MinMin's Diary
エイプリールフールも無事に過ぎました。
最近は「こめかみ痛い」事件が増えています。
自分の価値観だけが絶対で、他人の持つ価値観を「そういう感じ方もある」とか「そういう意見もある」と受け入れられない「自分が真理」という考えの人達。
そしてあまりにも自分に都合のいい考え方しかしない人達。
さて、今日も今日とで「批判することだけならいっぱし」なメールをいただきました。
こういう人には公の場でお返事をする方がいいかもしれません。
読者の声というシステムを使っての投稿ですからね。
かっちりお返事させていただきます。
Subject:<主催者のポリシーが・・・ >
> お世話になっています。E-Magazineです。
> 季刊.たんぽぽのわたげの読者の方から
> メールが届きましたのでお送りします。
>
> HP拝見しました。
> 事務局?主催者?の姿が見えません。
> 日本語ができる事を条件になさっている事で、想像するのみです。
>
>
HPのトップページにも書いてあるとおり、姿が見えなくても2年間も運営していればそれなりの実績はあります。
あえて「見て見て」と目立ちたがりじゃないスタッフが多いだけです。
スタッフがいちいち出てきてまとめるような内容じゃありませんし。
別に自分達が誉めてもらうのが目的でもありませんから。
気持ちよく作業をするために耳に心地よい言葉ばかりを要求するようなヤワじゃありません。
やりたいからやってるだけで、姿なんて見えなくてもいいと思っています。
その姿が見えなくて不安なら参加していただくのを強要することもしません。
さて、どういう団体か想像されるにあたって、ヒントをひとつだけお教えします。
全ての作業をスタッフが自腹を切ってしている完全な非営利団体ということです。
どのように想像されるのも御自由ですが、別に私達スタッフの姿が前面に出るのが大事だとは思いません。
結果さえ出せれば良いのですから。
日本語ができる事を条件にするのも、共通言語を取り決めないと収集がつきませんし、スタッフの母語は日本語だからです。
マンパワーには限界があるので、色々な言語でするわけにはいかないからです。
もし中国語で同じ事をしたいとか、英語で同じ事をしたいという方がいらっしゃるなら、ノウハウは伝授いたしますので、どうぞ御連絡ください。
私達はマルチリンガルじゃありませんから、そんな大それたプロジェクトはできません。
自分達が出来る範囲で自分達の出来る限りのことをするのが細く長く続ける秘訣かもしれません。
海外生活での言葉の問題や異文化の中での人間関係の問題は経験した人でなければ解らないでしょう。
そういった体験を通じて、たんぽぽ組を設立いたしました。
日本語で話をする相手もおらず、異文化の中に一人取り残されていた人が、たんぽぽ組を通じて色々な人と出会えたという報告も受けています。
こういった交流が必要な人もいますし、不必要な人もいます。
必要な人に必要な部分で役に立っていればそれで問題はないでしょう。
そこに私達スタッフの姿がいちいち介在する必要もないと思います。
それでもどうしてもスタッフについて知りたいというのであれば、トップページにて紹介されている「おどろ気ももの木台湾日記」(毎日新聞社発行)をご一読いただけますよう、お願い申し上げます。
主催者のポリシーが伝わらないなら、それでも構いません。
全ての人間に伝わらなくても、伝わった人に伝わればそれでいいと思っています。
無責任な批判は簡単なものですが、自分が同じ事をしようとした時に果たしてどれぐらいのことができるのか。
それをまず考えて建設的な発言をしてほしいですね。
揚げ足取りなら馬鹿にでもできます。
なんなら何語でもOKというサイトを運営されてみてはいかがでしょうか?
