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人工知能について考える

草莽工房庵主敬白

電子機器の日常性からの飛躍

私がはじめてコンピュータに触ったのは、事務用プログラムとしてのCOBOLであり、パンチカードであった。紙にパンチされた孔が読みこまれ、CPUを経由してあの大型汎用コンピュータを動かす様は、まことに不思議でならなかったものである。
なぜ情報という無形のものが、あのごついラインプリンターや産業機械を動かすのか?
本にはプラスとマイナスの電気信号がビットという単位で働き云々と書いてあるが、理屈でそうだと言われても一向に実感がわかない。 つまりソフトウェアとハードウェアの接点が日常的な感覚を超えているのだ。

さらにVTRやオートフォーカス一眼レフなど高度な電子機器が次々に登場し、その感覚的な飛躍に驚かされた。
すなわち、カメラを例にとれば、昔のメカニックなカメラは、歯車とシャッターとレンズの組み合わせであり、複雑だといっても日常的な仕組みから逸脱するものではなかった。自分で分解しても構造がなるほどと理解できた。「ソフトウェア」なる魔法のような言葉で説明する必要はなかったのである。
ところが、ゲジゲジのLSI素子の入った電子機器は、そこで何をどうやっているのか、分解してもさっぱりわからないのである。
それゆえ、仕方なく、働きのプロセスはよくわからないものの、結果として非常に高度な働きをする人間の頭脳と似たようなものだという了解が広がり、「その電子機器の頭脳部分」という言い方がされるようになった。

このアナロジー的理解は人工知能という言い方にもあらわれている。 今や、パソコンの上に載ったプログラムがAIなどと称して氾濫するご時世となった。 むろん計算能力や精確な情報記録能力は、人間より優れたものは多々あるわけだが、それを人工知能と言ってしまっていいのだろうか?

人工知能と人間

生命としての働きがなくても、情報を記録し検索し判断する働きを「知能」と呼ぶなら「人工知能」という言い方もいいだろう。しかし、一方では「現在のAIは、あくまで良く出来たプログラムに過ぎず、人間の柔軟な創造力や意識はない。」ともいえる。しかし「生命」とはいったい何なのか? 「プログラム」とは何なのか? 「創造力」とは何なのか? 「意識」とは何なのか? そこには、それぞれ何冊もの本が書ける難問が横たわっている。

バリントン・J・ベイリーに「ロボットの魂」というSFがある。ここで、主人公のロボットは、はじめて生命としての自己意識すなわち魂をもったロボットとして描かれている。そして「魂とは何か?」を追求して、主人公は他のロボットや人間たちの世界の中を漂白するのである。

ロボットという形態が理解しやすいのは、それが人間に似せられた身体を 持っているからである。そこでは擬似人格としての個人性が付加され、人間的な物語が成立することになる。
エイミー・トンプソンの名作SF「ヴァーチャル・ガール」においても、プログラムとして生まれた人工知能たちの最終的な目的は、人間のように身体性を獲得し人間のように平和な社会を作ることである。
これらのSFは、ロボットという形態をかりることによって、かえって人間とは何かを明らかにしているように思う。

コンピュータのあり方:入れ物としてのハードウェアとそれを動かす論理としてのソフトウェア:
そこから、脳=ハードウェア、精神=ソフトウェアというアナロジーが浮かんでくるのは当然のことだろう。
だが、実際には、 人間を人間たらしめているのは、肉体から切り離されたソフトウェア=純粋精神ではなく、その身体性にもとづく知覚的世界やセクシュアリティー、社会性、歴史性、感情、気分などによって取り巻かれた総体なのである。
誤解を恐れずルーディ・ラッカー流に言えば、人間はハードウェアでもなくソフトウェアでもなく、ウェットウェアなのである。

記憶と意識

人間の中に記憶という情報が蓄えられているのは事実である。とはいっても、それはコンピュータの働きとはいささか異なる。
「知覚されたものごとは、情報化されてばらばらに蓄えられており、それらを前後の文脈の中で結び合わせる働きこそが記憶なのである。」(室井尚)
すまわち、人間の記憶はパソコンのような固定化されたデータベース形式ではなく、連想し構成する働きであり動的なものなのだ。

「時間性」もしかりである。人間の意識は、パソコンのように内部に定常的に機能するクロックを有しているわけではない。組み合わせる働きとしての記憶を、情報処理の手順として構成するときに生まれてくるのが時間意識なのである。

そして問題は意識である。冷静に自己自信を考えてみればわかるように、我々には純粋な意識という実体があるわけではない。あくまで、なにものかに対する意識であり、内容のない意識はない。ここでは現象学的な記述が目的ではないので、詳しく述べないが、少なくとも人間の意識が志向的なものとして身体性を条件とし、記憶や時間とともに「働き」としてしか現象しないのは明らかである。

それでは、現在の人工知能が高度化すれば、意識は発生するのか?

それはチューリングテストに合格するかどうかという問題ではなく、自立して環境に志向的に働きかけることにより自己を構成する働きがあるかどうかで判断しなければならない。(むろん、チューリングテスト自体の技術論としての「外から見てわからなければ」という難問は常に存在し、それが「ロボットの魂」のような傑作SFを生む原因なのだが・・・)

人工知能生命のあり方

だが、一番の問題は、私は人工知能はソフトウェアであって、身体を有しないという点にあると思う。先ほどから例にあげているロボットは、あくまで人工知能の特殊なあり方である。一般的には、それは光ディスク何百枚かは知らないが、ソフトウェアとしてバックアップ可能なしろものである。それが生命と言えるのか?

いや光ディスクというあり方も特殊かもしれない。今後のネットワーク社会を考えれば、むしろネットワーク型の人工知能が自然であろう。
D・アンブローズのサイコ・サスペンス「そして人類は沈黙する」では、世界中のネットワークにまたがる巨大な人工生命が描かれている。

だが、そうした形態の人工知能にはたして意識は存在しうるのか?

私は人工知能生命が不可能ということを論証しようとしているのではない。 生命という意味なら、必ずしも有機体に限定する必要はないだろう。
つまり、自己と環境との絶えざる情報交換の中で新しい自己を作り上げて行くというのが生命であり、この定義からすればシリコンチップの人工知能生命が存在しても何の不思議もない。

そこから、さらに進み、環境とのダイナミックなやりとりの中で意識が誕生するとすれば、人工知能生命も可能かもしれない。しかし、もし意識が生まれたとしても、それは人間のあり方とは全く異なるものだろう。なぜなら、意識とはあくまで「働き」であり、その生命のアーキテクチャーが人間と大きく異なる以上、その「働き」も異質のものであるからである。

Ver 1.03 (1999.2.1更新)

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