MinMin's Diary



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7月1日

うひゃ〜〜〜。
7月ですよ、7月!
もうあと半年で21世紀になってしまう!

色んなことを考えていた。
気持って飛ぶのだろうかって考えた。
感情は波動して伝わるのだろうか。
それともただの偶然なのだろうか。

幾つもの、幾つもの偶然が重なると必然になるのかもしれない。

今の今まで忘れていたCDとアーティスト。
大好きで何度も何度も聞いていた時期もあったのに。
それを突然思い出して聞いてみる。
その時とはまた全然違った思いで聞いている自分がいる。

7月28日に津田恒美さんのドラマが放映されるそうだ。
津田恒美さんは私にとって「元広島カープの」と言うよりも「南陽工業の」と言った方がしっくりくる。
怪物ツネゴン。
南陽工業から協和発酵へ。
そして広島カープへ。
輝かしい投手成績を残しながら、32歳で逝ってしまった。
ショックだった。
あんなにすごいピッチャーだったのに。
彼の死は台湾で聞いたはずだ。
その間に私は彼の年を越えていた。
中学生だった私は彼がたった一球の失投で8番バッターにホームランを打たれ、その一点で甲子園を去った姿を見ていた。
大会屈指の投手があっけなくたった一球で甲子園を去っていく姿は今でも覚えている。
もっと投げさせてあげたかったな...。
その時に思った気持は、結局、今の今まで続いている。
あんなに若くして逝ってしまった彼には、今でも「もっと投げさせてあげたかった」という思いを抱いてしまう。
あの日、たまたま彼の試合を見ていた。
だけど、その「たまたま」が今につながっている。

人生には「たまたま」「偶然」で築き上げられているものが如何に多いかということなのかもしれない。



7月6日

明日は七夕様でございます。

価値観とは人の数だけ存在する。
どの価値観が正しいと決め付けるのは難しい。
昔々は太陽が地球を回っているという価値観が正統で、地球が太陽を回っていると唱えた人は気違い扱いされた。
時代によって価値観は動く。
時代の寵児と呼ばれる人達が、そのまま普遍的に歴史上に名を残すわけではない。
寵児であったはずの人が、気がつけば次の時代では悪の権化や馬鹿の代名詞のように扱われることすらある。
価値観とはそんなもんだと思う。

今、独善的な人が受けているようだ。
カリスマとか何とかいう言葉がむやみやたらと使い込まれている。
陳腐だ。
独善的にいる人を非難するつもりはない。
それもその人の価値観であるならば、「ひとつの価値観」である。
その価値観を嫌悪する人がいてもいいし、崇拝する人がいてもいいだろう。
しかし、それはあくまでも「ある一個人の抱くひとつの価値観」に過ぎず、ほかの人達までもが、その価値観に取り込まれる必要性はない。
また、ある部分では賛同できると思える人がいても、その人の別の側面における価値観に賛同する必要性もない。
オールオアナッシングとなる必要はないのだ。
自分の目で見、耳で聞き、その血肉となった知識と経験から自分自身の価値観をはじき出せばいい。
しかし、それが出来ない人が多い。
付和雷同型の人間が増えてきている。
訳の解らないことを言う人をマスコミが持ち上げる。
たとえば某野球監督の妻とか。
無茶苦茶を言う人が「個性的」という風に取り上げられる。
常識的なことを言わなければ言わないほど「本音トーク」なんていう耳障りの良い言葉で肯定される。
つまり、他人の価値観を認めず、独善的になれる面の皮が厚い人ほど「カリスマ」になり易いのだ。

私は宗教家でもないし、特定の宗教を信奉する人間ではない。
しかし、何となく、「悪しき存在」が人間界の色々なところに潜り込み、ソドムとゴモラの再現を試みているような錯覚にとらわれる。
「自分」を見失った多くの民衆が、狭い価値観しか持てない「カリスマ」によって扇動され、その価値観によって支配されるとどういうことになるのだろう。
そういうカリスマに憧れ、自分勝手なことが美しくかっこいいことだと思い込んだ民衆が勝手気ままに自分の好きなことだけするようになったら、社会はどうなってしまうのだろう。
民主主義という美名のもとに、愚かになってしまった民衆が、「公」を忘れて自分勝手に動き出してしまったら、社会は早晩崩壊するだろう。
享楽的、刹那的、刺激的な生活に耽溺してしまった「普通の人達」が転げ落ちるのは早い。
下卑た発想しかできない人が、崇高な精神を持った人までも、自分の程度で推し量り、下卑た想像を巡らせるのも常だ。
世紀末はいつも、おどろおどろしていた。
今世紀に入る前もそうだった。
そして、今世紀に入った直後に、そのどろどろした時代のうねりのツケが大戦という形で現れた。
それは今世紀半ばまで続き、結局のところ、今世紀末にまで影響を及ぼしている。
そして、20世紀の世紀末がやってきた。
19世紀末から続いた一連の事象が目の前に走馬灯のように見えてくる。
人々の迷走ぶり、刹那主義、享楽主義、行き着いてしまった個人主義、その反動による全体主義の台頭などなど。
大きな勢力の対立も見える。

こういう時代、大事なのは己を知ることだ。
他人を通して己を知るのではなく、己と向き合い、己と静かに語り合うことから、己を知るのが大事なのではないだろうか。

多くの「カリスマ」や「時代の寵児」も所詮は「踊らされている」だけの存在だ。
大学時代に英国文学史を勉強した。
「流行作家」だった人達の多くが今じゃ名前すら知られず、そのベストセラーとなった小説すら顧みられない存在になっているのを見てきた。
時代に踊らされ、時代の風潮に乗らされ、時代の寵児扱いあれていても、ただ、時代の手のひらの上だけで踊っていた人間は何百年経てば忘れられるだけの存在でしかない。
一方、時代に踊らされたのではなく、時代を動かした小説家は何百年経っても生き生きとその存在を後世に示している。
文学の世界だけじゃない。
メンデレーエフが遺伝子の仕組みを発見した時にノーベル賞はメンデレーエフさんには行き着かなかった。
もらったのは今じゃ名も知られていない科学者。
失意のメンデレーエフが死んでから、彼の唱えた遺伝子の仕組みが認められた。
時代に踊らされ、時代の寵児のような顔をしていても、所詮は時代と共に消えていくだけの存在になるのか。
それとも時代に顧みられなくても、時代を越えて普遍的に人々の中に残るものを幾ばくであっても残せるのか。
そのどちらかを選べと言われたら、私は間違いなく後者を選ぶだろう。
だが、実際には「刹那」であってもいいから富と名声を得たいという人の方が多いのかもしれない。
そのためにならば、どんな汚い手も使う人もいるだろう。
だが、そうしたからといって、所詮は自己満足にしかならない。
これからさらに2000年経った時、いったい、今、この地球にいる人の中のどれだけの人の名前が2000年後の人に知られているのだろう。
価値観は時代によって動く。
時代を読む能力というものを持っている人は当然いる。
しかし、その人が100年後にどのように扱われているか。
それは誰にも解らない。
だから、一人でも多くの人が、自分の目と耳できちんと価値観をもてるようになって欲しいと思う。
そして、自分の価値観に責任を持てるだけになってほしいと思う。
他人の靴で踊らないでほしい。
たとえ、見た目が悪くても、ぼろぼろであっても、自分の靴を履いて踊ってほしい。



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