MinMin's Diary
愛する心と排斥する心はともすると紙一重かもしれません。
あるものを愛するあまり、それ以外のものを排斥する。
それ以外のものを認めない。
「極める」ということはいいことですが、それだけが全てと思うのは危険です。
そしてそれ以外のものを「異端だ」と言ったり、「間違っている」と言うのはいかがなものかと思うのです。
ある有名なお茶屋さんに行った時のことです。
そこのオーナーは自分の知識の豊富さを誇示しました。
美味しければなんでもいい私は「ふ〜ん」と聞いていました。
彼が「あなたは何が好きだい?」と聞くので素直に答えました。
「東方美人と金萱茶」
それを聞くと彼はふんと鼻で笑い、
「そんな茶を好きなのは中国茶を好きとは言えない」
なんて言うのです。
中国茶を好きだと言えなくて結構。
私は自分が美味しいと思えばそれでいいのよ!って思いました。
いくら彼がお茶の道を極めていても、そういう態度は本当にお茶を愛しているって言えるのかなって思いました。
なんだか「お茶」を利用して自分のすごさをひけらかしているだけにも見える...。
一方、私の行き付けのお茶屋のおじさん、おばさんは本当にお茶を愛しているんだなって思える人達です。
おばさんは同じ質問を私にしました。
「東方美人と金萱茶」
そう答えるとおばさんは
「金萱茶は量も少ないし、輸出もしないからね。台湾に住んでいるから飲めるお茶よね」と言い、
「東方美人はね、夏には冷やして飲むと香りもいいから美味しいのよ」と教えてくれました。
有名なお茶屋のうんちくを語るオーナーなんかだったら「中国茶を冷やす〜!邪道だ!」って言うでしょうね。
彼の頭には「美味しく飲む」ということよりも「うんちくを語る」ことの方が大事なようですから。
そういうのって人間が何を望んでいるかよりも、形ばかりを追求しているって思います。
お茶って美味しいのよね、飲んで幸せな気分にならなければねっていうおばさんの方がよっぽど素敵です。
昨日もふらふら行ったらおばさんに素敵な飲み方を教えてもらいました。
金木犀が自分の家の庭にあったら、その花をひとつかみ分とって、それを烏龍茶の葉に混ぜて、3日間寝かせてから飲むと、ちょっと味の落ちた烏龍茶がすばらしいまでに美味しくなるのだそうです。
味の落ちたお茶でもお茶なのだから、少しでも美味しく飲んであげたいという、おばさんのお茶に対する愛情でしょう。
愛する心とは、少しイレギュラーになったものでも受け入れる心だと思います。
自分以外のものでも受け入れようという寛容な心だと思うのです。
自分以外のものを受け入れることで、自分の愛する対象をよりすばらしいものにする可能性を生み出すと思うのです。
しかし、多くの人が「うんちく」を語りたいために自分以外のものを排斥し、時には憎む心まで持つようになります。
本来は愛していたはずのものなのに、こだわり過ぎるために、愛する心は消え、それ以外のものを排斥しようとする心ばかりが目立つようになったりします。
本当に自分の愛している対象を大事に思うなら、排斥するよりも受け入れようという心を養うのが大事でしょう。
昨日は一般に言うところの終戦記念日でした。
正確に言うと日本敗戦の日なんだと思いますが。まぁ、敗戦を記念するっていうのもなんだから、「終戦」という言葉でくくったんだろうかななんて思います。
確かに戦争が終わったというのは記念すべきことなんだけど、でもなんかね...。
言葉で巧みに真実を誤魔化しているような気がしてならなくなったのはいったいいつからだったでしょうか。
歴史認識うんぬんで東京都が設立を予定している東京大空襲記念館が棚上げされているようですが、そんなところで歴史認識を持ち出す以前に、終戦なんていって誤魔化している方が変だと思います。
ともかく、事実は事実として変な付加価値を持たせる必要はないのです。
東京大空襲は東京大空襲です。
3月10日という、日本の陸軍記念日をきちんと知って意図的にしかけられたアメリカによる民間人大量虐殺計画です。どんなに美辞麗句を用いて「戦争終結を速めるため」とかなんとか言っても大勢の民間人が大量に殺戮された事実は事実です。
その因果関係を「日本のアジア侵略」だけに安易に求める歴史認識もどうかと思います。
もちろん、日本の被害を一方的に言っていればいいとは思っていません。認識は必要です。
しかし、「東京大空襲」や広島、長崎にまでアジアへの侵略を持ち込む必要があるでしょうか。
アジアが反旗を翻して東京に空襲してきたとか、広島や長崎に原爆を落としたならいざしらず、それを行ったのはアジアの国々ではなくアメリカです。
なんだかそこに都合のいいすり替えが行われている気がします。
