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ネット犯罪とモラルについて考える

草莽工房庵主敬白

   女性デジタル・クリエイターかつネットワーカーとして有名なCさんの話を聞く機会があり、そこでネット上で嫌がらせを受けた経験が話題となり非常に考えさせられた。彼女とその友人の二人は早くからインターネットに親しみサーバーを管理するほどになっていた。ところが当時は女性は少なく、好奇の目からか男性から悪質ないたずらをされた。とくに、その友人はメール・ボムどころか、メーリングリスト・ボム!!を仕掛けられたのである。そう世界中のMLに彼女の名前が無断で登録され、ものすごい量のメールが殺到したのである。サーバー崩壊の危機に立たされたが、幸い彼女たちは技術を持っていたので、2人で昼夜必死で世界中のサイトをアンスクライブルしまくり、それでもまる一週間かかったそうである。相手のプロバイダーまではわかるので、厳重に抗議したが、犯人の名前は教えてもらえず、「注意しておきますから」としか答えてくれない。警察も当時はちんぷんかんぷんで全く役に立たなかったそうである。
  彼女たちは、立ち向かう勇気も持っていたし技術も持っていた。それでも、裁判沙汰までにはしなかった。ましてや、普通の人なら、泣き寝入りしてしまうことだろう。おそらく、水面下ではもっとこうした事件は多いに違いない。

 昨今、インターネットに関係する犯罪のニュースが新聞を賑わさない日はないと言ってもいいくらいだ。特に注目すべき事件は「somo-memo」でこれからもフォローして行くつもりだが、ネットの未来を信じる者としては非常に残念である。  実際は、目新しい犯罪だけに、大げさにかき立てられすぎていると、私は考えているが、ネットワーカー自身が自分の首を絞める行為をしているのも事実である。 誰もが自由に簡単に情報のやりとりが出来るインターネットは、個人の夢やアイデアを実現させ、多くの素晴らしい可能性を今後も切り開いていくだろう。だがその便利さを悪用し、安易で陰湿な嫌がらせや、悪質な犯罪に利用する少数の輩がいる−−−そして、そのことがネットの世界を誤解させ、全くの無法地帯であるかのような印象を与えているのである。 このままでは、インターネットの良さをつぶすような、無用な規制が行われる可能性がある。
 これまでは、インターネットは人々の善意を前提にして構築されてきた。例えば、ホームページは公開を前提としているため、そんなにセキュリティーがきついわけではない。パスワードさえ盗まれれば、書き換えられてしまう。残念ながら、実際にそんな事件も起こっている。つまり現状では、少数の悪意ある人が、善意を前提として進化してきたネットのよさをぶち壊しているのだ。
 今後は、技術的にはセキュリティーの強化がはかられるだろうが、その面だけでも暗号化の手続きを加えたりして、これまでより使いにくくなるのは目に見えている。みずから、使い勝手を悪くし、そして下手をすれば、がんじがらめの法規制がかぶせられるかも知れない。まことに、情けない話である。
 本当はこれはモラルの問題であり、法規制などしなくてもすめば、それに越したことはない。しかし、モラルを破ることに暗い悦びを感じている愉快犯は、 我が身に危険性が迫らない限りやめようとは思わないだろう。 つまり、モラル論をかざしているだけでは、ネット犯罪が減らないということは、まことに悔しいが現実である。
 われわれは、自主的に実効力のあるてだてを考え、少しずつでもいいから、段階的に悪用を減らしていき、過度の管理をされなくてもやっていける、自覚のある人間性を持った、成熟したネット社会を作って行かねばならない。

 ではいったい、なぜこういう事態になるのか。主に4点ほど考えられるので分析してみる。結論を先に行っておくと、次に述べる諸点は、それぞれ部分的に正当であるが、全てではない。実際には、こうしたさまざまな要因が複雑に絡み合って現象してくるのである。

 (1)まず、実社会の犯罪がネットを利用するようになっただけで、ネット社会が特別なのではないという論点がある。この理論は、字面だけを追えば間違っていない。97年末884万人に達した我が国のIN利用者は、すでに7%の存在占有率を突破しており、犯罪者が紛れ込むのは当然の成り行きである。しかし、よく見てみると、一般社会の犯罪とは少し違う面があることがわかる。それは、ネット犯罪をする人たちの社会層である。ネット犯罪者には、世間的には高学歴で若く優秀と見なされる人の占める割合が高く、このことはネット犯罪にはある程度の情報リテラシーが必要であることを示しており、問題を複雑にしている。つまり、「いたずら電話」をする層とはズレがあり、ネット特有の犯罪者を生んでいるという側面があるのだ。
 また、その犯罪の結果としては、「いたずら電話」などに比べて影響力が大きく、デジタルで情報が世界中に流されるという意味で、従来の軽犯罪と同じであるとして済ますことが出来ないのである。

