ブスは射殺せよ。


                      written by たねり

 と、あるテレビ番組で関西のお笑い系芸人(しかしインテリふう )がしゃべっていた。それはもちろん、「シャレやがな」ですむ程 度の言葉なのだが、冗談にみせかけて、人間にかかわるどうしよう もない真実を提出しているようにも、わたしには思えた。  その芸人はこうもいっていた。 バカはこの番組を見るな。  このふたつの発言には、建前と本音を使い分けて処世術をやって いる世間の幻想をひっぺがして、人間の真実を白日のもとにさらそ う、といういっしゅ知的な悪意がふくまれている。悪意といっても 、わたしは悪い意味で使っているわけではない。むしろ、惰眠をむ さぼっている人間のほっぺたに平手打ちを食わせるような悪意であ る。それで目が覚めるのならば、ひじょうに親切な行いかもしれな い。  わたしはいまではブスという言葉を平気で使うが、幼少のころは それを言ってはいけない、という自制の思いが強かった。なぜなら ば、ブスは(美人にしても同じことの裏返しだが)じぶんの容貌を 選んで生まれてくるわけではない。だったら、理不尽な容貌になっ たからといって、その人を責めるのは酷というものだ。美醜で判断 してはいけない、と。つまり、わたしはやさしかったのである。  しかし、ではわたしはブスが好きな少年であったか、というとそ んなことはなかった。キュートで魅力的な少女に胸をときめかすご くふつうの少年にすぎなかった。だから、自らの心も行動も、あき らかにブス差別はしていたわけである。ある日ブスから電話がかか ってきて、映画を見に行かないか、と誘われたことがある。もちろ ん、ことわったし、そのことになんの心の痛みもなかった。そうし て、わたし自身は夢中になっていたかわいい少女に手紙などを書い ていたわけである。  社会的には、「ブスは射殺せよ」とはいってはいけないことにな っているだろう。 ブスにだって生きる権利はある。  ということだ。民主主義的な精神からいえば。しかし、ミスコン はあってもブスコンはないように、口に出してはいわないだけで、 ブスには生きる権利はない。そして、プラグマティックな救いの手 をさしのばしているのが美容整形という技術であり、ブスがスター トラインからハンディキャップを背負っているのを、平等に引き上 げる役割を果たしているのである。美容整形が繁盛するのは、とり もなおさず、ブス差別がこの社会に厳然としてある、という証左な のだと考えていい。  社会は建前として、ブスにもバカにも平等の権利を保証している ように見せたいのである。しかし、じっさいにはそれは幻想である 。ブスはたいへんに生きにくいし、バカも学歴社会のうえではいい 思いはできない仕組みである。その芸人は、あえて挑発的な言葉を 使って、「平等ごっこに騙されたらあかん」といっているように見 えたのである。  作家の林真理子はかつてブスで有名だった。わたしもあるミュー ジカルの観劇にいったとき、彼女を見掛けたことがある。噂どおり のウルトラブスだったが、彼女がそのハンディをものともせず、作 家として一家をなしたのは並ではない才能と努力があったからにち がいない。それは素直に畏敬すべきであると思う。  わたしはいまではブスという言葉を使うことにためらわなくなっ た。やさしさがなくなって、人間としてややだめになった、という 見方もできるかもしれない。しかし、人間は平等ではない。また、 そういう幻想をあまりふりまくべきでもない。生まれながらの不平 等を否応なしにひきうけて、そこから死ぬまで日々の人生を闘って いくのが人間という哀れな生き物の宿命であろう。  思い出したが、加藤郁也といういっぷう変わった俳人が、いっぷ う変わった小説をものしていて、そのなかで、「醜い人間はうつく しい人間を目立たせるのだから、必要な存在だ」という意味のこと を書いていたのである。わたしはまだたてまえとしての平等を信じ る青年だったから、ずいぶんなことを書く人だな、と反発すら感じ たのである。しかし、いまではその言葉こそ十分に真実なのだ、と 思うのである。  ブスやバカに陽があたる世の中は来ない。だからこそ、まず、冷 徹に真実をみつめることである。 「なによりも辛い現実を直視する勇気を持たねばならない」  これはおちた偶像になってしまったレーニンの名言だが、この言 葉は永遠に正しい。

Copyright (C) 1996 by たねり

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