随分と多彩な人材が集まることでしょう。
他人の揚げ足取りをしている暇があるならば、何か現実的で役に立つアクションに時間を費やした方がいいかもしれませんね。
揚げ足取りをしているぐらいなら、もうちっと建設的なことをしたまえ。
「敦煌」という井上靖の小説があります。
映画にもなりましたね。
私はあの小説のきっかけとなった出来事が好きです。
20世紀最大の発見と言われた敦煌から発掘された数々の書物。
それをそこに仕舞いこんだ人達の名前も人となりもまったく解らない。
でも、無名の人々の行いが遠い遠い未来で役に立っている。
人間とはなんて素晴らしい生き物なんだろうと感動しました。
先日、「いいことしたいでしょう?」とたずねられました。
私は答えられませんでした。
何がいいことって決められないと思うからです。
恐らく、戦禍の混乱の中で書物をかくまっていた人たちは「いいこと」をしていなかったかもしれません。
その人たちにとっては「いいこと」であっても、逃げる女子供をそこにかくまう方が「いいこと」だと思う人もいたかもしれません。
状況次第で「いいこと」なんてものはもろくも崩れ落ちる概念だと思います。
私は「いいこと」より「役に立つこと」がしたいのです。
「役に立つこと」をするために、敢えて他人に嫌われたり、誤解されるのもしょうがないと思っています。
長い目で見たら、あるいはそれも「役に立つこと」にはならないかもしれません。
でも、それでもいいと思います。
「いいこと」をしていると思うと、いつの間にやら「誉められる」ことを期待しがちです。
だけど、自分がしたいと思ったことをして、それが何らかの役に立つだろうと思っていれば、他人なんて関係なくなります。
ちっぽけな個人なんて100年の後には消えてしまう存在でしょう。
でも、その名もないちっぽけな個人の為した行為は100年後にも残っているかもしれません。
現在の台湾にいる人の中で、100年後に名前が残っているのは李登輝総統ぐらいかもしれません。
陳水扁新総統でもまだ未知数です。
民主選挙による政権交代の際の新総統ということでは名前は残るかもしれませんが、それ以外に関してはまだ解りません。
しかし、確実に私達の名前は忘れられているでしょう。
自分の家族にしても、その頃に生きているのは孫か曾孫の代です。
だけど、名もない外国人の私達が活動した結果、外国人の永住権や、父系血統主義の廃止による新しい国籍法の誕生が促されました。
それは100年後に台湾に来て、台湾人と結婚する外国人すべてが享受できる権利となっているでしょう。
その人達が私達を知らなくても良いのです。
私達に感謝する必要もありません。
私達は自分達のために運動したのであり、それが全体から見て役に立つ運動であっただけです。
「いいこと」という漠然とした概念で私は動けません。
役に立たないいいことをしても、それはする方の為にも、される方の為にもならないと思うからです。
私は敦煌で書物を埋蔵した人達のように偉大な「役に立つ」業績は残せないかもしれません。
でも、名前は消えても事実が残る役に立つ行為をひとつでも地上に残していけたらいいなと思います。
目に見えないものでもいいのです。
全ての人に役立つものでなくてもいいのです。
たった一握りの人達のために役立つものでもいいのです。
それだけでも生きてきて、生まれてきた意味があると思うのです。
「仲間」ってなんだろうと思う。
今の若い人達って「仲間」とか「友達」って言葉を不必要なまでに頻繁に使う。
「あいつ、俺の友達」ってたかだか一回か二回、会って言葉もそれほど交わさなかった人を言ってしまえる素直?さ。
名前と顔を知っていて、大体の輪郭を知っているけれど、直接、口をきいたことはそれほどない人相手に「友達じゃないですか」と詰め寄れてしまう純粋?さ。
「仲間」とか「友達」って、そんなに簡単に言い切れてしまえるんだろうか。
すごいなぁと思うし、うらやましいというか、恐ろしいというか...。
距離感のとり方が私と全然違う。
そんなに簡単に「友達」とか言い切ってしまって大丈夫なんだろうか。
とっても不思議。
だから「仲間を守る」ためには先走った行為をする人も多い。
「仲間」じゃない人から「仲間」を守るためになら、考え付きもしないようなひどい言葉や態度を取るのも辞さない。
それが、果たして、その「仲間」と思われている人間が本当に欲している行動かどうかも考えず、自己満足のためなのか、とにかく突っ走る。
案外、「仲間」と思われている方にしてみれば、「いい迷惑」かもしれないのに。
そんなことすら思考できず、ただ、闇雲に「自分の仲間を守る」ために突っ走る。
守られた相手にしてみれば、ありがた迷惑で、「ま、あいつも好意でしているから」って裏で苦笑いしているかもしれないのに。
本人としてみれば正義の味方気取りでいい気分になっているんだろう。
自己満足のためにしているなんて思いもせず、「自分はなんて友達思いなんだ」って酔いしれている。
そういう人達に、これまでにどれだけ出会ったか。
「仲間」という言葉でつるみ、善悪ないまぜにして共犯関係を作るのも今の若い人達の特徴かもしれない。
中学生が数千万円という恐喝をするのも、たった一人では出来やしない行為だ。
これだって「仲間」や「友達」がいたから出来たことだろう。
でも、こういう「仲間」や「友達」は自分がやばくなったら、それまでの関係をあっという間に覆し、保身に走る。
そんな「仲間」や「友達」のために何を懸命になるんだろうと思う。
「あいつら、いいやつらなんです」
「俺の仲間なんです」
「いい友達なんです」
こういうセリフを嫌というほど聞いた。
そういう時に、冷たいかもしれないけれど、「だからなに?」って心の中で呟いてしまう。
あなたが「いいやつ」と思っていても、それが全世界的に通用する価値観にはならない。
あなたの「仲間」であっても、それが私にとって何を意味するんだろう。
あなたの「いい友達」であっても、それが世の中の道理と何か関係するの?