 (2)次に、パソコンという機械を相手に、自己が見えざる神のような存在になり悪いことをしやすくなるというもので、よく心理学者が新聞の解説などで披露する説である。確かに、人間には二面性があり、誰だって心の奥底では悪いことを考えたりする。普段は他人のまなざしが規範や倫理となってはたらき、その悪の部分は押さえられているが、夜一人でINパソコンの前に座ると、直接の他人の目は見えず、自分の心の規制が外されてしまい、誰にもわからない透明人間にでもなったような気になり、犯罪に走ってしまうのである。いわば、自己が実際には傷つくことのない、ゲームの世界の感覚なのである。
 これは、生(なま)の体験が減少しつつある現代人を蝕む病理とでもいえるもので、ヴァーチャルな手段が発達しサイバースペースが広がるにつれて増加する現象である。 だが、ネットの世界といえども、実際の人間がいてはじめてネットワークとして成り立つのであり、パソコンなどの情報機器は、あくまで便利なツールにしかすぎないのだ。 人間同士のつながりがあるから、ネットの世界は素晴らしいので、そのためINがここまで広がってきたのだ。犯罪をやる人間は、実際にはそのことをよくわかっており、被害者が実際に存在し、悲鳴を上げるからこそ犯行に及ぶのである。犯人にとっては、ゲームではなく現実だからこそ、面白くスリルがあるのである。とはいっても、その場に直接面と向かっていないという意味で、ヴァーチャルであり、それが犯罪をやりやすくしている点は否めない。

 (3)また、技術者・能力者の奢りという面も考えられる。「俺はこんなにすごいことが出来るのだぞ。どうだ。」というやつである。自分の能力を過信し、他人に解けないウィルス・プログラムを作ったり、セキュリティーを破壊することによって自己顕示欲を満足させるクラッカーと呼ばれる連中も、こういったところから生まれてくる。プロバイダーなどのサーバー管理者をねらって仕掛けてくるのは、決まってこうしたパターンで、たとえば「技術もないくせにエラソウな管理者面しやがって」「その程度のセキュリティーで俺の侵入が防げるか!」といった風な意識があるのかも知れない。が、実行にあたっては、自動巡航プログラムなどを作り、計画的に緻密にことを運ぶ確信犯なのである。こうしたの能力の高い犯罪者とのいたちごっこは、これからも続くであろう。
 問題は、こうした悪質なクラッカーと、フリーなソフトウェアを配ったりして、これまでインターネットの情報共有の文化を育んできた良質のハッカーとを区別しなければならない点である。私は、ソースコードを公開し、誰でも自由に手を加えられる真の意味でフリーなソフトウェアを育てたりしてきた人達を高く評価する。考えてみれば、貴重な情報を発信している個人のホームページは、ほとんどそうした動きと意識は通底しているのではないか。私は、この様々な情報を共有しようとする文化こそ、ネットのよさの一つであると考えている。
 だから、ヒステリックに「日本はハッカー天国」といった事実無根の理屈で危機感を煽るのは、一方ではネットのよさを萎縮させ、他方では新たに悪質なクラッカー達を生むことになる。  

 (4)さらに、若年層のモラルの低下が原因であるとする考え方がある。筒井康隆氏の弁ではないが、若者達のマナーの悪さは、目を覆いたくなるといわれる。私もさる1月15日、ある場所をたまたま通りかかったのだが、人も車もなぜか通れない状態なのだ。なぜかとよく見ると、その近くに成人式の会場があり、その周りにたむろする若者達が我が物顔にドデカイ車を不法駐車し、広い歩道も占拠し通行止め状態と化しているのである。大人達はすごすごとそこを迂回していたが、後で聞くと成人式の会場内はガラガラだったそうである。時代は変わったなと私自身は思ったのであるが・・・
 これは、一例にすぎないが、こうした傾向の原因はいったいどこにあるのか、家庭か学校か社会か、といったことがよく話題となる。統計的な事実解釈も含めて、これは、別の大きなテーマなので、ここでは述べない。とりあえずの問題は、若い層が占める割合の多いネットの世界に、この傾向が影響を及ぼしているのではないかということである。
 なるほど、某チャットなどの非常に軽薄なノリは、年輩者が参加しているとは思えないが、はたして、それが、若年層の倫理意識低下による影響だろうか? 可能性がないわけではないが、多くのネット犯罪発生の理由がそれであると考えるのは、早計であろう。ましてや、凶悪な少年犯罪とネット犯罪に共通性があるとするのはきわめて短絡的な思考である。

