MinMin's Diary
なんだか忙しさにかまけているうちに5月も終わってしまいそうだ。
↑いつもこんなこと言ってばっか...。
20日の総統就任式までには、友人が中心となって台湾の新総統が書いた半自叙伝の日本語訳が出来上がった。
「台湾之子」という本で、毎日新聞社から発売されている。
うれしいことに、翻訳メンバーはみな優秀な日本女性だ。
しかも夫は全て外国籍の日本女性。
国際結婚している自分を売り物にするようなタマ(失礼!)ではない人達だ。
自分の才能で十分に羽ばたける人達の配偶者がたまたま外国籍だっただけとでも言おうか。
とにかく手放しでうれしい。
それにしても毎日蒸し暑い。
そろそろクーラーのシーズンだな。
あとはゴキブリのシーズンでもある...。
先日も我が家の狭い客間を大きく斜めに横切って飛んで、壁にへばりついてた...。
こうも暑いと、冷えたビールが美味しいだろうなぁ。
ああ、飲みたくなってきた。
いよいよ6月。
6月って不思議な感覚に襲われる。
学生時代は「今の学年にちょっと慣れてきた」という頃だった。
新しい環境にも少しずつ慣れ、自分の位置付けや役割をなんとなく見つけ出した頃。
この季節を抜けると夏が来るという予感をはらんだ頃。
甲子園を目指す人達の掛声が校庭に響きわたる頃。
日中の長さがなんとなく感じられるようになる頃。
夏になるのかと思わせるような気候の後、いきなり薄ら寒い日を運んでくる頃。
夏服に着替える頃。
男の子達が学ランを脱ぎ捨てる頃。
女の子達のスカートが軽やかになる頃。
鬱陶しい日もあるけど、先にある光を予感できる頃。
なんだか、6月は人生における中学・高校時代のようにも思えてくる。
この季節を過ぎると、夏の甲子園の予選が始まるんだなぁ。
自分が高校生だった頃に生まれた子が甲子園を駆け巡る時代が来てしまった。
大輔ブームの立役者、荒木大輔さんは同い年だものね。
そのうち、自分の同級生の子供が甲子園に出るようになるんだろうなぁ。
今の私は差し詰め、実りの秋に向って進みつつも、ちょいと初夏の頃を懐かしんでいる晩夏の世代なのかも。
異文化不適応ってある。
先日、友人達と話していて話題になった。
台湾人と結婚している日本女性が何かに「適応できないのは自分自身の努力が足りない」という風に書いていたそうだ。
それを見たある奥さんは何年経っても適応できない自分をまた責めてしまったという。
異文化適応に関しては、もちろん自分自身の努力も不可欠だが、周囲の理解も不可欠だ。
決して自分一人でどうにかできる問題ではない。
たまたま、周囲の協力もあり、運もよかった人が異文化適応に成功したからといって、全ての人に自分と同じようになるのを望むのは問題だ。
ましてや、適応できない人に「自分自身の努力が足りない」と言ってしまえるのは、あまりにも偏狭ではないだろうか。
マザーテレサを持ち出され、「彼女は自分をインド人と思い、インド人の中に入って暮らした」と言われたことがある。
また、よく聞くのは「郷に入れば郷に従え」ということわざだ。
マザーテレサは自らがそう望んだが、周囲は彼女に「完璧なインド人になれ」とは期待しなかった。
それは彼女が「インド社会」には入り込んでも、「インド人家庭」には入っていないからだ。
しかし、私達は「台湾社会」からは隔絶されつつも、「台湾人家庭」には否応なく組み込まれていく。
永住権もなく、働く自由もなく、台湾人と接触する機会も少ないままに暮らしている日本人妻は思いのほかに多い。
意識して自分から外へ出て行かなければ、台湾社会との接点すら見出せないままに一年が過ぎてしまう。
鬱々と家庭の中に閉じ込められたような気持になり、「こんなはずじゃなかった」という気持が芽生えてくる。
しかし、社会は「台湾人の嫁なのだから台湾人と100%同じにこなせ」と暗黙のうちに要求してくる。
社会とは隔絶されているのに、いきなり台湾女性と同じだけの役割を望まれる。
何がなんだか解らないうちに押しつぶされ、どんどん自分が自分でなくなってくるような恐怖心に取り込まれていく。
それは、最初から中国語を話せたり、夫の理解があって大学や大学院に通って台湾社会と接点を持てた一部のラッキーな日本人妻には想像できない辛さだと思う。
