written by WATA
T 中学を出る頃から、なんとなく教師になりたいと考えるようになりました。限 りなく上はあるわけで、勉強がそれほどできた訳ではありません。でも、小学 校の5, 6年の頃から、不思議と自分が理解していることを同級生と話し合いな がら伝えるようになっていました。放課後、数人が集まって宿題の勉強会もし ました。「教える」なんておこがましい。そうして友達と話をするのが好きだ ったのです。 今から13年前、教師となって教壇に立ちました。神奈川県の県立高校でした。 その1年目は悲惨でした。要は自分が世間知らずだったのです。人並みの苦労 もしてきたつもりでした。世間もいろいろと見てきたつもりでした。それでも、 生徒達は生徒達の数の分だけ、さまざまな人生を歩んできたのです。いけない と知っていながら、生徒達を自分の枠の中に入れようとしていたのです。 情熱は持っているつもりでした。でも、情熱だけでは何もできない。情熱をど う生徒に伝えるか、どう授業の中で形にするか、それが大切なのです。生徒の 中に入ることも大切ですが、熱くなるばかりではいけない。冷静に離れたとこ ろから、生徒を見つめられなければならない。自分がかけた情熱が生徒から跳 ね返ってこないような気がして、よく怒鳴りました。偉そうなことも言いまし た。 そう、殴ったこともありました。不真面目な生徒で、勉強しない割に口ばかり 達者なやつでした。「これは...、あれは...」と分からないところを教えるつ もりで放課後呼び出したものの、てんで上の空で早く帰れないものかとばかり 考えている。「だからさ、今度何点取れればいいのよ?」との一言に切れてし まいました。気がついたら相手の胸ぐらをつかんで壁に押しつけていた。最初 はグーで殴り、しまったと思って平手で殴りなおしました。同僚がすぐ飛んで きて、「職員室だから...」と会議室へ連れていってくれました。これでは、 ガキのケンカと同じではないですか。回りがすべて教師の職員室でやるなんて、 卑怯というものです。 「教師にやり直しはできるが、生徒はできない」「全体が見えて仕事ができる まで3年はかかる」仕事を始めてまもなく先輩の教師から言われたことです。 その通りでした。でも、最初のことばは「生徒にやり直しはできない。だから、 真剣にやれ」だけを意味するのではないことも分かってきました。「生徒はや り直せないが、教師はできる。だから、今年できなくても、来年できるように がんばればよい」肩の力を抜かなければ長い距離も走れません。 「できるだけ教室内で生徒に英語で考え、英語を話してほしい」英語の教師な ら、誰でも考えることです。しかし、実践するのは難しい。英語の自己紹介も、 本文の英語での要約も、生徒の心に響いてはいきません。生徒が欲しいのはた だ教科書の英文の日本語訳なのです。予習をしなくても済むように、書き込み 式のプリントを毎回配布しました。プリントを見ていさえいれば授業の流れが わかります。大切なこともわかります。これはなかなかうまく行きました。こ うして、「楽しく英語を話す」授業は崩れ去り、新出語句と英文の日本語訳を 口述し、生徒にはそれを書き取らせる授業となったのです。 旅行業務系の専門学校を希望していた女子生徒がいました。「英語の力を伸ば したい」というので、練習問題を渡し昼休みに答え合わせをすることにしまし た。5月から11月くらいまで、夏休みを除いてほぼ毎日続きました。少しずつ 口コミで広がり、最後は5人くらいの生徒を同じように指導しました。昼休み に行うため、食事が取れなくなることもありましたが、それは楽しいひととき でした。 でも、それは裏切られました。12月に入って、専門学校に合格するや、彼女は 全く勉強に興味を示さなくなりました。週の半分しか学校に出てきません。出 てきても「わからない」ばかりです。結局のところ、好きでもない勉強を我慢 してやってきただけだったのです。 最後の授業の時に、この1年の感想を書かかせました。胸を高鳴らせながら読 みました。全体としては「よかった」のような評が多くほっとしました。「こ の1年がんばってきてよかった」と思いました。無記名にしても生徒は当たり 障りのないことしか書かないものだ、とわかっていましたが、うれしくて何度 も何度も読み返しました。 