 他にも、政治的・宗教的テロとでもいうべき犯罪に、まったくの手段としてネットが利用されるケースもあるだろう。結局、ネットの便利さは、それを使う人のモラルによって、良くも悪くも利用され得るのである。

 最後に、誤解を招かないために、私のネットのモラル論を述べたいと思う。
 私は、ネットのモラルの確立云々を言ってきたが、儒教的な道徳原理を持ち出そうとしているのではない。逆に、ネットの素晴らしさは、現実の社会の権力関係を捨象して、各人が全て中身で向き合うところにあると考えている。それが、まさにネットの革命的なところなのだ。そう、ハンドルネームで向き合うところでは、大統領でも学生でも年寄りでも農民でも同じ土俵に立っているのだ。 性別・年齢・地位・肩書・職業・人種・宗教・学歴・財力はもちろん容姿や体力さえ問題ではない。 そんなもの、全部関係ない。
 その人と会話するときに現れる、その人の人間性がすべてである。
 こんな、スゴイ世界が他にあるだろうか?
 むろん、リアルワールドの矛盾も数多く、サイバースペースに持ち込まれており、完全に理想的な場所というわけではないが、 少なくとも個人対個人の関係は、リアルワールドより先をいっており、逆に現実の人間関係に反省を迫ってくる。
 相手の身分を自分と比較して、いちいち位置関係を確認して、敬語を使い分けるような真似は必要とされない。  そう、逆に、我々が普段、日常の権力世界に対して非反省的に持っている疑問を、ネットの世界は顕在化し突きつけてくるのだ。それは、(私の尊敬するネットワーカーの)Bさんの言葉を引用すると、「人間に上とか下とかあるんですか? 上だったらへつらって、下だったら不義をしてもいいという風に使い分けるんですか?」という問いである。
 ここは、儒教的な聖人君子志向の体制道徳とは対蹠的な場所である。
 ただ、その人の人間性がすべてということは、自分勝手な人は認められないということだ。 そう、自分の意見を聞いてもらうためには、相手の意見も同じように聞いてあげなければならない。目つきや刃物や、金や地位にものを言わすことは出来ないけれども、それぞれが対等で同じ尊厳性を持っていることだけは、絶対に保証されなければならない。 だからこそ、みんなが平等な世界を守るモラルが必要なのだ。
 モラルといっても、人それぞれ国や地域・世代によって違うはずだ、という意見もあるかも知れない。確かに、国によって法律は違うし、世代間の意識は同じではない。宗教的な戒律など、微妙な問題も存在する。
 しかし、人が人を傷つけるのが悪いことなのは当然であり、それは国や時代を超えているはずである。そうなのだ。実は、ネットのモラルとは、「相手の人格を尊重する」つまり「人を自分と同じ存在として思いやる」という実に簡単なことなのだ。

 現実の世界はそんなにきれい事では行かないのは事実だ。 いや、だからこそ、人はネットに共同の幻想とでもいうべきものを託すのだ。ネットのつき合いがきっかけになって、どのくらい多くの人どうしが友人となったことだろう。そして、普通なら、出会うことのなかった人たちが、ネットで魂を通わすようになり、力を合わせ、いろんな成果が生まれている。ネットこそ、人間の未来を先取りしているのではないだろうか?
 確かに、数少ない人たちがネットを悪用しているのは否定できないが、ネットが生んだ、そしてこれからもたらすであろう大きな可能性を育てていくことが大切である。

 ネットの世界は、現実の矛盾をスマートに避けているだけの単なる甘い幻想に終わるのか、それとも現実の世界をよりよいものに変えていく一つの原動力となるのか、勝負の結果はまだ見えていない。

Ver 1.02 (1998.2.11更新)


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