先日、ハワイの真珠湾に行ってきました。
海に漂うメモリアルホールは撃沈された戦艦アリゾナの上にあります。
私の立っている足元には多くの人達が眠っているのです。
その事実だけで十分です。漂う水面を眺めながら、私は海の中に眠る人に国籍や人種や過去の経緯に関係なく哀悼の意を表し、手にしていた蘭の花を投げ入れました。波に漂いながら、蘭は流れていきました。
そこには真珠湾攻撃に日本が到った詳しい経緯など記されていません。
あるのはアメリカ側の言い分です。
アジアに侵出し、植民地化に精を出していた欧米列強の脅威を感じた日本の姿などなく、卑怯にも不意打ちを食らわしてきた日本の姿がありました。
インドネシアに行った時も同じです。
インドネシア人を労働者として酷使していた日本の姿がありました。
どこの国でも戦争に関わるメモリアルホールには自国の言い分のみを出しています。
他人の国の顔色をうかがって、自国の人の痛みを第二に追いやる国なんて日本以外には存在しないでしょう。
東京大空襲の責任をどこに求めるかは思想、主義によって違うと思います。
しかし、事実はアメリカ軍によって多くの民間人が炎の中に焼き尽くされたという残虐なものであり、そこには因果関係を述べる必然性などないと思います。
戦争の悲惨さは「その眼前に繰り広げられる事実」にのみ絞って説得してこそ説得力があり、付け足したような「でも日本もこういうことしてたから」だの「アジア諸国では加害者だった」だのといった弱腰では真の平和を求められません。
戦争には負けた側の論理は通用しないという原則があります。
先の戦争でも日本は負けたのであり、日本の論理は世界では通用しません。
それならば、なぜ自国ですらそれを放棄するのでしょう。
南の島で死んでいった日本人はそれを望んでいたでしょうか?
バンザイクリフから海に飛び込み、自決した民間人達はそれを望んでいたでしょうか?
東京大空襲、広島、長崎、その他の空襲で亡くなった人達、それらの空襲で身寄りを失い、戦災孤児となって路頭にさまよい、消えていった少年少女達、旧日本領から引き揚げる最中に生命を落とした人達、たくさんの人達の思いは「でも日本はアジアで迷惑をかけた」の一言でつぶされてしまうのでしょうか?
結局は自分達が敗戦したんだという認識がないのです。
アメリカ様に戦争を終わらせていただいたという発想でしかなく、あの悪辣な大日本帝国軍が起こした戦争をアメリカ様が正義を持って止めさせてくれたという発想で今の日本は生きているのではないでしょうか。
悪辣な戦争で死んだ日本人は悼まれることがなくてもしょうがないとでもいうような歴史認識。
ぞっとします。
歴史認識と事実は別です。
あの炎の中で燃えていった人達の傷み、哀しみ、苦しみを自分の身に置き換えて考えたことがありますか?
あなたの愛する人がそういう死に方をしても「アジアの国で日本がひどいことをしていたのだからしょうがない」という言葉だけで納得できますか?
大量虐殺や戦争の因果関係を見つけようとするのは容易ではないのです。
日本はすぐに「アジアへの侵略」という言葉で先の大戦をまとめようとするのですが、果たしてそれだけでしょうか?
日本以外の国はアジアに侵出していなかったのですか?
日本以外の国はアジアに迷惑をかけていなかったのですか?
それならば何故、日本が去った後に多くのアジアの国に旧宗主国が嬉々として戻ってきたのでしょうか。
私の親友のお父さんは学校教育を三種類の言葉で受けています。
最初はオランダ語、次に日本語、そしてオランダ語を経てインドネシア語。
日本の敗戦イコールアジアの解放にはならなかったのです。
一番身近でうるさく言ってくる国が解放されたからといって、全てがそうだと思ってはいけません。
旧ユーゴスラビアで起こっている紛争は遠く東ローマ帝国にまでさかのぼるのだそうです。
それでは先の無差別殺戮に関するメモリアルホールを建てるとして、彼らが東ローマ帝国までさかのぼって因果関係を示すでしょうか?
しらけるだけです。
因果関係を知りたければ、参観した人が自分で調べればいいのです。
そこでは戦争の残虐さ、無意味さ、悲惨さ、大量殺戮のむごさを訴えるだけでいいと思うのです。
ある歴史的事実について歴史的因果関係を求めると泥沼になります。
事実は事実として受け止めればいいのです。
小利口ぶって変な因果関係を出そうとするよりも、事実が無言でも雄弁なことにすべてを委ねればいいのだと思います。
戦後54年目が始まりました。
次の敗戦記念日までの364日、世界中での紛争がひとつでもなくなっていることを望みます。
minmin@geocities.co.jp