MinMin's Diary
自分自身をこうだって決めつけると本当にそうなってしまうんですよね。
自分は駄目だって思っていると本当に駄目になってしまう。
自信過剰もいけないけど、自信喪失も良くない。
他人がどう言おうと、自分は自分という信念があるのが一番じゃないかな。
つまり、取り繕わず、自分らしさを失わずにいればいいってこと。
そうそう、自然体、自然体っていう言葉が近年よく聞こえてくるけれど...。
どうも「自然体」すら他人の目を気にしているもののような気がする。
自分自身の価値は他人が決めるものじゃない。
例えば出身地、出身校、勤務先が何であっても、それはその尺度で計ったものでしかない。
他人がどう見ていようが、それはその他人の価値基準で計ったもの。
そんな価値基準なんかに惑わされる必要はない。
他人の目を気にしないというと、すぐ「自分勝手」だという短絡思考に持っていく人も多い。
自分勝手をするために「他人の目」を無視するのでは困る。
他人の目=社会ではないのだから。
自分勝手は社会のルールを破ることになりかねない。
だから自分勝手は「自分らしさ」とは全く違うものだ。
他人の目を社会と思う人が多すぎる。
だから、こんな短絡的な発想が生まれるのかもしれない。
「自然体」を演じるくらいなら何もしない方がいいんじゃないかなぁ。
どうして他人の目が恐くなるんだろうって考えている。
赤ん坊の頃は他人の目なんて恐くないはずだ。
「自我」の芽生えと同時ぐらいに「他人の目」の存在も気になり始める。
他人のことを気にかけるのは悪いことではない。
人間は他人と折り合いを付けながら生きているんだから。
自分勝手じゃいけないだろう。
でも、問題は他人に気を配るんじゃなく、他人の価値観に縛られること。
その反対に、他人の価値観に縛り付けられたくないあまり、自分勝手に振る舞う人も出てくる。
他人の存在を気にしても、他人の目は気にする必要はないと思う。
物事の善し悪しは他人が見ているから決まるんじゃなく、自分の心の中で決めるものだ。
自分の心の中で自分が良いと決めたのならば、何があっても臆することもなく、堂々としていられるだろう。
他人に押し着せられた人生を歩いているという惨めさもないだろう。
自分で選択して自分の足で歩いているという確かさがある。
こんなことを考えている時にふと思い出すのが「二都物語」の主人公のことだ。
自分で決めた人生を自分で歩く。
それが愛する女性のため、その女性の夫の身代わりとして断頭台に送られるという人生であっても、彼は自分の選択に満足していた。
ひたすら押し隠していた彼女への愛情を、こういう形で完遂させたことへの満足。
この話を子供の頃に母から聞いた時、ものすごく感動した。
そして原作を読んで鳥肌が立った。
他人の目なんて恐れず、自分が信じるもののために生き抜く。
その清々しさ。
でも、困ったことがひとつある。
「自分が信じるもの」は自分で判断しなければならない。
その判断力は健全な思考力から生み出されるものだ。
様々なアンケートを見ても「その他」という言葉で逃げる人が多い。
決断したり、判断したりすることを躊躇する人が多い。
自分自身を信じられず、自分自身の思考力、判断力を認められない人が多い。
そういう人が宗教やら変なものにいとも簡単にマインドコントロールされてしまうのかもしれない。
よくそういったものの被害者が「私はマインドコントロールされていた」って言うけど、マインドコントロールされたのも自分の責任だと思う。
そういった状況になった時に健全な思考力が活かされるか否か。
それは日々の生活で培うものだと思う。
用もないのに一緒にトイレに行く女学生。
なんでもおそろいを持つことで帰属感を感じる子供達。
個性、個性と言いながら、奇抜な格好している子であふれて没個性になっている街。
大事なのは外見じゃない。
大事なのは内なる「自分」と向き合える勇気。
私は私と言える自分自身を尊重する気持。
自分自身を大事に出来る自信を生み出す多くの経験。
公と私(個)の双方を意識しながら「個」を確立できるバランス感覚。
公が他者の視線ではなく、自らを含めた人間社会の規範であると意識できるだけの力。
これらのものがあってこそ、自分が信じるもののために生きることができるだろう。
オウム真理教の幹部が出所した。
