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自然と人間について考える

草莽工房庵主敬白

自然体験の矮小化

近代科学の発展は、人類に大きな利益をもたらすと同時に、自然や環境の破壊も産み落としてきた。 都市化する文明が、ますますそれを加速していった。 かつて、人間と自然の間にあった豊かな色彩とドラマにあふれた交流は失われていった。
生(なま)の自然体験は、生活の中では不要となり、わずかにリクリエーションの場としてしか、存在価値がなくなってしまった。
肉はパック詰めされた切り身であり、木はパネルの材料にしかすぎず、食料となる動物たちの飼育過程や屠殺過程も知らず、木が生きていた森の体験もなく、ただスーパーマーケットに並ぶ品物にすぎない。
まさに、「人間と生身のかかわりがあった自然が、切り身化していく」(鬼頭秀一)こととなった。

分裂のパラダイム

一方、思想的には、事物の世界が、人間の内的な精神世界から原理的に切り離され、宗教的倫理的側面を捨象し、科学的な実在として探求されてきた。科学的に見れば、人間は、地球という惑星に住む生物であり、そこには善も悪もなく、環境としての自然と食物連鎖の事実だけが存在する。
自然は、対象として研究され、操作され、加工される。
人間は、生理的反応の対象物としての身体と、全く主観的な精神の、二つに分裂させられてしまう。

だが、科学的なものの見方というのは、一つの抽象化された二次的なものにしかすぎないのである。
実際は、人間にとって、精神も肉体も分かちがたく結びついており、我々はひとつの主体として、いわば「受肉した主体」(メルロー=ポンティ)として行動しているのだ。

また、その人間の住む世界も、決して無色透明なものではない。ましてや、存在と当為、「ある」と「べき」が区別して現れるものではない。
おそらく生物量からすると、大したことのないい子犬や子猫を見て、多くの人はまず、たとえようもなく愛しく感じるのである。人間の赤子を見て、保護されるべき存在だと感じない人はないだろう。
極端な例をあげたが、どんな対象であっても、価値づけられて現れるということである。対象化されにくい自分自身さえも、気分や調子・不安といった非意識な色づけを免れないのである。
つまり、実際の状況の中では、人は自ら引き受けなければならない価値的な世界に生きているのである。
それは、「世界−内−存在」(ハイデッガー)という言い方をしてもいいし、 もっと、大胆にいえば「人間は倫理的に住まう」(オギュスタン・ベルク)といってもいいだろう。
それにも関わらず、あらゆる分野にわたって科学的な見方を押しつけることは、我々の人間性自体を損なっているのではないのか?
そのことが、人間とって母なる自然を忘れさせ、自然破壊を呼んでいるのではないか?

しかし、問題はそんなに単純ではない。
人は、状況の中で、価値的に生きているのは確かだが、さすれば各人それぞれの価値観があり、好きなように生きればいいのであって、「普遍的にいい」など言えないのではないか? いわんや「環境倫理」など何を持って基礎づけられるのか? という疑問が湧いてくる。

自然の再価値づけ案

そこで、一つは自分の状況性を逆手にとって、いわば風土の倫理とでもいうべきものを見いだそうとするやり方がある。和辻哲郎の哲学はまさにそうしたものであるし、仏教的伝統が自然を対象化しないところから、日本には多く見られる考え方である。自然と自己をできるだけ同一化し、そこに「気」や「風水」を見て取ろうとする老荘思想などの自然観にも通底するものである。さらにこの方向を徹底すると、アニミズムへと傾斜し「自然へ帰れ」と叫ぶ、一部のエコロジストの主張にもつながる。
これらの考え方には、生(なま)の自然に対する素朴な愛情があふれており、共感する部分も非常に多いが、私は基本的には賛成できない。
某哲学者が趣味で「縄文への憧憬」を語るのは勝手だが、そこから日本という局所的な風土によって思想が基礎づけられるとき、きわめて危険な様相を帯びてくる。偏狭な民族主義が地理的決定論と結びつき、それぞれに普遍性を詐称しはじめ、一例をあげれば「日本の伝統文化が人類の危機を救済する」というところに至る。和辻哲学が国家主義的立場へと堕していったのは、風土の倫理のたどる一つの運命だった。

一方、アニミズム的エコロジーも、原始共産制的社会へ逆行することで権力性を否定するように見えて、実は、近代的な主体性を否定することで、個人の自由を土俗への帰属に置き換える点で、風土の倫理と同じところにある。ただ、その風土性をおこがましく世界性に拡張しないだけである。いや、本当の自然人は、「環境倫理」などとは無縁であり、ましてや「自然」を愛でることもないし「世界平和」を語ることもない。決して世界性を持つことができないのである。

