イーハトーブの国のアリス(3)(承前)


                      written by たねり

3・金星音楽団の演奏会(承前)  アリスたちが演奏会場についたときには、モリーオの町民たちも三々五々と集まって おりました。公会堂の入口で、手にパンフレットをもちながらこれから始まる音楽会へ の期待をおさえきれずに、第6交響曲のメロディを口ずさんでいる学生帽をかぶった若 者もいます。高等農学校の学生さんかもしれません。こころなしか、どの顔も晴れやか で、頬がほてっているように見えました。小さい町なのに、音楽をたいせつにしている 人たちがたくさんいるのですね。金星音楽団はこの町の人たちの誇りなんだわ、とアリ スは感心しました。  「ごらんなさい、アリスさん」  レオーネ・キューストさんが小さい声で注意をうながしました。顔いっぱいに大きな 白いガーゼのマスクをした若い夫婦とかわいい女の子が、公会堂にやってくるところで した。  「まあ、ご病気かしら」アリスは、気の毒そうにいいました。  「あれは毒蛾の予防ですよ。ガーゼのマスクでも、気休めにはなりましょう。ほら、 あちらの太っちょのご年配は、わたしと同じだ。首を刺されましたね」  「まったく、なんて癪にさわる虫なの。みんなが音楽会をたのしみにしている夜を台 無しにするなんて」  「あっはっは。自然というやつはどうにもわたしたち人間の思惑をこえていますから ね。意味もなく存在しているものなどありやしません。毒蛾だって、きっとなにか深い わけがあって生きているのですよ」  「たしかに聖書にはそう書いてあるわ。神様がおつくりになったのでしょう。でも、 わたしがもしも創造の日に相談をうけていたら、毒蛾とかほかの虫とかはやめなさい、 といっていたわね。だれが喜ぶっていうの。せっせと毒蛾をつくるなんて、あたまがお かしいと思うしかないわね。なぜ、もっとすてきな花とかおいしい果物をふやそうって 考えなかったのかしら」  アリスが神様に苦情をいっているとき、ロビーから音楽会場につうじる扉が開かれま した。  第6交響曲は文句のない仕上がりでした。  トランペットは一生けんめい歌っていました。  ヴァイオリンは、曲想にあわせて、いろをもつ風のように鳴りました。  クラリネットはボーボーとミネルヴァの梟みたいに旋律にくわわりました。  ゴーシュは。  ゴーシュはというと、口をりんと結んで眼を皿のようにして楽譜を見つめながらもう 一心に弾いていました。  練習ではちっともうまく合わないで、楽長からどなられてばかりだったのに、今夜の ゴーシュはどうでしょう。演奏はぴたっとほかの楽器と合っていたのです。いえ、それ だけではありません。楽員たちは、ゴーシュのセロのいきいきしたリズムと強靱な響き にのせられて、第6交響曲の怒りだの喜びだのといった表情をあますところなく描きだ すのでした。これが、あのぎくしゃくしたリハーサルをやっていたオーケストラと同じ メンバーなのでしょうか。楽長は演奏がすすむにつれて、顔つきが変わっていきました 。苦虫をかみつぶしたような顔で、(ふん、どうせうちのレヴェルはこんなものさ)と いうちょっとさめた棒をふるのがかれの癖なのですが、今夜は1楽章の途中から顔が青 くなりました。(おい、どうしたんだ、いつもとちがうじゃないか) それが、2楽章 に入るとこんどは顔が赤くなりました。(これはどうだい。え、こんなみごとな第6交 響曲をいままで誰かきいたことがあるかい。ブラボー!) 楽長はからだ全体をゆらし ながら、もう夢中になって棒をふりました。そうすると、楽員たちもますますのってき ます。オーケストラとホールと、そしてアリスたちがひとつの響きのなかでとけて、大 きな光る音の流れになっていました。いま、宇宙の中心はここかもしれない、という思 いを、だれもが音楽をとおして感じていたのです。  ホールでは拍手の音がまだ嵐のように鳴っていました。金星音楽団の人たちは、ホー ルの裏にある控室へ舞台からぞろぞろ引きあげてきました。めいめい楽器をもって、ぱ っと顔をほてらして、演奏の余韻にひたっているのか口をきく人はおりません。楽長は ポケットに手をつっこんで、拍手なんかどうでもいい、というようにのそのそみんなの 間を歩きまわっていましたが、じつはどうして嬉しさでいっぱいなのでした。  ホールではまだぱちぱち手が鳴っています。それどころではなくいよいよそれが高く なって、何だかこわいような手がつけられない音になっています。大きな白いリボンを 胸につけた司会者が入ってきました。  「アンコールの拍手がすごいですよ。何か短いものでもきかせてやってくださいませ んか」  すると楽長がきっとなって答えました。  「いけませんな。こういう大物のあとでは、何を出してもこっちの気がすむようには 行きません」  「では、楽長さん。ちょっと挨拶してください」  「だめだ。おい、ゴーシュ君、何か弾いてやってくれ」 控室のすみっこで、一人ぽつねんとしているゴーシュに楽長が声をかけました。  「わたしが、ですか」ゴーシュは呆気にとられました。  「君だ、君だよ」ヴァイオリンのコンサートマスターもいきなり顔をあげて、ゴーシ ュを指さしました。  「さあ、出ていきたまえ」楽長がふたたびいうと、みんなもセロをむりにゴーシュに 持たせて、扉をあけるといきなり舞台に押し出しました。ゴーシュはじつに困ってしま いました。アンコールに応えるのに、なんで楽団でもいちばんへたくそな自分が指名さ れるのだろうか。