U 1年間は副担任という形で、高校3年生のあるクラスの担任の補助をした後、1 年生の担任となりました。はじめてのクラス担任で気負いもありましたが、生 徒は良く、こちらの期待に応えてくれました。確かに、1年を通じてたばこや オートバイで謹慎がなかったのはあのクラスくらいでした。 クラスをまとまりのよいものにするには、生徒の中からリーダーを育てなけれ ばなりません。中学校からの調査書を読み、クラス委員の経験のある生徒を探 します。ある程度目星をつけておくのです。 黒浜君は出身の中学校で2年間クラス委員を続けていました。中学校での成績 も入試の成績も上位の方です。「誰も手を挙げる者がなかったら、この生徒に 頼むことにしよう」と考えていましたが、「誰かやってくれる人」との声に、 さっと手を挙げて応えてくれました。 黒浜君はとくにすばらしいリーダーシップを発揮したわけではありませんでし たが、ホームルーム(学級活動)などの時には、そこそこクラスの前に立って、 意見をとりまとめることができます。大掃除や全体集会などでも模範的に動い てくれます。 9月下旬の文化祭にはクラスでビデオ映画を製作することになりました。企画 は立てたもののなかなか生徒は思うように動いてはくれません。数回の話し合 いを持ちましたが「受けない」「やる気がない」とまとまりません。そうこう する内に、7月初旬の参加受付の締め切りが来てしまいました。結局、女子の 生徒の一人におおざっぱなストーリーを書かせ、それを担任が大幅に修正して、 脚本を作りました。学園もののドラマです。「そこまで担任がして良いのか」 とも思いました。ですが、「何とか成功させたい」という気持ちが強かったの です。夏休み前に脚本をクラスに配布し、「2学期早々に作業にとりかかる。 自分に何ができるかを考えるように」と指示しました。 夏休み明け、ビデオ映画での各自の役割を決めました。どうなるものかと思っ ていましたが、主役の男子、主役を支える女子の役は以外にすんなりと、立候 補する者がいて決まりました。黒浜君には自然と「監督」の役割が廻りました。 休み時間や放課後を主に使っての撮影でしたが、生徒の反応はなかなかのもの でした。自分が常時ついていなくても、そこそこ動いてもくれました。「恥ず かしい」と思いながら、どこかで「目立ちたい」とも考えているものです。こ こでも、中心となったのは黒浜君でした。楽しそうに回りの生徒に指示を与え ていました。 編集にだいぶ手間取りましたが、なんとか文化祭に間に合いました。企画の人 気投票では、「自分のクラスに必ず投票するように」と指示し、みごと「企画 賞」を受賞しました。文化祭の後夜祭では万歳三唱をして喜びました。 文化祭の後、黒浜君はクラスで「監督」と呼ばれるようになりました。勉強も スポーツもそこそこできて、リーダーシップもある。さわやかな高校生でした。 V しかし、黒浜君の笑顔は間もなくあまり見られなくなりました。2学期の中間 テストでは信じられないくらい成績が落ちたのです。しかも、週に2回、3回と 遅刻が増え、欠席も目立つようになりました。 放課後、保護者と連絡を取るため、自宅に電話をしてみましたが、出る人がい ません。ようやく夜10時過ぎをつかまえることができました。しかし、電話の 向こうはあの明るい黒浜君ではありませんでした。話をしてもすれ違うばかり です。翌日、本人と面談しました。面談の間、下を向くばかりでことばが返っ てきません。本人が顔を上げると、酒の匂いがします。それはあえて不問にし て、面談を続けました。ようやく、オートバイの購入のためアルバイトを始め たこと、両親がこの夏から別居していることを聞き出せました。 高校生がアルバイトに精を出すあまり学業がおろそかになる、というのはよく ある話です。夏休み、春休みであればともかく、放課後、ほぼ毎日行う者もい ます。時給の高いバイトを求め、年齢を偽って深夜の時間帯に働く者もいます。 なぜそれほどまでにお金にこだわるのか。お金と関係のなく、勉強やクラブ活 動を充実させた方が、その後の人生でどれだけ価値のあることか。教師は幾度 となく話をします。ですが、それは建前にすぎないのです。