私もかつて似たような経験をした。
日本においては私なんかよりもはるかに経験も浅く、いったい何ができるのだろうといった日本女性に出会った。
悪い人ではなかったが、「結婚しても就労権がないですからね」という話になると、たまたま運良く仕事を見つけて就労ビザをもらっていた彼女は「そんなの新聞の求人欄を見て、履歴書を送って探せばいいじゃないですか」とこともなげに言った。
独身で来て、仕事を先に見つけた彼女にしてみれば、「職探し」だけに専念していればよかったのだから、新聞の求人欄で仕事を探しては連絡して面接をしてという時間や気持の余裕もあっただろう。
しかし、結婚してこちらに来た女性にしてみれば、結婚によって、ただでさえ環境が激変するのに、そこにいきなり台湾式の「嫁の仕事」がどぉ〜と押し寄せてくる。
たまたま降ってきた仕事を受けたくても、就労権がないので受けられない。
しかも、結婚して11ヶ月は居留証すらもらえない。
居留証をもらってから4ヶ月経たないと健保はもらえない。
その間に妊娠してしまったらどうしよう。
台湾人の子供を産むのに出産は実費だ。
ダンナに代わりに生んでもらえたら家計の点でもどんなに楽か。
いくら周囲の台湾人が「あなたは台湾人と結婚したんだから台湾人だ」と言おうが、法律が「お前はガイジン」と言って手足をもぎとっているのだから話にならない。
マザーテレサは法的にはいくらでも活動を許され、彼女の持てる限りの力をインド社会で発揮できた。
社会に入り込んでいけば風習や言語も覚えていくだろう。
そうしているうちに「異文化適応」も自然と行える。
しかし、私達は彼女とは全く逆だ。
法的には手足をもぎ取られ、自由な活動の場すら与えられず、ひたすら夫に養ってもらって籠の鳥になり、ただ「台湾人の子供」を育てることに専念していればいいという扱いを受けている。
子供の手が離れるまでは社会と隔絶されている日本女性も多い。
そうなれば、いくら経っても台湾の習慣や風習は理解できない。
それなのに周囲は「台湾人の奥さんなんだから、あんたも台湾人」と言い、そうであることを当然と見なす。
受け入れてくれない社会なのに、どうやってそこに適応できるのだろう?
そういう事実を前にして、落ち込んでいる時に、周囲の反応はどうだろうか?
周囲の台湾人、つまり夫や夫の家族は、それを不当であると見てくれるだろうか。
外国人の妻が慣れない風俗や習慣に戸惑っているのを当然と思ってくれるだろうか。
多くの夫は「自分の国」にいる気楽さで、それを忘れ勝ちだ。
彼にとっては生まれた時から慣れ親しんだ土地であり、風習である。
どこも違和感を覚えない。
だから、それに違和感を覚えている妻に違和感を覚える。
「なんでそんなことも解らない?」とか「君は台湾に嫁いだんだから」という言葉が出てくる。
「台湾ではこれが常識なんだ」という説明抜きの押し付けも言う。
妻がパニックを起こしていても、その理由を根底から見つめようとはしない。
なぜなら、彼にとってはごく自然な成り行きで行われたことでしかないから、妻のパニックが理解できない。
外国人の妻にとって唯一人頼れる相手である夫すら「あっちの人」になってしまった時、絶望的な真っ暗な孤独に襲われる。
ましてや、台湾には外国人配偶者をサポートするような会は台湾人によって開かれてはいない。
「入ってきた人間は自分が努力してここになじめ」と無言で言われているようだ。
行政からしてサポートする様子を見せてくれない。
民間の団体すらない。
「あんたはもう台湾人だ」という一言をかけてあげれば、それでいいと思っているようだ。
その一言がどれだけ外国人妻を苦しめているかも知らずに。
そして、たまたま周囲の協力を得て、台湾に適応できた外国人妻を持ち出して「こういう人もいるのに、どうして君はできないんだ?」と責める。
「こういう人」は確かにその人自身の資質もあるだろうが、周囲の環境にも恵まれていた幸運な人だ。
私はこういう幸運な例を取り上げて責められた人には、逆にこう言い返してもらいたい。
「この人の周囲はこの人をここまで適応させるように出来たのに、どうして私の周囲はそういう風にサポートしてくれる人がいないの?」
今の台湾社会では、幸運ではなかった、普通の運命を背負う外国人妻は、ひたすら自分が強くならなければいけない。