孔のあいたセロをもって舞台に立つと、みんなはそら見ろ、というよ うにいっそうひどく手を叩きました。わあと叫んだものもあるようでした。  (笑いものにしたいのだな。よし見ていろ。“インドの虎狩”をひいてやるから)  ゴーシュは覚悟をきめると、すっかり落ちついて舞台のまんなかへ出ました。  なまいきな猫がゴーシュの小屋にやってきた夜のことを思い出していました。あの猫 のやつ、ロマチックシューマン作曲のトロメライをひけ、といったのだっけ。それでゴ ーシュははんけちで耳に栓をして、“インドの虎狩”を嵐のような勢いでひいたのでし た。あのとき、ゴーシュのセロは猫を充分に懲らしめてやりました。ひげからぱちぱち 火花をちらしたり、逃げ出そうとして扉にどんどんぶつかったり、さんざんな目にあっ て、最後には猫に「後生ですからやめてください」といわせたのでした。  (猫だろうと人間だろうとかまうもんか。あんまりひとをばかにしてる)  ゴーシュはあの猫の来た夜のように、まるで怒った象のような勢いで“インドの虎狩 ”をひきました。ところが、聴衆はしいんとなって一生懸命きいています。ゴーシュは どんどんひきました。猫が目といわず額といわずヒゲといわず、ぱちぱちと火花をだし て切ながったところを過ぎました。扉へからだをなんべんもぶつけて、ゴーシュの部屋 から逃げだそうとしたところも過ぎました。  曲が終わりました。ゴーシュはもう、客席など知ったことか、といちべつもしないで まるであの時の猫のようにすばやくセロをもって控室に逃げ込みました。控室では、楽 長をはじめ仲間がみんな、火事にでもあったあとのように眼をみひらいてひっそりと座 り込んでいます。ゴーシュはやぶれかぶれだ、と思って、みんなの間をさっさと歩いて いって、いつもの長椅子へどかっと座りました。  すると、みんながいっぺんに顔を向けてゴーシュを見ましたが、笑っているようでは なく、とてもまじめな眼をしています。 (こんやは変な晩だなあ)  ゴーシュがセロをしまおうとしてネルの布でふいていると、楽長が立ってきていいま した。  「ゴーシュ君。よかったぞお。あんな曲だけれども、ここではみんなかなり本気にな ってきいてたぞ。1週間か10日の間にずいぶん仕上げたなあ。10日前とくらべたら 、まるで赤ん坊と兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、君」  仲間も立ち上がって、口々に「よかったぜ」とゴーシュにいいました。  あくる日、アリスはゴーシュの水車小屋に花束をもってたずねました。なにしろ、ア リスの期待以上に演奏がすばらしかったものですから、ちゃんと気持ちをつたえておき たかったのです。レオーネ・キューストさんも、コンサートの帰り道に、しきりに首を ふって信じられないというのでした。「あのセロ弾きがあんなにうまかったなんて、い ままで気がつきませんでしたよ。今夜の第6交響曲は、セロがリードしていましたね。 バロックの通奏低音のように、がっしりと音楽全体をささえていました。いや、わたし たちのモリーオに、カザルスが育っていたなんて」  「そりゃ、絶対音感をもつ鳥やトロメライが好きな猫がいる街に、いい音楽家がいな いってほうがおかしいわ」  アリスは力強く断言しました。「環境がひとをつくるのよ」  ゴーシュの小屋の扉をノックしても、返事はありませんでした。まだ、寝ているのか しら。アリスはそう思いましたが、もうお昼近くでしたから、寝ているのなら起こして も罰はあたらない時間です。アリスはもう一度、ノックをして、こほん、と咳をしまし た。  「いいこと。入るわよ。寝ているのなら、わたしが起こしてあげる」  ドアには鍵がかかっていませんでした。あっけなく開いたので、アリスは何かいやな 予感がしました。一目で見渡せるゴーシュの狭い部屋には、誰もいません。粗末な椅子 とテーブル、シングルの藁のベッド。それっきりの部屋でした。  「まったく、殺風景だわ」  アリスは持ってきた花をゴーシュの使っているおおぶりの素焼きのコップにいれると 、テーブルに置きました。そのとき、テーブルの下にいちまいの紙きれが落ちているの に気がつきました。  イ警第3369号 聴取の要有之本日午前11時 本警察署人事係まで出頭致され度 し                              イーハトーブ警察署   ゴーシュ殿  アリスはその紙きれをポケットに入れると、もう一度部屋を見回しました。きのうコ ンサートで“インドの虎狩”をひいたゴーシュの愛用しているセロも消えています。警 察に行くのに、セロを持っていくでしょうか。コンサートでもないのに、そんなはずは ありません。  でも、セロの教授をするのならば楽器は必需品です。イーハトーブ警察署で、ゴーシ ュがセロを教える? 柔道や剣道ならともかく、セロを学ぶ警察なんてあんまりきいた ことがありません。でも、あったらすてきなんですが。  「何があったのか知らないけど、まあ、待ってれば帰ってくるわね」  アリスはベッドに腰掛けると、すこし眠くなったのでゴーシュが帰るまでひとねむり することにしました。                                  (つづく)

Copyright (C) 1997 by たねり NQG63965@biglobe.ne.jp


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