旅の楽しみのひとつは、食事である。
現地の料理を食べるというのは、その地方の文化に深く接する最もよい方法だ。
特に自由に街に飛び出し、美味い店を見つけた時の喜びははかりしれない。
香港で食べた臭豆腐、
ナポリで食べたピザ・マルゲリータ、
パリで食べたクレープ・ド・コンプレ、
カイロで食べたエジプトパン、
カンボジアで食べた魚醤風味のスープ、
アラスカで食べた子持ち昆布、
シンガポールで食べた汁そば、
スイスで食べたソーセージ、
そして日本は郡山で食べたラーメン・・・・
旅で美味かったと私が思い出すままに挙げるものは、何故か現地では安い庶民の一品料理である。
無論、高級なフランス料理や中華料理、日本料理のコースは美味いのは間違いない。しかし、高級料理はそれなりの対価を払っており美味で当然である。安くて美味いものは、「この値段でこの味!」という意外性と感激があり深く印象付けられるのだろう。(そしてそれを買って食べた街角や食堂の風景も一緒によみがえって来る。)
日本でも500円で食べられる超美味なラーメンに出会った時の感動は大きく、その後私はラーメン・フリークになってしまったほどだ。
ただ、私がおいしいと感じたものが他の人にとっても同じとは限らない。
特に自分の生まれ育った地域の食事とかけ離れたものの場合は、好みが極端にわかれてしまう。
そして、何処に旅しても、そうした珍しい料理を好む人と、嫌がる人に、タイプが分かれてしまうように思うのだ。つまり、旅の食に対する態度が、2つの種類の人間を顕在化させるのだ。
思うに、人間の類型として、「まもりタイプ(状況膠着型)」と「ひろがりタイプ(状況滲出型)」の2タイプにわけて考えることが出来るのではなかろうか。
いきなり、変な理念型を持ち出したが、要するに「まもりタイプ」とは自分の生まれ育った状況にこだわる方向で生きる人であり、「ひろがりタイプ」とは逆に自分の状況性から脱出しようとする方向で生きる人である。ことわっておくが、どちらが良い悪いというのではない。人間の存在論的なあり方を、(極端に類型化することにより)二つのタイプにわけて考えることが出来ると言っているのだ。
理屈や口先ではいろんなことを言えるが、そのタイプが生き方として一番正直に現れるのが、食べ物にたいする態度である。「まもりタイプ」の人は、自分の慣れ親しんできた食べ物を変らないものと感じており、わざわざ新しい食べ物を体験したいとは思わない。
一方、「ひろがりタイプ」の人は、自分の慣れ親しんできた食べ物に満足できず、いつも新しい変った食べ物を体験したいと感じている。
自分の状況性に対する根源的な態度が違うのだ。
旅に出てみればすぐ分かる。はじめてインドに行かせて、カルチャーショックを与えてみて、「二度とインドに行きたくない」というのが「まもりタイプ」であり、「よかった、またインドに行きたい」というのが「ひろがりタイプ」である。
「まもりタイプ」の人は、旅に出て、ますます「日本」にこだわるようになる。
いつも日本食レストランを探しまわる。ところが、「ひろがりタイプ」の人は、旅に出て、ますます「日本」から離れて行く。現地の食べ物になじんで日本料理など食べたいとは思わない。
そして、年配者になればなるほど「まもりタイプ」が多くなる。年配者の多い海外ツアーの添乗員は、常に日本食レストランの場所を知っておらねばならないそうだ。
でも中には、生涯徹底的「ひろがりタイプ」の人もいる。私が以前、海外行で同行したK氏は、当時77歳という高齢の「おじいさん」だったが、「なんで海外に来て日本料理を食べにゃあならんの?」とのたまい、常に現地の変った食べ物を探していた。
もともと人間には、状況を守ろうとする態度と、状況を脱出しようとする態度が共に存在している。普段は、それがせめぎあいながらも、状況の中にありながら少しづつその状況を変えていくという、バランスのとれた形で機能し、人間社会が成り立っているのだ。
それが「旅」という非日常的な特殊な状況の中では、どちらかの面が強調されやすいのだろう。
食べ物の面白いところは、理屈で「これは美味しい」とわかっていても、どうしても食べられないものがあることである。テレビで「食わず嫌い対決」とか言って、相手の食べられないものを当てる番組があるが、「え、こんなものが!」と驚くような普通のものを食べられないケースが多々ある。
食欲とは人間の最も根源的なものである。人間は雑食性を獲得することにより進化したとも言われる。そこは人間の生き方が如実に現れる場所でもある。
人間は自由な存在であるといわれている。しかし、それは単に頭の中で何でも考えられるということや、言葉で好き勝手なことを言えるということではない。
知的な選択よりも、より根源的な選択が問題になるのだ。
それは人間の五感に直接働きかけ、生き方の根本にかかわってくる。
性的な触感、食べ物の味、花の香り、雷鳴の音、都会の造形、服装、髪型、嗜好品、人との接し方、性格、話ぶり、気分・・・
そうした、人間存在の感じ方・かかわり方までも、人間は権利上選択する自由を持っているのだ。
痛みを快楽として選択するマゾヒズムなど、フロイトのおかげで「性欲」はそうしたあり方の典型として、これまでにも多くの芸術作品の深いテーマとして取り上げられてきた。ところが、「食欲」のほうはさほどでもなかった。
もっとも、日本では、食べることや花を愛でることなど、趣味的な世界を、わざわざ様式化することで権威づけ人間の精神修養に応用しようとする伝統がある。それこそが、千利休が始めた茶道であり、また「生け花」である。
近代に「食の美学」を実践した人として魯山人の名を忘れてはならないだろう。また、食にこだわった作家としては、開高健がいる。
現代には現代人のテーマがある。
それは文化の国際化でありグローバリズムである。
いま世界を旅する日本人が驚異的に増えた。「庶民が世界を体験する時代」が到来したのだ。これは、良い意味で大きな事件であると思う。
そして、その際、世界の食文化が大きな刺激を与える可能性が高い。かつて中国へ出兵した人たちが「焼餃子」という日本の食文化を生んだように、新しい各種の食文化が誕生するだろう。(すでに和製「ラーメン」は一大文化だが、さらに「イタメシ」や「アジア屋台」が市民権を得つつある。)
そして世界の重要文化の一つ=食を取り入れ、模倣しながらも、新しいものを作り出す日本人。考えてみれば、米や仏教や漢字を取り入れた古代の頃から、日本人はそうした柔軟な感性と才能を有していたのかもしれない。