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 愛と自然について考える

草莽工房庵主敬白

 

  ある人とメールのやり取りをして、愛と自然について、ずっと考え続けている。
 「罪深い」あるいは「罪」とは何なのか?
 罪というからには何らかに対して罪になるわけで、 ここでは法律などに対して言っているのではないだろうから、 そうなると何に対してかということになる。
 どうも私の場合、そういう感覚があまりピンとこない。
 これは、原罪、罪というのは、人格神・唯一神と対峙する時たち現れる倫理、つまり一神教的な発想ではないか?

 私は、どうやら本質的に仏教的というか多神教的いやむしろ汎神論者らしい。生けとし生けるものすべてを包み込むような倫理世界があるように思うのだ。そして、全ての生命は世界の中で、時間的にも空間的にもつながっており、地球という一枚の布に織り込まれた糸なのだ。そいて、またその地球は太陽のまわを回り、暖められ生命を育み、そしてその太陽は・・・・
 それが、自然全体の共生と調和の意思としての「ガイア」の考え方につながって行くのだが、ずっと昔は、そんなことは人間にとってあたりまえのことだったような気がする。
 こんな理屈っぽい言い方でなく、身体で「自然と愛」について人間は了解していたはずだ。

 まさに、ここで語られているのは、「野蛮人」といわれる原始的?社会の人々がいかに倫理的であるか、そして逆に、文明人といわれる人々がいかに「野蛮」であるかということである。
 また、神様からのお叱りの必然性が述べられているが、これはアイヌの人達は、自然が異常を復元する偉大な力を持っていることをよく知っていたことを示している。

 私も、今日の異常な自然の破壊が何を生むか、すなわち自然界のアンバランスに対するフィードバックが怖い。ガイアの復讐とまで行かなくても・・・きっと何か起こるのは間違いないだろう。

 さて、汎神論的考え方をする場合、倫理は、人格的な神に対する罪ではなく、自然という人間的な人格を持たない偏在に対しての責任となる。
 それは、逆に言えば、判断基準が「自己と世界」の中にしかないとも言える。
自分が行なうことが、いかに適切かというのは、自分が身体という形で、この世界全体とかかわる、そのかかわり方そのものでしか判断できないのだ。

 そして、それが人間の愛の問題となると、まさにお互いの人格のかかわり方ということになる。
 「不倫」とは、社会的倫理のあり方と矛盾する愛の形が生まれる現象である。例えば、ある異性を愛するようになるのは、その人の人格と自分の人格とのかかわりの中で愛するようになるので、社会的倫理にかなっているから愛が生じるのではない。
 むろん、社会的倫理はその社会に暮す人間にとって枠組みとしてはたらき、それに反する行為は心理的に規制される。それだからこそ不倫はドラマとなり、スキャンダルの格好の題材となるわけである。

 まあ、そういったことはともかく、愛とは異性に対する恋愛だけでなく、家族・組織・社会・自然といったものにも程度の濃淡はあれ働くわけだから、それらをどう考えるかが問題となる。文明社会という「野蛮」が世界を動かし、人間が社会という巨大な組織の中で生きざるを得なくなった時、愛は分裂し悲劇を生む。

 この問題は、はるか昔に、中国で儒・法・道・墨などの思想としてすでに論じられたものである。個人的な愛を否定し国家・組織にもっとも重点をおくのが法家であり、仁孝悌の家族愛の倫理の序列により世を律しようとするのが儒家であり、兼愛という形で無差別・平等に愛を注ぐべきだとするのが墨家であり、人為をしりぞけ無為自然のままに生きろというのが道家である。これに自愛と快楽を説いた楊子を加えればほとんどの愛の論説のパターンが出尽くしている。

 それぞれ一面の真理をついているが、法家や儒家のありかたがこれまでの歴史の主流であり、体制的道徳として社会的倫理の枠組みを作ってきたのは事実である。 社会的な効率を考えれば、組織の重きをおく倫理は有効だろう。滅私奉公〜会社人間〜儒教やプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神・・・・そこには共通する何かがある。
だが、そうして進んできた文明社会が曲がり角に来ている今こそ、墨家や道家の思想を見直し、自然との共生の愛の倫理を蘇らせることはできないかと思うのだ。

Ver 1.03 (1998.9.24更新)


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