勉強だけして有名 大学に入って有名企業に就職できても、人が必ずしも幸福になれないことも教 師はもちろん知っています。 黒浜君の場合は少し込み入っていました。オートバイを買うお金も欲しかった のでしょう。家族を残して出ていってしまったお母さんのいない家で兄弟と過 ごすのがつらかったのかもしれません。お父さんは仕事が忙しく、黒浜君の寂 しさを十分汲んであげられなかったのかもしれません。アルバイトを止めさせ るのに十分なほど黒浜君の興味をかき立てる授業を教師は毎日提供していたで しょうか。 3学期の始めに黒浜君の父親に会うために、家庭訪問をしました。日曜日の朝1 0時です。黒浜君がバス停の近くまで出てきて待っていました。通された家は2 DKの団地の8階で、黒浜君はそこで、父親と祖父と2人の弟という男ばかりの5 人で生活していました。 通された部屋では弟達がテレビアニメを見ていました。挨拶している間もテレ ビを消してくれません。かまわず、黒浜君の最近の出席や成績について資料と ともに話を始めましたが、テレビの音が気になって、少しも言いたいことが出 てきません。父親に質問してもつっけんどんな答えが返ってくるばかりです。 家庭訪問は失敗でした。言いたいことも言えず、聞きたいことも聞けず、気が ついたらバス停に立っていました。 家庭訪問が失敗した最大の理由は、自分が持っていた「驕り」でした。教師が 日曜日に家庭訪問するのだから、親は厳粛に耳を傾けて当然だと驕っていたの です。黒浜君の現状を親に十分理解してもらえさえすれば、彼が再生すると驕 っていたのです。それが、話の最中もテレビアニメを消さない現実を前にして、 頭の中が空っぽになってしまった。情けない話ですが、あがってしまったので す。 家庭訪問の後も、黒浜君は変わりませんでした。深夜におよぶバイトの疲れか、 授業中よく寝ていました。最初のうちは注意もしましたが、やがてそれもしな くなりました。 黒浜君を担任したのはこの1年だけでした。その後、2年、3年と、生徒は毎年 クラス換えがありますが、学年を構成する担任のメンバーはごく僅かしか入れ 替わりません。黒浜君を担任する可能性はあったのですが、クラスの中にはい ませんでした。英語の授業で顔を合わせたこともありましたが、生気のない顔 は相変わらずです。周りの生徒も、もはや黒浜君が「監督、監督」とみんなか ら親しまれたクラス委員であったことも忘れているようでした。 出席が不足がちで、勉強らしいことはしないので、成績は常にビリの方でした。 それでも、もともと理解力のない生徒ではありませんから、そこそこ計算して、 成績会議に名前が出ることもなく、高校生活を過ごして行きました。 3年生になって、ようやく周りが進路のことを気にし出す頃になっても、黒浜 君からは何も具体的な希望が出ていない、と担任から聞きました。大学や専門 学校にに進学する気も、就職する気も彼にはないようでした。時間をつぶすだ けに学校に来て、そそくさとバイトに出かけていきました。黒浜君にとって、 高校は、ただ「高校を出た」という免状を得るためだけの場所なのです。青春 の日々の中央に位置する、輝かしい場所ではなかったのです。 W 高校3年生の授業は1月末で終わり、その後は3月の卒業式まで自宅学習となり ます。3年生を担任したその年、クラスはすべて3年生でしたので、2月、3月は 授業ゼロとなりました。当然、そういった教師には、入試や卒業式、入学式な どの雑務がまわってくる仕組みになっています。それでも、そこそこ有給休暇 を計画的に使えるようになります。そこで、教習所に通い、自動車の免許を取 得することにしました。 教習所では生徒によく会いました。この時期、就職活動や、短大、専門学校の 推薦入学も終了して、大学受験のない高校生が教習所押し寄せるからです。教 習所では緊張の連続でした。先生の言うとおり車を動かしているつもりで、な かなかうまくいきません。車を動かしながら、「先生は何て言ったんだ?」と 思い返したりします。久しぶりに、教師からできない生徒へと戻ったのです。 教習所の教官の多くが、退職後の警察官でした。中には練習生と横柄な対応を する教官もいます。「こいつだけとは練習したくない」と思えるような意地の 悪い教官がいました。