数を絞りこんで選んでくれた方が利用しやすいと考えてい るユーザーが増えてきている証拠だろう。 なるべく多くを網羅して、分類をするだけのディレクトリーサービスもそ れなりには役に立つが、すべてを対象にやってしまうと収集がつかなくなる 部分もある。私としてはつまらないものは切り捨てて欲しいと思う。分類と 同時にセレクトすることに意義があるのだ。 また、すべてのホームページを対象にした検索(サーチエンジン)もそれ なりに役には立つ。しかし、検索した一覧から飛んでいき、そのホームペー ジを見るとつまらなかった、なんて経験は嫌というほどしている。検索では 質まではチェックできない。 それに検索というものは、すでに読みたいテーマが決まっているときにし か役に立たない。ホームページのようになんでもありの世界では、どんな面 白いものがどこに眠っているのかわからない。これは検索機能ではなかなか ヒットしてこない。 やはり、こうしたものとは違うお薦めリンク集の存在は必要だ。選別した 上でのリンク集やディレクトリーサービスが欲しいのだ。 では、選別するとして、誰がどういう基準で選んでくるのかということが 問題になる。そのディレクトリーサービスのお薦めがつまらないことだって あるに違いないのだから。 面白いとか面白くないということは、最終的には趣味の問題に帰着するの だから、自分の好みにあったリンクを張っている人を見つけることが重要に なってくるだろう。面白い本を薦めてくれる友人のような存在だ。この人の 選ぶホームページは面白い。だいたい私と趣味が似ているな。そう思えるデ ィレクトリーサービス、リンク集を探すのだ。しかし、これをどうやってみ つけるのだ? 私にはまだ面白いホームページのみつけ方のノウハウはない。仕事は別に して、現在では個人的な興味でネットサーフィンをすることはほとんどなく なってしまった。つまらない、という体験の積み重ねが、興味を急速に失わ せた。時、すでに遅しだ。 でもこれって、金がかかんなくていいんじゃない? ●想像を絶するサービスが氾濫する世紀末 話はこれからのことに変わる。 インターネットはパソコン通信のように特定のサービスを提供しているわ けではない。 TCP/IP で接続されたコンピュータの向こうとこっちで何を送 ろうが一向にかまわない。向こうとこっちで新しいソフトを載せて、あるい は新しい機器を接続して、今までなかった新しいことを始めるのも自由だ。 だからこそ急速に進歩しているし、新しいツール類がどんどん出てきて、ど れを使うべきかわからないほど氾濫しはじめている。 ごく普通の家庭でも動画や音声を楽々と送受信のできる帯域幅の広い(高速 な)回線が低料金で簡単に使え、通信上での金銭のやり取りも日常的に行われ るようになった世界では、信じられないようなサービスが生まれてくるのは 間違いない。それがインターネット上のことになるのか、次に来るべき情報 スーパーハイウェイ上のことになるのかはわからないが、この世紀末に一気 に質的な変化がやってくるのは間違いないように思われる。 「ビル・ゲイツ未来を語る」やネグロポンテの「ビーイング・デジタル」 が描いて見せる未来社会は意外と刺激に乏しかった。それは彼らの想像力の 貧困によるものなのか、自分の社会的立場を考慮しての抑制なのかはわから ないが、実際にやってくるネットワーク社会は便利さとスマートさの反面、 彼らが考えるよりもずっとどうしようもなく猥雑で混沌としていることは間 違いないだろう。 例えば、どんなことがはじまるのか。 あるホームページでは、若い女性の部屋がリアルタイムの映像として送ら れてくる。VHS 並みのあるいはそれ以上のかなりリアル画像だ。1 分いくら か支払えば、誰でも覗くことができる一種ののぞき部屋だ。その女はのぞき 部屋でテレビを見たり、 CD を聞いたりしている。部屋は暖かく、女は薄着 だ。時たま着替えをしてくれる。次に何が起きるのだろうとわくわくしなが ら金を払い続ける男たちがいるに違いない。 もっと高額のサービスでは、裸も当たり前に送られてくるだろう。ビデオ オンデマンドの映画ではなく、リアルタイムの映像として。 その画像の中に、ある日、ストッキングをかぶった男が現れる。女は男に 乱暴をされて、殺される。リアルタイムに世界に向けて発信される暴行殺人 の現場。男が部屋を去った後も、カメラは作動して続けて、延々と彼女の死 体は映されている。やがて警察がやってくるかもしれない…。そこがどこな のか調べることができれば、だが。 会員制のクラブも多数でてくるだろう。パスワードなどの設定によって、 あるいは裏ページによる配信によって地下に潜行するサービス。そこではセ ックスの場面が送られてくるだろう。あるいは人があなたの部屋に訪問する かもしれない。あるいはもっと単純にツーショットダイヤルがテレビ電話を 使って行われることだろう。 性的なことばかりではない。マルチメディアを活用した洗脳が、商品の売 り込みが、巧妙な方法であなたの部屋に滑り込んでくるかもしれない。 現在は、退屈なホームページの時代だ。それが刺激的なカオスの時代へと 突入するのにそれほど時間はかからない。法的な問題である以前に技術的な 問題として情報スーパーハイウェイに対する規制は可能かどうか。このこと が深刻化するのも近いだろう。
© 1996 グラウコン
ADM02488@pcvan.or.jp
次の作品を読む
目次に戻る