環境倫理の可能性

それでは、いったい何によって環境倫理は可能となるのか。
  私の考えを述べたい。
メルロー=ポンティが「行動の構造」の中で明らかにしたように、あらゆる有機体はその存在仕方において、環境によって作られつつ環境に形を与える存在である。そして、人間はそのことを意識的に再構成することによって、自然をつくりかえることのできる唯一の存在であり、それゆえ自然に対して倫理的に関わることを運命づけられている。
人間以外の存在はそれ自体としては倫理的存在ではない。
人間が、人間と人間以外のものとの関係を倫理的なものにするのである。
人間こそが「自然と人間の共生」を実現することができる。
より哲学的にいえば、環境世界への投射的な関係が、まだなっていないものになるように求めるということ、「世界を投射するような場にいるべきであるという、一種の当為が生じる」(オギュスタン・ベルク)ということである。これは、まさにハイデッガーの「現存在」の定義にきわめて近い。

本当の意味の風土とは、人間にとって意味づけられた環境(自然・社会を含めて)のことであり、倫理的に住まわれた各人のかかわる世界である。いいかえれば、状況の中で価値的存在であることが、人間の存在の条件である。
実際は、人間は、常にそれぞれの場所の状況の中でしか出発できない。
だからこそ、必然的にその場所に住む者たちが、その場所について責任を負う。
だが、それだけでは地域的なエコロジーは生まれても、環境倫理の世界性は生まれてこないのだ。
これまでは、そこが大きなアポリアであったと私は考える。

しかし、今日、情報化の進展により、「住む」ということが違う意味を持ってきはじめた。「サイバースペース」の誕生であり、その端的な象徴が「インターネット」である。
ネットの世界では、時間空間の壁を越えて、人と人とがきわめて簡単に、いや時にはきわめて濃密に交流することができる。これまで、地域性を持たざるを得なかった個々の人間の活動が、日常的に一つ一つ世界性を帯びてくるのだ。(もっとも、それゆえに、地域日常的なリアルワールドと、世界日常的なサイバースペースの自己分裂の矛盾に悩む人もいるが・・・)
これまで、「Think globally,act locally」でしかなかったものが、「Think globally,act globally」になったのである。

この段階にいたって、はじめて、ジム・ラヴロックやピーター・ラッセルのいう「ガイア仮説」が意味を持ってくるのである。
「地球生命圏」という視点から世界をとらえ、人類史上かつてない段階に我々は今いるのだとするガイア仮説は、きわめて魅力的なものであり、環境倫理の世界性をわかりやすく了解させてくれる。
とはいっても、これまでは、ユニークで巨視的な生態学仮説にすぎなかったが、ネットの発展によって、各個人の生きる場との関わりが本当に生じてきたのである。
すなわち、コンピューター・ネットワークが「グローバル・ブレイン」であるとする彼等の考え方も、インターネットの普及により現実のものとなってきたのだ。
ずばり、「インターネットはグローバル・ブレイン」(立花隆)というわけである。このことは、何を意味しているか。

結語

私はガイアは生態系の仮説以上のものであると考えている。生態学そのものから、原理的には、倫理は生むことはできない。ガイアは生態系の科学的実在ではない。ものとしてガイアという巨大な有機体が実在しているわけではない。
いまやガイアは「我々を通してめざめ、彼女自身を自覚しているのだ」(ジム・ラヴロック)
それは、ネットを通じて、世界中の人間が「グローバル・ブレイン」として地球的規模で心を通わせる、その関わり方の存在論的位相である。
比喩的にいえば、個人が存在論的に世界に倫理的に住まうように、ガイアは「宇宙−内−存在」として、自然に対して世界性を持って、地球的規模で倫理的に住まうのである。
むろん、これはメタファーであるが、ここには、人類の存在の条件として、環境倫理の世界性が生まれる場所がある。
いわば、「生身」の自然生活的世界が、「切り身」の都市生活的世界を経て、「映し身」の仮想的世界に至り、はじめて日常的なネットワークの「世界性」が獲得可能となったのである。
サイバースペースの世界を徹底したところに、社会的リンクと文化的リンクを結び付ける世界が出現し、生活者と観察者の自然が合流し、日常的な環境倫理のネットワークが広がって行く。それこそ、地域的な共同体関係に基づく風土性を越えて、真に「自然と人間の共生」が実現される可能性を示唆しているのではなかろうか。

Ver 2.01 (1998.10.8更新)

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