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おしゃべりんぐ


8月24日
T先生

T先生は、私が高校1年生だったときの担任だった先生だ。 担任発表の前のうわさは、 「慶応を出てすぐうちの高校に赴任、2年間の副担任を経ての 初担任らしい。」だったのに、もう何十年もジミに 先生やってますってかんじの真面目そうな実際の風貌にちょっと 落胆しながらの出会いだった。

ところが、 専門の国語の授業は、現代文古典漢文どれもわかりやすくて面白く それも、 顔に似合わずとてもいい声の持ち主で、ガッチャマンなどの ヒーロー物主題歌を歌わせると天下一品。 特に現代文の朗読はラジオドラマみたいな臨場感があった。

進学校なのに 「高校生活を勉強だけで過ごすな」 が口癖で文化祭や体育祭クラスマッチなどの 行事には生徒より燃えていた。
進路指導にも熱心で、3者面談の時「で、この志望校に入らなかった 場合の滑り止めはどうしましょう、短大?」のT先生の問いに 母が「いえ、リンガーハットの皿洗いです(※)」答えたとたん職員室中に ひびく大声で(それもいい声)笑われたものの、なにかといっては 「大学かリンガーハットか、決めるのはおまえだからな」と ハッパをかけてくれた。

※リンガーハット・・・長崎名物チャンポンの ファミリー向けチェーン店。我が家でのいつもの進路の話は この母のセリフどうり大学行くなら滑り止めなしの1校、 落ちればマジで即バイトに行かされそうな雰囲気だった

とても楽しい1年間だったし、実際同じクラスだった全員が そう思っている。


2年生になり、T先生は私の隣のクラスの担任で国語の担当も違ったので 廊下であいさつする程度だったが、夏休みを迎える頃になっても 同級生だった子と「T先生が担任だったら楽しいのにね」と話していた くらい、担任離れできていなかった。

夏休みといってもうちは県内トップの進学校の名を維持するために 毎日補習という名前の授業があっていて、 休みはお盆の3日間のみである。

その盆明けの最初の補習の日、私は生まれてはじめての遅刻で 超あせりながら学校にきた。補習はもう始まっていたので 職員室や校長室の前をまわって教室に行こうとしたら、 校長室のドアがあいて英語担当の先生がにょきっと顔をだした。
「どうした?」あ、遅刻しました。「はやく教室にいきなさい」
絶対しかられるだろうと身構えていたのに拍子抜けしたのを覚えている。 そして、先生の目が赤かったのも。

補習が昼で終わってホームルームの時間。 隣の教室から笑い声に混じってT先生の声もきこえる。 また、去年みたいに変なテーマで盆休みをスピーチさせてるんだろうな とばかり思っていた。

部活があるので外でお昼ご飯を食べて校内へ戻ってきたとき
友達が泣きながら
「今朝、T先生死んだって」と教えてくれた。
「連絡なしに学校こないから、K先生が家に様子をみにいったら・・・」
K先生は遅刻した私がはちあわせた先生だ。

T先生は自殺していた。
前々から元気がなかったそうだ、でも、遺書もなく、なぜ死んでしまった のかはわからずじまいである。
数日後、先生の実家のある田舎へ元クラスメイト全員で行った。
写真の中の先生をみても、写真のまわりのお葬式のかざりをみても 全然実感もわかず、涙もでなかった。
でも、お母さんの「足、くずしてね、あの子も行儀良くなかったから」 っていう言葉に、いつも職員室でイスの上であぐらかきながら 出前のラーメン食べたり、よれよれのYシャツをだらしなく着て、 首からかけたタオルで汗ふきながら 「勉強しよるか?」と心配してくれる先生を思い出した。
涙があとからあとから出て止まらなかった。

あなた達に持っていてほしい。と、ご両親が本やレコードの私物を 分けてくれた。本はすごい量だった。 私は三木清の「人生論ノート」を頂いた。
でも、一度も開いてない。

今年、先生の歳を越しました。 つらいなぁと思うこともあったけど、死のうと思うことは一度もないよ。 死んだらそこで終わりだもん、生きていれば楽しいことうれしいこと きっとあると思う。 世の中たくさん選択肢があるんだから、死を選ぶのは人生のルール違反と 思うよ。

毎年、お盆があけると先生とご両親のことを、ふと思い出します。
そして、あの時、隣の教室から聞こえてきた声は空耳じゃなかったって 毎年思い直すのです。

私たちもいろんな方向に歩んでいって、見守るのも大変だろうけど これからも見ていてください。


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