練習中、「へただ、だめだ、やり直し」と厳しいことば かり聞かされます。お金を余分に出したり、練習生が集中しない時間帯であれ ば、そこそこ教官も選べるのですが、放課後や土・日中心の練習では、そうも いきません。それでも、嫌な印象しか持っていなかったこの教官から「あなた はもっとうまくならなきゃいけない」と文句を言われつつ、3段階のみきわめ の印をもらったときには、涙が出る思いでした。この教官はできの悪い練習生 をどなり散らしながらも、その成長を見守っていたのです。「先生、ありがと うございました」心からお礼を言えました。 その教習所は川原にありました。自分の配車の時間まで少し時間があったので、 土手に腰掛けて、コースの教習車を見ていました。春にはまだ遠いものの、暖 かい光が河原を包んでいました。 「先生!」 声をする方を向いてみるとそこには、あの黒浜君がいました。 「先生も教習所に来てたのですか?」 「うん、授業、ゼロになったからね」 黒浜君は次から次へと話しかけてきます。自分より2週間ほど遅く入学したも のの、今は自分と同じ段階であること。オートバイの免許を取得していたので、 これまで時間をオーバーすることなく進んできたこと。特殊な学科教習の予約 の取り方、無線教習の行い方など、自分が知らないこともいろいろと教えてく れます。その瞳の輝きは新入生の頃と同じようにきらめいています。 「先生、もうすぐ卒業式ですね。」 「うん。」 黒浜君が何を言い出すのか、ちょっと気になりました。彼にとって高校は何だ ったのでしょうか。 「俺は勉強しなかったけど、英語の授業は先生がいなかったら、進級も卒業で きなかった。」 「そうか?」 「本当ですよ。」 ことばになりませんでした。お礼を言われることなどなかったのです。自分で は黒浜君を指導したつもりなんてありませんでしたから。 その後も黒浜君は会う度に「先生!」と声をかけてくれました。バイトの合間 を縫っての練習でしたが、見る見るうちに自分を追い抜かして教習所を卒業し ていきました。 高校の卒業式が終わり、3月ももうすぐ終わろうかという春の日、自分の教習 所通いは終わりました。 X 1年生から3年生まで、持ち上がりで担任を担当したので、翌年は担任から外さ れ、2年生の副担任となりました。うまくできたもので、英語科の主任をはじ め、学年の会計、入試委員、PTAとの応対など、ここぞとばかりに雑務が回っ てきます。そもそも2年生の副担任になったのも、修学旅行の引率を希望する 教師が少ないからです。 神奈川県では「ふれあい教育」の名の下に、障害を持つ生徒が普通校に入学し、 統合教育が進められていました。勤務する高校でも、その年は、横浜市の盲学 校から全盲の生徒が入学することになりました。 この生徒の英語の授業を担当しました。彼はとても勉強熱心で、入学1週間前 に、教科書と付属の教材テープを入手するや、授業開始時には、テキストの3 分の1程度、暗唱していました。市内のボランティア団体が点訳した教科書を 美しい発音で音読しました。授業で使うプリントは母親が点訳できるよう早め に渡します。何よりも明るく、人なつこい性格ゆえ、みんなから好かれていま した。 球技大会の時はピッチャーを希望し、打者3人に投球しました。打者の打った ボールを受けるため、彼の脇に友達が1人立ち、「ここだよ、ここだよ」とい うキャッチャーめがけてボールを投げるのです。3人に対しフォアボール2つと 1安打で降板しました。降板の時、どこからともなく拍手がおこりました。感 動的な光景でした。 英語を担当していた関係か、この全盲の生徒は2学期から自分が顧問をしてい たパソコンクラブに入部することになりました。その当時、NECからPC-6601と いって、簡単な音声合成機能を備えたパソコンが発売されていました。このパ ソコン上でプログラムを組み、彼がタイプした文字をスピーカーから確認しな がら、BASICのプログラミングができるようにしたのです。 彼から出身の横浜市立盲学校に類似のソフトがあることを聞き、この盲学校を 訪問することにしました。約2時間ほど、校内の機器を見学し、教師や事務員 と話し合いを持ち、学校を出ました。やはり、盲人のパソコン操作には専用の さまざまな入力支援機器が開発されていました。 