written by たねり
4・ゴーシュの失踪(承前)
イーハトーブ警察署は、街のメインストリートをかざる巨きな桜の街路樹のしたを歩
いていくと見えてきました。赤い煉瓦づくりの、ヨーロッパ風のがっしりした建物でし
た。アリスはケンブリッジの学生街のまちなみを思い出して、ほんのすこしホームシッ
クにかかりました。しかし、冒険物語ではいつも、最後までストーリーをすすめないと
なつかしい家に帰れないと決まっています。それに、アリスはいままでに何度も奇妙で
きてれつな国を旅してきたのですからね。イーハトーブではすくなくとも、人間と猫が
おもな住民だから、ぜいたくはいってられません。
(卵やトランプがしゃべったりはしないから、イギリスにいるときと同じ気分でいら
れるわ)と、アリスはじぶんに言い聞かせました。でも、イーハトーブだってほんとう
はかなり変わっているのですよ。そのとき、忘れてしまっていたのですが、かしわの木
が歌のコンクールをやる国はイーハトーブくらいのものです。
警察署のまえで、アリスはすこしどきどきしました。けれども、何も悪いことはして
いないのだから、とじぶんでじぶんをはげまして、元気よく玄関の正面の受付にたずね
ました。
「こんにちは、巡査さん。わたし、ゴーシュさんをさがしているアリスともうします
。昨日、こちらに来てからおうちに帰ってこないので心配をしています」
アリスはひといきにいうと、あっけにとられた顔をしている受付の巡査を見つめまし
た。巡査は事情がのみこめない様子で、手元の帳面をぱらぱらとめくりながら、
「きみはみない顔だけれども、いったいだれだね?」
と不審そうにききかえします。
「わたしはアリス。イギリスからきました。ゴーシュさんはイーハトーブで最初に知
り合ったともだちです」
「ああ、教会の牧師の娘さんかね。それで、ゴーシュがなんだって?」
巡査はひとりで勝手になっとくしたらしくて、もう一度アリスの話をうながしました
。アリスは巡査のかんちがいを訂正するのはやめて、つづけました。
「金星音楽団のセロ弾きのゴーシュさんです。ほら、先日、公会堂でコンサートがあ
ったでしょう。かれがきのう、警察に呼び出されて、それから、おうちに帰っていない
のです」
「ふむ。失踪者の件かね。しかし、まちたまえ。金星音楽団のゴーシュ君ね」
巡査は帳面を5、6枚繰って記録を調べていましたが、アリスを気の毒そうな目でみ
て、いいました。
「何かのまちがいではないのかな。きのう、ゴーシュという名前の人物が警察署に来
たという記録はのこってはおらんな」
「うそでしょ!」
アリスはわけがわからなくなりました。スカートのポケットをさぐると、ゴーシュの
部屋の床に落ちていた紙きれが手にふれました。アリスはものすごい勢いでそれを取り
出すと、巡査につきつけました。
「ゴーシュさんの水車小屋で見つけたんです。イーハトーブ警察署の呼び出し状でし
ょう。三毛猫だって、ほんものですぜ、っていってたのよ。それで、ゴーシュさんも愛
用のセロももぬけのからなのよ」
巡査はその紙きれを受け取ると、じっくりと眺めてからあたまをふりました。
「うむ。これはたしかにほんもののようでもある。しかし、ゴーシュとやらが昨日、
本署に来たという記録はない。いったいぜんたい、どうなっているのだ」
アリスはほっぺを膨らませて、きっぱりといいました。
「どうなっているの、ってわたしがききたいわ。まず、その呼び出し状がほんものな
のかにせものなのか。それから、ゴーシュさんが昨日来たのか来なかったのか。まんい
ち、呼び出し状がにせもので、ゴーシュさんが昨日来なかったとしたら、じゃあ、何が
起こっているの?」
巡査は目をしばたいて、眉間にしわをよせながらなんとか結論を導き出そうとしてい
ました。
「呼び出し状がほんもので、ゴーシュとやらが来なかったら、そりゃ公務執行妨害で
逮捕だ。呼び出し状がにせもので、ゴーシュとやらが来なかったら、誘拐の疑いありで
すな」
「誘拐ですって!」アリスは叫びました。「なんでゴーシュさんが誘拐されなくちゃ
ならないのよ」
巡査は「誘拐ならば金と相場は決まっている」といいはなちました。
「ばかじゃないの」アリスは巡査をにらみつけました。「ゴーシュさんが金持ちなら