いくら自分自身の信じるもののために生きている風を装っているとはいえ、彼は既に「他人の目」に縛られている。
他人の目に縛られた人の「自分自身」は既に別の価値観に裏打ちされたものとなっている。
自らも一員であるはずの「社会」を敵と見なしてはいるが、そうすることで「他人の目」につなぎ止められている。
自分自身を信じているのなら、他者との繋がりなぞなくても生きていけるだろう。
自分自身の修養をしていればいいのだから。
それなのに「社会を変える」だ「ポアするだ」などと言い出したのだから、これは他人の目を意識した目立ちたがり行為の変形に過ぎない。
中学までは優等生で目立っていた人が、高校進学後に優等生の集団に放り込まれ、ただの人になった後の悪あがきにも似ている。
一連のカリスマブームといい、なんだかたいした「個」を持ってもいないくせに、目立ちたいばかりの人が増えているような気がする。
「目立つ」...その行為こそ「他人の目」を気にする行為に他ならない。
際だたせるほどの「個」もないくせに、他人の目で自分の価値を計ろうとするんだから困ったものである。
出る杭は打たれるという教育をしておきながら、目立ちたがり屋を生み出している日本。
出る杭は打たれるという教育...。
それは没個性の教育。
思考力を奪う教育。
決断力を奪う教育。
無責任な付和雷同型の人間を生み出す教育。
こういった教育を受けた人が目立ちたがるとどうなるか。
なんだか2000年が始まったにも関わらず、こんなことを考えていると、ちっとも明るい未来を感じられなくなってしまうのである。
仕事をため込み始めている。
まずい、まずい...。
なんか、自分のしたいことが、うっすらなりとでも見えてきたというか、感触を得られるというのか。
漠然となんだけど、そういう「使命」があるのかなぁってな予感がする。
自分がこの世に存在するには意味がある。
それが他者にどう扱われようと、自分が自分としてこの世に生まれてきたからには、何かしらの理由がある。
そんな風に思えれば、随分と色々な人が救われるだろうな。
切れた〜!!!!
久しぶりに切れた〜!!!!!
文芸春秋発行「CREA」!!!!!!!!
犬特集!!!!!
表紙の可愛い柴犬につられて買ってしまった。
犬さえ見ていれば満足という私にとって内容は犬の写真させあれば文句はない。
しかし、しかしである。
気が利いたふりしてつけた「各国お犬事情」がいけなかった。
台湾のところを読んで叫んでしまった。
ぬわにぃ〜〜〜???
これって私が住んでいる台湾のこと???
引用しよう。(「CREA」2月号p.98)
ペットとしての認知度は、あと一歩
台湾には、イヌを食べる習慣がある。
しかし、イヌが「ペット」として認知されるようになるにつれ、若い人やホワイトカラーの人は
「イヌ肉を食べること」に、抵抗が出てきたようだ。
「なんで友達を食べないといけないの?」と。
それでも年輩の人や、ブルーカラーの人達には、根強い人気がある。
イヌ肉は体が温まると言われ、とりわけ冬にはイヌ料理専門店が、賑わう。
ペットイヌは日本に比べてまだ少ないし、病気になったイヌを動物病院に連れていくということもない。
台湾人がイヌを”ペット”として完全に認め、食べないようになるには、もう少し時間がかかりそうだ。
(文中の下線と色はMinMinによる)
さぁ、この文章を読んで、私が黙っているわけはない。
早速、編集部に電話した。
電話に出た軽めの男はまともに取り合うつもりは毛頭ない。
馬鹿な読者を吠えさせておけと思っているだけのようだ。
「別にイヌ肉を食べるのがひどいことだとは言っていません」
そりゃ言ってないよ。
でも、この特集を買うのはイヌ馬鹿でしょうが。
仮に台湾でイヌ肉をわしわし喰う習慣があるというなら、こういうことを書かれても許す。
しかし、イヌ肉専門店は台北市内には見あたらない。
イヌシェルターのおばさんの話によると台北県にひとつはあるという。
それが「根強い人気」で「賑わう」のか????
おまけに許せないのがこの大嘘。
「病気になったイヌを動物病院に連れていくということもない」だとぉ〜!!!!
それならうちの近所に林立する動物病院は水牛でも見ているっていうのか!!!
年末に人気が少なくなった大学キャンパスに、イヌ達にお節料理を配って歩くおばさんは何者だ!!!
近所の野良犬に予防接種を打ち、夏には毎週一回シャンプーに連れていっているおばさんは何者だ!!!