横浜線の大口駅前の喫茶店で今日の話をまとめることにしました。コーヒーを 注文してしばらくすると、店の奥の方から近寄ってきた人がいます。 「先生!」 黒浜君でした。 「なんだ、ここでバイトしてたのか?」 「バイトじゃないですよ、先生。本採用ですよ」 高校時代、長く系列の喫茶店でバイトを続けていた黒浜君は、高校卒業と同時 に本採用となり、3ヶ月の研修を終了した後、その喫茶店に配属となったので す。誰でも聞けばそれとわかる大手の喫茶店チェーンです。 「先生、車買ったんですよ、車! ホンダのプレリュード。」 「へーえ、すごいねえ」 「高校3年間で50万貯金しましたからね。先生は車買いましたか?」 「ああ、うん。中古のサニーだよ」 高校に入学してきた生徒はやがては高校生ではなくなります。このことが到達 点であるとしたら、高校は、高校生でなくても社会でやっていけるような教育 を提供する場、となります。黒浜君は高校の担任や進路指導部の世話には一切 ならずに自分で就職を決めました。バイトで明け暮れていた高校生活でしたが、 計画的に貯金までしていました。教師は彼の卒業にあまり貢献できませんでし たが、彼は十分高校の目的を達成していたのです。 複雑な気持ちでした。彼の3年間の成長は喜ばしいものでしたが、その瞳は決 して曇っていなかったことを見抜けなかった自分が悔しかったのです。 Y その年の5月、数年ぶりに大学時代の先生から電話を受け取りました。千葉県 に大学が新設され、その大学が教員を募集しているので応募してみないか、と いうのです。あいまいな返事をしていたところ、しばらくして大学の人事課か ら応募用紙が郵送されてきました。 高校での教師生活に限界を感じることもありませんでした。このまま、仕事を こなし続ける自信もありました。仕事を変わる不安もありました。それでも、 新しい職場には興味がありました。今と違った職場で働いてみるのも悪いこと ではないでしょう。「まあ、落ちることもあるさ」くらいの気持ちで応募した ところ、1ヶ月と待たずに採用の通知が届きました。高校の職場を離れるのは、 正直、さびしいものがありました。 Z 大学の教員となって、授業を教える方法は確かに変わりました。しかし、さま ざまな背景を持ち、時に悩み苦しむ者がいることは変わりがない。それは、部 分的には社会的には大人と認知される大学生を正しくそのレベルまで高められ なかった高校教育の問題でもありました。また、「大学生だから」と片づけて、 十分学生に対応しきれない大学の問題でもありました。 勤めて2年目の5月、こんなことがありました。 夜間部スペイン語学科の虻巣(あぶす)君は、茨城県の工業高校の出身です。工 業高校の英語教育が普通高校に比べていかに貧弱なものであるかは容易に理解 できました。どこの大学も合格しなかったため、3月後半に最後の望みをかけ て受験したら、合格してしまったのだと言います。欠席が多く、授業で質問し ても何も答えない彼を放課後研究室に呼び出して「君に単位は与えられない」 と申し渡したのです。話し合いはしだいにこじれ、やがて罵り合いになってい きました。 「英語ができなきゃ学校やめろって言うんですか」 大きな声が廊下を響きわたります。第7時限目、すなわち夜間部2時限目は9時10 分に終了します。すでに10時を回っていて、周りの研究室に人の気配はあり ません。 ふと、高校の教師となった1年目のことが思い出されました。生徒を怒りまくる だけの悲惨な1年でした。こんな風に怒鳴りあっていても何も生まれない。次の ことばを大声で投げ返したい気持ちをようやく抑え、あらためてこの学生を見 てみました。この学生は悩み、苦しんでいるのです。 「君は本当に英語がわからないんだ」 虻巣君はこくりとうなずきます。昼間の建設会社のバイトで薄汚れ、興奮のた め真っ赤にそまった虻巣君の頬を、大きな涙の一粒が、今、こぼれ落ちていき ました。 おわり この話はすべてフィクションです。実在のいかなる人物、団体とも関係があり ません。念のため。本稿執筆にあたり貴重な助言をいただいた主催者のグラウ コンさんに感謝したします。
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