無謀だと言われても免許を取って高速をぶっ飛ばせるようになって「足」を作り、一歩を踏み出すとかしなければいけないだろう。
周囲からの無神経な質問を恐れて閉じこもりがちになってしまう自分を奮い立たせ、強くならなければやっていけない。
「なんで仕事しないんだ」という質問や「どうしてここに来たの?」という質問や「なんで中国語できるの?」という質問が永遠に繰り返されるだけでしかない「私の台湾社会」に踏み出すしかない。
そんなことでしか接点を持てない台湾社会であっても、足を踏み出すしかないのだ。
誰も助けてくれなくても、自分が強くなって足を踏み出すしかない。
そんな時、同じ思いをした人に出会うことで、どれだけ勇気をもらい、最初の一歩をぐっと力強く踏み出せることだろう。
たとえ、その人本人に出会わなくてもいいのだ。
書いた文章を読む、メール交換する、色んな方法がある。
私だけじゃないんだ...という思いが孤独の中に閉じこもっていた自分の上に一条の光を投げ込んでくる。
異文化不適応に苦しんでいたのは、私のせいじゃないんだと気がついてくる。
他の人もみんな苦しんで、そこから這い上がろうとしているんだと知る。
私一人じゃなく、色んなところにいる、私と似たような思いをしている誰かと一緒に最初の一歩を踏み出そうという勇気が湧いてくる。
台湾社会が私達に手を差し伸べてくれないのならば、自分達が力を合わせて自分達の力で突き進むしかないのだと知る。
昔の話をしていると、鼻の辺りが痛くなってしまい、目がウルウルになってしまう人もいる。
結婚して1年目の頃を思い出そうとしても、私は思い出せない。
記憶の中で完全に封じ込めてしまっているのだ。
見えない大きな力で押しつぶされそうになり、自分が自分でなくなり、消えてしまうのではないかという恐怖に襲われていたあの頃。
あんな思いをする人が一人でも減ってくれたらと願う。
こちらが自分のこれまでの人生で培った全てを日本においてやってきたのに、生まれ育った環境に住んでいる夫にとっては何一つ変わらない日常であるがため、夫すら「あっちの人」に思えてしまう切なさは、決して特異なことなんじゃないと知って欲しいと願う。
台中で自殺したあの日本女性が、そのことを知っていてくれたら、自殺はしなかっただろうに...と友人の一人がぽつりと言った。
本当にそうだと思う。
彼女はきっと真っ暗な八方塞の絶望の中で、孤独感にさいなまれていたのだろう。
夫すら「あっちの人」になってしまい、それゆえに「あんな人達のところに『こっち』の娘を置いていくなんて可哀想で出来ない」と思い、道連れにしたのだろう。
あまりにも悲壮な死だった。
今でも思い出すとたまらない気持になる。
こんな思いをしている人の気持も知らず、たまたま運が良かっただけの人に「異文化不適応は自分自身の努力が足りない」なんてことは絶対に言って欲しくない。
異文化適応は自分自身の努力だけでは成功しない。
なぜならば、相手あってのものだからだ。
適応する「異文化」へのパイプラインがなければ、どうやってそこにたどり着くのだろう?
日本人に限らず、外国から来た人に対して、台湾の人は「ああ、あなたはもう立派な台湾人」などという、役に立たないお世辞を言うぐらいなら、もっと具体的に異文化適応できる方法を考え、「立派な台湾人」になれるまでに異文化適応が出来る面倒を見てあげて欲しい。
私達が「立派な台湾人」になるのは、結婚したから自然と「台湾人」になったのではなく、努力し、学習した成果であることを忘れないで欲しい。
異文化不適応は往々にして、本人自身の問題というよりは、周囲の無理解が原因である場合も多い。
最初は努力していた人が、周囲の無理解に絶望し、自棄になって敢えて「不適応」の道を選ぶこともあるからだ。
適応できない人を責めるのではなく、適応できない人の周囲の環境を見る必要があるだろう。
しかし、その周囲が変わってくれないのなら、適応しようと努力している者同士が連携して頑張るしかないだろう。
そう思うと、ますます「たんぽぽ組」を維持していかねばと思う次第だ。
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