、水車小屋に住んだりはしないでしょう。この街には市長とか銀行の頭取とかだってい
るはずよ。よりにもよって、いちばん貧乏な人間を選んで誘拐する物好きがいるとは思
えないわ」
ばかと呼ばれて、巡査はむっとしたようでした。
「ひとを見かけで判断してはいけない。きみたち西洋のバイブルでも、野の百合をみ
よ、といわれているそうじゃないか。古今東西、貧しいなりをしていても、じつは金持
ちだったりすることもある」
巡査は思いっきりキリスト教の知識をひけらかしましたが、まるでとんちんかんな引
用でした。アリスはこのままじゃラチがあかないと考えて、新しい提案をきりだしまし
た。
「まず、このイーハトーブ警察署の呼び出し状がほんものかどうか、事務のかかりに
確かめてくれませんか。元帳にあたればわかるはずよ」
巡査もたしかにこの呼び出し状にはなにか臭うものがある、と感じていたのでしょう
。しばらく待つように、とアリスにいいのこして、署の奥に消えてしまいました。アリ
スは受付の前に置かれた木製の長椅子にすわって、室内をみわたしました。書類が雑然
とつまれたデスクが5つ6つ。壁ぎわにはぎっしりとこれまた書類やら本やらのつまっ
た棚と、剣道の防具。視線を上げると、シンプルなかけ時計となにやら文字を書いた額
がありました。アリスは「天人常充滿」という額の文字をみて、神様はどこにでもいら
っしゃるってことね、とうなずきました。イギリスの少女が難しい漢字なんか読めるわ
けがない、といってはいけません。リアリズムは人間をつまらなくします。猫がしゃべ
るのにくらべたら、アリスが漢字やサンスクリットを読んだところで、なんの問題があ
りましょうか。
「アリス君といったね」
受付の巡査がふたりの同僚をつれて帰ってきました。巡査はじつに困惑した顔をして
います。どうやら、やはりあの呼び出し状には問題があるようなのです。
「このゴーシュあての呼び出し状なのだが、ほんものでありながら偽物である、とい
うことらしいのだ」
「ほんもので偽物? もっとよくわかるように説明していただけませんこと」
アリスが首をかしげると、事務のかかりらしい同僚が口を開きました。
「ほんもので偽物です。使われている用紙は、まちがいなくイーハトーブ警察署が使
用している召喚状です。しかし、昨日、ここに書かれているようにゴーシュ氏をわたし
たちが呼び出した事実はありません」
巡査がつづけました。「なにものかが警察の用紙をつかって、ゴーシュ氏を警察署に
呼び出したが、かれは来ていないし、アリス君のいうことを信じると帰宅もしていない
。まさに、ふしぎな出来事ですな」
「では、ゴーシュさんをさがしてくださいな」
「まず、近親者から失踪届けを出していただかないと、警察としては動けません。ゴ
ーシュ氏の親なり兄弟なりに、届けるようにいってください」
アリスは巡査たちがあまりにものんきなので、頭に血がのぼりましたが、ここで喧嘩
をしてもしかたがありません。アリスは怒りをぐっとのみこんで、いいました。
「ゴーシュさんは家族がいないから一人で水車小屋で暮らしていたのでしょう。わた
し、かれの家族がどこにいるかなんて、知らないわ」
「警察としては事件かどうかもわからない段階では、動くわけにはいかない。また、
民事不介入という原則もある。これがただの友人同士のいたずらだったら、あとで責任
を問われるのはわたしたちですからな、お嬢さん」
「そういうのを事なかれ主義というのよ。まったく、ネットワークの世界でエイズ誹
謗中傷をいいことか悪いことかわからない、といったPCVAN事務局のおつむのレベ
ルと、いい勝負だわ」
アリスはこのとき、時空を超えて作者とチャネリング状態に入っていたのでしょう。
イーハトーブとは関連のない情報が口をついて出てきてしまいました。巡査たちは時代
的な制約から、アリスの言葉が聞き取れなかったのももっともです。
「いま、なんていったのかね。ネトバクが大豆で、溲瓶の事務がなんだって?」
アリスは微笑みながら、きっぱりといいました。
「いいわ。ゴーシュさんはわたしがさがします。あなたたちは死ぬまで事なかれ主義
にしばられて生きてりゃいいのよ」
(つづく)
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