それは「情」であって、「理」でも「法」でもない。
そして、それはつまり、その発言者の価値観だけを基準にしたものの見方に他ならない。
凶悪犯罪を犯した人間を指して「あれは俺の仲間だ!いいヤツなんです!俺のいい友達なんです!」って言われても、だから何って言うしかない。
凶悪犯罪を犯した人だって、いい友達もいただろうし、仲間もいただろうし、そういう人にとってはいいヤツだっただろう。
だからといって、その犯した犯罪の情状酌量にはならない。
そう叫んでいる人が「秩序」でも「法」でもないのだから。
社会の規範とそういう「情」は別個のものだ。
あと、「仲間」や「友達」だと感じ方から何からまで同じじゃないといけないんだろうか。
一緒にいる友人同士を十把一絡げにする傾向が今の若い人達にはあるような気がする。
気の合う友達であっても、考え方は正反対、感じ方も全然違うってことは珍しくない。
自分と同じような人ばかりと友達になっていても面白くない。
同じような人間じゃなくても、自分の発想や論理展開が、相手に通じるものを感じればそれでいいと思う。
いくら「いい人」だろうが、論理展開が全然あっちに行ってしまっている人とだと、私はとても「お友達」になれない。
よくて「知り合い」だ。
お義理で「お友達」と言っても、とても「良い友達」とは言えない。
でも、そういう人がともするとこちらを「お友達」と思っていたりする。
「友達ですよね」と言われて「おいおい、そうだったのかい?」と改めて驚く。
困ったなぁと思う。
群れて安心するのはアフリカの平原に住む草食獣だろう。
でも、彼らだって、ライオンに襲われ、今まで一緒に草を食んでいた仲間が食べられていても、自分の生命が助かれば何事もなかったかのように現場に戻ってくる。
今の若い人達の「友情」って何となく、アフリカの平原に生息する草食獣を連想させるようなもろい関係のような気がする。
逆に群れてなくても何かあった時にはそっと手助けしてくれるというのが「友達」であり、「仲間」であり、「いいヤツ」なんじゃないか。
そう思う私は変なのだろうか?
「いいこと」をするとはどういうことなんだろう。
自分に「いいこと」が第三者にとって「いいこと」とは限らない。
自分の信じる「いいこと」が他人の信じる「いいこと」と正反対だったりすることもある。
幕末に朝廷側と幕臣が戦ったのは、どちらも「いいこと」を進めるためと守るためだった。
そこで、さっぱり「いいこと」とはどういうものなのか、解らなくなってくる。
これが「いいこと」なんだと確信を持っている人がうらやましくも思える。
臆せずに「いいことをしたいでしょ?」なんて言える迷いのなさをうらやましくも思う。
ある人にとっての「いいこと」が、実は本当に「いいこと」であるのかどうか解らない私には、とても出来ない芸当だ。
外国人としてある社会に根付いていくにあたり、その社会に存在する、どのエスニックグループ、宗教グループにも一線を引いて生きている。
それらのグループの垣根を超越したところにある「いいこと」は、その社会における「いいこと」であると認識している。
そういう場合、その「いいこと」が私の感じるところの「いいこと」と若干ずれていても、それはそれで、その社会の価値観なのだと思う。
しかし、自分に近い人のグループの価値観や利害に巻き込まれ、自分の立場を忘れてしまうことは非常に危ないと思う。
たとえば、ここに二人の日本人女性がいたとする。
片方はユダヤ系アメリカ人と結婚する。
片方はドイツ系アメリカ人と結婚する。
同じ「アメリカ人」と結婚したにも関わらず、その日本女性達が結婚した相手がどちらも民族主義者であった場合、どういうことになるだろう。
夫の価値観を「アメリカにおける絶対的価値観」と思い込んで、彼女達が暮らした場合、10年後に二人が出会った時、二人の住んでいるアメリカや、二人が見ているアメリカ人はまったく違うものになるだろう。
そんな時に思うのは、たとえ夫が民族主義者であろうとも、外国人であり、民族的にも違う歴史を背負う妻の方までもが夫と一心同体になる必要はないということだ。
一歩引いた視線が必要なんじゃないかと思う。
アメリカ人の友人も、先日、出会った時にユダヤ人が今でもナチス狩りを続け、非常にドイツ系に対して今でも敵愾心を持っているという話をさかんにした。
今の彼女のボーイフレンドはドイツ系だ。
それが関係するのかどうかは解らない。
しかし、彼女の場合は何であれ、アメリカ国民内部の問題であるから、アメリカ人である彼女がアメリカ人のユダヤ系を批判しようと、ドイツ系を援護しようと、それはそれでいいと思う。
だが、「心はアメリカ人よ!」みたいなことを言っていても、アメリカの歴史や民族間の軋轢などを全く理解していない外国人が夫の言うがままにアメリカの民族間の軋轢に首を突っ込むのは危険だと思う。
アメリカ人がアメリカ人として責任を持って何かを発言するなら、それはそれでいい。
その人の持つ「いいこと」という価値観を基礎にして行った発言であり、自己責任が取れるものだ。
しかし、外国人が第三者の価値観という貸衣装を身にまとい、第三者の視点で発言したものには、自己責任がどこまであるのだろうか。
自分の過去や民族や歴史につながらない事物を根拠に、他人の価値観を通して他人の価値観における「いいこと」を語ることの危うさ。
それが解らないと、知らない間に「自己」が消えていくだろう。
「いいこと」がどういうものなのか。
それは時代や状況や立場によって全く異なる。
私が今、この時に「いいこと」と認識していたものが、100年後には「とんでもないもの」に変わっている可能性もある。
台湾で生きていく限り、私は台湾のすべてのグループの人が「いいこと」と認めるものにのみ意識を集中させ、生きていきたい。
minmin@geocities.co.jp