こういう断定的なものの言い方はやめんか!!!
あと、この文章には恐ろしい偏見が潜んでいる。
イヌ肉を食べるのに反対するのが「若い人」や「ホワイトカラー」という「新しい価値観」≒「西洋的な思想」を持つ人達。
でもイヌ肉を食べるのが大好きなのは「年輩の人」や「ブルーカラー」という台湾土着の発想から抜けられない国際人とはほど遠い人達。
つまり、台湾固有の文化はイヌを食べるのが大好きという粗野で野卑な文化であるが、新しい価値観を持ち出したニュージェネレーションは徐々にそういった価値観を駆逐しようと努力しているという構図だ。
恐ろしいまでの「国際化」は「文明化」という思い込み。
別にイヌ肉を食べることがひどいことだと私は思わない。
それは文化であり、その国固有の発想がある。
寒ければ温かくなるイヌ肉も喰おう。
日本人だって鯨肉を食べることでウンとアメリカ人達に非難を受けた。
でも、それは文化だ。
給食で食べた鯨の竜田揚げは美味かった。
そのことで「ひどい」と言われるならそれもよかろう。
受けて立とう。
でも、喰ってもいないイヌ肉を喰っているとアメリカ人に言われ、それで非難されたら
「冗談じゃねぇ」
と思う。
「鯨肉を喰らうヤツらだから、イヌ肉だって喰らうだろう」
という単純な発想で、戦後に食べたという証拠があることで
「日本人はイヌ肉すら喰う。ペットとしての認知度はまだまだのようだ」
なんて言われたら不愉快極まりない。
台湾ではイヌ肉を食べるのは一般的ではない。
中国大陸から持ち込まれた食文化の中には入っているが、一般にまでは浸透していない。
香港とは違う。
あそこは飛ぶものなら飛行機以外、四つ足ならイスと机以外は食べると言われる広東人の土地だ。
それだって全員が食べるわけではないだろう。
台湾ではもっと以前から犬は家族の一員として扱われている。
私の周囲には犬を愛し、犬のために一睡もとらずに看病をした台湾女性もいる。
我が兄嫁の実家の犬はポチといったそうだ。
義父の犬はコロといったという。
番犬として飼ってはいたが、食べるという習慣はなかったと聞く。
「CREA」の文章のソースは台湾在住の日本人だそうだ。
この人はぼけ〜っと台湾という土地に住みながらも、何も本質を見てないんだろう。
外国に住んでいることを飯の種にして、適当なことを日本に流している台湾ごろつきかもしれない。
華人がイヌ肉を食べるという新しくもなんともない事実を適当に焼き直しただけだ。
少なくとも台北市では冬にイヌ肉専門店は立ち並ばない。
イヌ肉を食べたという人に出会ったこともない。
年輩者にいたっては日本時代に受けた教育でイヌ肉を食べるのは「中国人よ」と言っているぐらいだ。
別にそれがいいとか悪いとかではなく、習慣の違いで、台湾の多数を占める本省人にはイヌ肉を食べる習慣というのはあまり聞かない。
もちろん、イヌ肉を食べる地域の出身者もいるので、台湾でイヌ肉を全く食さないかと言えば、それは言えない。
しかし、この「CREA」に見られるような、「若者」「ホワイトカラー」VS「年輩者」「ブルーカラー」といった区分けはない。
出身地の違いはあっても、世代や階級の違いはイヌ肉には関係ないのだ。
台湾の中に住み、台湾を飯の種にしておきながら、心の中で台湾を蔑んでいる日本人。
こういう人を私は心底軽蔑する。
そして、こういうものを平然と載せ、それに対する抗議に対しても「うるせぇなぁ、飯の時間なんだよ」という態度がありありのマスメディアの端っくれ。
こういうのがジャーナリズムの一端を担っているのだから、日本の出版業もお寒い。
きれいにコーティングした偏見や蔑視。
こういうものに気づけないで何が雑誌編集者だろう。
たとえ台湾に関係しなくても、こういう文章が出ていたら、私は書いた人間の心の奥底に潜むものを見抜けるし、見抜こうと思う。
批判的精神もなく、「現地の人が書いたんだから」という安易な発想で使用する。
批評精神の乏しい人達だ。
こういうのが「各国事情」として載っていて、それを見て「国際事情」を知った気になっているんだから、日本人の国際化もお寒いものだ。
minmin@geocities.co.jp